ブラッドオレンジ

深川夏眠

Blood Oranges


 いい香りがしますね、って? ええ、キッチンカウンターのトレーに果物を盛ってありますでしょう。ブラッドオレンジです。爽やかですよね。中でもタロッコと呼ばれる品種で、国産ですよ。

 昨今はシーズンになれば近所のスーパーの青果コーナーにも多少は並びますけれど、昔は精々イタリア料理店でジュースが飲める程度でしたね。収穫量がさほど多くないらしいんです。しかも、傷みやすいから、輸入品といったら飲み物に加工して冷凍で送られてくるぐらいだったとか。

 今では春先に、あの硬球サイズの赤い果実を見かけたら、必ず買って帰ります。

 一つばなしがありましてね……。


                  *


 春休みというのは、どうにも曖昧で不思議な期間でしたねえ。夏ほどゆっくり、たっぷり羽を伸ばせるでなし。冬ならクリスマスやお正月の楽しみがありますけれども、そんなのもなし。子供は遊びたがっても、親は年度末でバタバタしていて、遠出もままならない。動き回れば汗を掻く、かと思えば不意に寒さがぶり返し、下手をしたら風邪をひく。

 退屈な反面、ふと、いいことが起きそうな漠然とした予感が頭をもたげて近所をそぞろ歩き、結局、何事もなく空振りで帰宅する――。

 そこへひょっこり舞い込んだのが、サーカス団の巡業の知らせ。友達を誘って観に行こうと思いましたが、みんな忙しいと言って取り合ってくれない。

 せっかくの機会なのに……と、石ころを蹴りながら河川敷へ向かうと、想像の十分の一くらいのテントが設営されていてガッカリしました。そもそも田舎町の片隅に仮設小屋をこしらえようというんですから、立派な建屋たてやでないのはわかり切っていましたけれど、とにかくいる。頭の中で躍動していたライオンだの象だのは雲散霧消。

 せめて美女の綱渡りでも拝めれば……なんて、ガキのくせにいっちょまえにスケベごころを起こしましたが、現れたのはひょうがらのセットアップを着たな青年。ボトムスのお尻に長い尻尾がぶら下がっている。フードにはご丁寧に耳が立ち、遠くから見たら細身の着ぐるみだと思ったかもしれない。そいつをパッと後ろへ放ったら、中途半端な長さの茶色い髪に金のメッシュが入っていた。顔に垂れかかるのを鬱陶しそうに搔き上げると、右目に黒いアイパッチ。もう寸劇が始まるのかと思いましたよ。

「よう、坊主。食うか?」

 返事も聞かずにボールを投げて寄越したから、慌てて両手でキャッチ。いや、球ではなかった。それがタロッコだったんです。

「ミカン? 硬いけど……」

「ちょっとばかし皮が厚いのさ」

 青年は手品よろしく、どこからともなくもう一つ取り出すと、ペティナイフでクルクル器用に果皮を向いて渡してくれたので、先に受け取った一つを返しました。

 中果皮アルベドというんですね、房を包み込んでいる白い綿状のものは。そいつに厚みがある、と。を削ぎ落とされた果実は光り輝く妖しい赤で。指の隙間からルビーが液状化したような深紅の雫が滴り落ち、急いで口をつけて吸うと、濃厚な甘さと鋭い酸味、そして、爽やかな苦みが舌を刺しました。

 喉の渇きも手伝って、つい夢中で齧りついてしまったから、果汁がブシュッと飛び散ってになりましたよ。

「うわ、しまった……」

「ハハハ」

 水道のある場所へ案内され、手や顔を洗ったまではよかったけれど、カットソーを派手に染めてしまったあと如何いかんともしがたく、

「ポリスマンに見咎められたらコトだな。人を襲った吸血鬼みたいだぜ」

 テントとは別の物置らしいところから、大人のXLサイズとおぼしいTシャツを引っ張り出して、スポッと被せてくれました。

「ありがとう。ごちそうさまでした」

「どういたしまして」

 彼は大昔のヨーロッパ貴族風のポーズで挨拶した。後で調べて、bow ボウ・and アンド・scrapeスクレイプと呼ばれる仕草と判明しました。

 両親は仕事から戻っていませんでした。教わった手順で染み抜きをして、衣類を洗濯機に入れ、冷凍庫の惣菜を適当にレンジで温めて夕食を終え、互いに名乗らずに別れたことに気づいたのです。おかしいですね。

 翌々日、Tシャツが乾いたので手提げ袋に入れて、河川敷を再訪しました。彼はやっぱりスリムな肉食獣の着ぐるみもどきコスチュームでしたが、前とは微妙に色柄が違う。舞台衣装であってほしい、こんな私服ばかりだとしたら、ちょっといる……などと考えていると、再度、

「よう、坊主。食うか?」

 かぶりを振って借り物を返しました。頷いてしまったら二の舞を演じて、またみたいになりかねないと思ったので。

「ご丁寧に、どうも。今日は安全な飲み物にしておくか」

 彼はタロッコを絞って作った真っ赤なジュースを振る舞ってくれました。生の果肉を食べたときより一層、味が濃い気がして、おかしな言い草ですが、子供には刺激が強過ぎると感じたものでした。

 容器がからになると、

「おい、坊主。春休みでカラダがんだろ。運動しようぜ」

 有無を言わさずキャッチボールをする羽目に。ケモノの耳と尻尾がスイング。そして、一投ごとに他愛ない受け答えの応酬。最近読んで面白かった本は。好きな子はいるのか……。

「そんなことより、ねえ、サーカスなんでしょ。いつ始まるの。他の人たちは?」

「途中でアクシデントが起きて予定どおりにならんのよ。お陰で退屈で」

 だからヒョッコリ現れた子供の相手をして暇を潰していたのかと、納得しました。

「おにいさん、何する人? 空中ブランコ?」

「設備があれば出来る。ここでは無理だがな」

「だったら、どうするの」

 すると、彼はグローブを置き、草の上で美しい片手倒立を披露しました。重力を無視して、いとも易々と。たっぷり十秒、身じろぎもせず。

「えー、他には?」

 囃し立てると、彼は気をよくしたのか、パーカーを脱ぎ捨て、次々に妙技を繰り出したのです。

「すごーい」

 さすがに多少、乱れた息遣いになり、髪を手櫛できながら、

「しまった、で見せちまった」

「うーんと……そしたら、代わりにごちそうするよ」

「へえ。どっか連れてってくれんのか、もしくは坊主が作るってか?」

「どっちがいい?」

「じゃあ、コイツを上手く扱えたら信用してお邪魔しよう。まずはテストだ」

 彼は紙袋からTシャツを出し、入れ替わりにタロッコをドサドサ放り込みました。

「オレンジで? 料理?」

「そう。やってみな」

「……うん」

しからばオマケでござい」

 血のような夕陽と川風を浴びて、鮮やかな。鞭のごとくしなる優美なけだものの尾。

 目をつぶると闇の中に何度でも残像が浮かび上がります……。


                  *


 しかし、つましい晩餐会は実現しなかった。あ、とうとう一度の公演もないままサーカス団が引き揚げてしまったと思いますか?

 違うんです。こっちの都合でして。当時、両親が離婚を射程に入れて支度を進めていたんですけど、急転直下。父に引き摺られて車に乗せられ、町を離れたのでした。タロッコの袋を抱えてね。

 まったく、取る物も取りあえずとは、まさにあのこと。離別どころの騒ぎじゃありませんよ、何たって、戦争がおっぱじまるってんだから。二進にっち三進さっちも行かなくなる前に逃げなけりゃ、って。

 ああ、やっぱり首肯しかねるといったお顔ですねえ。皆さん一緒だ。いつの時代の話だよ、と。おふくろさんから引き離されたショックで辛い夢でも見たんだろう、現実の記憶と映画の場面やらがになってるんじゃないのか――ってね。

 あるいは、あれですか。とうとう名前も訊かずいのサルタンバンクがアクロバットを見せてくれたかわぺりがあったのは、今こうして座っているとは別の世界だったんでしょうかね。うん、そう考えた方がスッキリするかな。

 おお、そろそろ冷えた頃だ。酒の肴にサラダを召し上がりませんか。今時分だけですよ、これを味わえるのは。タロッコとクレソンです。アクセントにブルーチーズをって、まぶしましょう。簡単なカクテルはいかがです? ビター・オレンジなど。ビールとオレンジジュースをステアするんです。それをブラッドオレンジでやろうってワケで。

 綺麗ですねえ。思い出しますよ。一度だけ、汗を掻いた軽業師が眼帯を外すのを見ました。普段隠している一方の眼は、あたかも、この果汁が凝結したかのような、深く潤んだ赤い色をしていたのです……。




              Blood Oranges【END】




*2022年3月 書き下ろし。

*縦書き版はRomancer『月と吸血鬼の』にて

 無料でお読みいただけます。

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116522&post_type=rmcposts

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