ここから始まる

ベラ氏

1

 ことの起こりは一年ほど前だ。

 私は民俗学会に出席するため、三泊四日の行程で東京に出張していた。散会後、私はかつてのゼミ生の誘いを辞去し、早々に宿へと引き揚げた。

 年のせいだろうか。最近ふと、こちらで過ごした学生時代を思い返すようになった。定年を迎えれば、こう足繁く通うということもなくなるだろう。私はふと思い立ち、帰りの飛行機を変更した。車で一日こちらを回ってみることにしたのである。


 翌日は朝から小雨だった。早めにチェックアウトするとレンタカーを借り、かつて暮らした学生街へと向かった。

 すべてが元通りとは行かなかったが、何度となく夜を明かした麻雀屋も、卒論を製本した印刷屋も、このご時世細々ながら営業を続けていることを知り私は安堵した。ただ下宿のあった方面はバブル期の区画整理の影響か、ほとんど面影を留めていなかった。

 大学構内にまで入ってみようかとも思案したが、付近の駐車場の高いのには閉口した。長い年月ですっかり長閑な地方暮らしが染み付いていたらしい。おいそれと路肩に駐車していたらすぐに持って行かれてしまう。頭上低く垂れ込める雲のせいもあるだろうが、私は少々憂鬱な気分になりかけていた。

 そうだ、まともに行かなかった大学の周りなどうろついていても仕方がない。あの頃よく飛ばした246号沿いなら、まだ何か見るものもあるだろう。そう思い直し、私はハンドルを切った。


 しかし荒っぽい時代だったな。あれは二回生の頃だったろうか、車で第二京浜を飛ばして横浜のダンパへ、といってもおれは貧乏学生だったから同級の医者の息子のポルシェに乗って……そうか、911というのを見たのもその時が最初だった。とにかく、会場へ着くやいなやあいつは飲み比べを始め、みんなが止めるのも聞かず同じくへべれけになった女の子を引っかけてパーティを抜け出した。置いてきぼりを食ったおれはひどく腹を立てたが、それもその911が20分後、時速80 kmで中央分離帯に衝突したというニュースを聞くまでの話だった。それからというもの、そのパーティにはそいつらが「来る」という幽霊話が広まり、会場は適宜変更された。幽霊になった知り合いがいるというのはまあ、珍しい話かもしれない。そいつらを止め損ねたパーティの主催もおれも、何かしらお咎めがあったわけではない。今ではタダじゃ済まないだろう。そう、あれもこんな、小雨の降る晩秋のことだった……。


 ぶるっ、と身体の震えるのを感じた。ワイパーのシャッ、シャッという音が無機質に響く。まさかあいつらが今さら出てくるでもあるまいが、何にせよあまり気持ちのいい話じゃない。カーラジオのスイッチを捻り、暖房も付けた。女性パーソナリティの声が飛び込んでくる。FMヨコハマ、というのか。これも私の学生時代にはなかった。気が付くと時刻は昼過ぎを回っている。車は新二子橋、川崎に差し掛かっていた。

「多摩川ゆうえんち、10月25日リニューアル!」

 CMが始まった。多摩川ゆうえんち、女の子を引っかけて1、2度行ったことがある。ここからはそれほど遠くないはずだ。まだ営業していたとは。

「懐かしい? それとも新しい!? レトロな昭和が戻ってくる!」

 戻ってくる、か。私は苦笑した。飲酒運転が説教程度で済まされていた時代に戻ってこられても困るだろう。しかしまあ、話のネタとしては悪くないかも知れない。雨脚は徐々に強まり陰鬱な気分も増していたし、腹ごしらえをする必要があった。どちらにせよ特に行く当てもないのだ。気が付くと私はカーナビの目的地を入力していた。


 小高い丘の上に、かつての日劇を小さくしたような映画館が見えてきた。45年前に映画館などあった記憶はないので、リニューアルで新しく建てたものだろう。随分思い切ったことをするものだ。私は脇の駐車場に入った。車を停めてしばらく歩くと、「憧れのハワイ航路」が至るところに置かれたスピーカーから流れてきた。レトロな昭和、か。私は独りごちた。言われてみれば確かに、これも昭和のヒット曲だろう。ただし「私の」昭和ではない。デートでここに来ていた時代には、朗々とこれを歌っている岡晴夫、だっけか、あとは笠置シヅ子だとか、そういう名前はジュラ紀の恐竜も同然だった。しかしよく考えてみれば、あれはほんの30年前の音楽に過ぎなかったのだ。今で言えば、ミスチルだとかドリカムだとか、そういう位置付けだ。時間の感覚というのは不思議なものだ、私が単に年を取ったせいなのか、それとも――。

「いらっしゃいませ~、どちらのチケットになさいますか?」

 いつの間にか切符売り場に着いていた。「どちら」とはどういうことだろう、どこからどう見ても大人ひとりではないか? 私が戸惑っていると、係の女性は気の毒そうな顔をして、老人用と思しき大きな活字で示されたチケットプラン一覧を差し出した。

「こちら入場料金プラス園内で使える多摩川ゆうえんち通貨をご購入いただく形となっております。園内ではお買い物やお食事はこちらのみがご使用いただけます。一番お安いのですとAプランからございまして……」

 気がつくと私は言われるがまま、7,800円の一日レジャーパックを買わされていた。基本料金とゆうえんち通貨350「圓」セットというわけだ。本来基本料金だけ払えば入れたのだが、そんな説明があったかどうか。マスコットキャラクターと聖徳太子がわざとらしく並べられた「圓」紙幣を財布に入れながら私はふと、使っている携帯電話の更改期間が迫っていることに気付いた。こんな調子では、帰ったら娘夫婦に相談しなくてはならない。


 結論から言うとそこはたしかに「昭和」だった。いや、昭和であって昭和でないと言うべきか。

 私が小学校に上がる前の昭和30年代か、はたまたもっと前か。精巧に再現された「三丁目商店街」は全長200メートルほどのアーケードで、ほとんどが木造か瓦葺きの二階建てで統一されていた。煉瓦造りの写真館という一角だけが戦前モダンの面影を残しているが、これは空襲で焼け残ったということか。商店街のそこかしこでは割烹着のおかみさんに酒屋の御用聞き、おっちょこちょい警官といった組合せでコントめいた寸劇が行われ、人だかりができている。その脇をパフォーマーなのかコスプレをした客なのかわからないが、制帽に黒眼鏡、詰め襟姿の数人の大学生が記念撮影に応じていた。大抵の商店は売り場と畳敷きの生活空間が直結していて、黒電話もその前の壁掛け電話も引かれているし、八百屋の前には例の三輪車、ミゼットが止まっている――それは確かに、少年期を過ごした博多の小さな商店街によく似ていた。いや、日本中どこでもこんなものだったろう。

 だが、何かが違う。

 私はスマホを高々とかざす若者たちの間を縫うように歩きながら、胸中に生じた違和感の正体を探し続けた。若者や家族連れの声に混じって、アジア人と思しき観光客たちの外国語も聞こえてくる。彼らだろうか? いや、客層の所為などではない。各々昭和の格好をした従業員たちが揃ってフェイスシールドを付けていることでもない。もっと何か、根本的なところで違っている感覚があるのだが――。

「匂い」、か。

 私ははたと気付いた。ここには匂いがない。

 あの商店街の脇を流れており、大雨が降ると必ず周囲を水浸しにしていたどぶ川の匂いがない。酔っぱらいの吐瀉物の匂いもなければ、トリートメントなど存在しない時代の、ギトギトに固められた頭髪の匂いもしなかった。

 

 だいいち、あんな民家のちゃぶ台の上に剥き出しで果実の盛り合わせなど置いておいてみろ、魚屋の隣だぞ。5分もしないうちにハエがたかり、目も当てられない有様になる。それを防ぐために食べ物には籠をかぶせ、電灯からハエ取りリボンを吊したんだ。ハエというのは凄い。人気のない河原でも、野グソをすれば10秒としないうちにたかってくる。そうだ、あの頃は悪ガキに限らず、大の大人でも立ち小便くらいは普通だった。コンビニなんてないのだから。しかしそこらの電柱ならともかく、わざわざ河原に行って野グソを垂れる時には気をつけなければならない。そこにはシャブ中毒者の使ったであろう注射針がゴロゴロ転がっていたからだ――。


 私は急速に気持ちが冷めていった。年寄りの冷や水、というのはこういうものか。いや、そんな由緒正しい日本語ならまだましで、「マウンティング」の一言で片付けられてしまうかもしれない。

 取りあえずこのゆうえんち通貨とやらを使い切って、一服してから帰ろう。そう思い、私は「大衆食堂」を覗いてみた。こざっぱりした店内の各テーブルには飛沫防止のアクリル板が設置されていて、とても煙草を吸いながらビールを飲める雰囲気ではない。昭和ではないのだから当然だろう。壁には「ライスカレー 百圓」「ビール 二十五圓」などのメニュー札が下がっていて(いつの物価基準だろうか?)、その端には同じくわざとらしい手書きの字体でこう書いてあった。

「アレルギーの有無等については、従業員までお尋ねください」

 アレルギー! あの時代にアレルギーに気を遣う発想などあったら、日本の人口はのちの何倍になっていただろうか。そうだ、私にも「虚弱体質」で乳幼児のうちに死んだ兄がいたのだ。私の生まれる前、昭和20年代の話だが。あれは今で言うアレルギーだったのだろう。


 そういろいろ考え事をするうちにいつの間にかアーケードは切れ、細かい水滴が顔を叩いた。傘を差さずに済む程度には小降りになったようだ。ずいぶん外れまで来てしまったらしい。目の前には荒涼たるすすき野原が広がり、その向こうに雨で濁った多摩川が流れていた。ここら辺は開発のとき手を付けなかったのか、昔のままだ。ただし柵で隔てられていて、川岸からの無断入場を防ぐためか、等間隔で監視カメラが据え付けられている。私は入り口で配られたマップを開いた。喫煙所らしきものはこことは別のアトラクションの点在するエリアにあり、500 mはゆうに歩く必要がありそうだった。諦めて帰った方が無難なようだ。

 そう思って地図から目を上げると、そこにはぽつんと、一軒のたばこ屋があった。いや、これもかぎ括弧付きの「たばこ屋」か。ここでは買うことも吸うこともできないのだから。何にせよ私は取りあえず,軒下を借りて一息つくことにした。帰りの飛行機に間に合うよう、所要時間を調べなくてはならない。

「商店街」のイミテーションに較べると、その木造建築の汚し加工はやけに気合いが入っていた。台風か何かで傷ついた外壁を修復した跡すらあった。脇に置かれた赤電話も、長いこと陽射しを浴びたのか色が薄れかけていた。もちろん、リサイクルショップか何かで手に入れたのだろうが・・・・・・。窓口には髪をひっつめにした小柄な女性がちょこんと座り、婦人雑誌を読んでいた。この従業員に話しかけてみるか、「煙草を吸っても構いませんか」と。いや、それは・・・・・・私は急速に自分がマウンティングどころでない、頑固で救いようのない老人になった気がした。子どもの頃に遊んでいると木刀を振り回して出てきたような、ご近所の頭のおかしい老人。そうか、あれはこうして一丁上がりという訳だったか。


 その周囲には不思議と人影がなかった。記念撮影に熱中していたアジア系観光客の歓声も日本の若者グループのそれも、ここまでは届いてこなかった。そもそもこんな物寂しいところに建物を作って、人が来るのだろうか。私は鞄からスマートフォンを取り出すと、老眼鏡をかけた。近頃はこれがないと何も見えない。文字を入力し始めると、カラカラというリヤカーを引くような音がする。係員が何か運んでいるのだろう。電波状況が悪いようで、地図アプリが反応するには随分時間がかかる。反応を待っているうちにリヤカーの音は私の2 mほど前を通り過ぎた。とその時、ポイッと白い何かが視界の端に投げ捨てられた。何だろう。私は老眼鏡を外した。

 ピントが戻った私の視界に飛び込んできたのは、煙草の吸い殻であった。一つや二つではない、私の周囲にはそれが誰憚るでもなく一面に散らばっていた。私はリヤカーの去っていった方向を見た。労務者――正しくこの言葉が相応しく思えた――の薄汚れたランニングシャツの背中が、遥か遠くに見えた。

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