二話


「ごめんね、待った……?」


 待ち合わせの砂浜に、小波の音と混じる声が後ろから。振り返る僕の瞳を小さな手が遮った。


「ごめんね、そのままで、居て?」


 微かに震える手と声。間違いなく彼女だ。海水の匂いと彼女のシャンプーの香りが一緒に僕へ届いた。


「君はいつも謝っているね。良いよ。このまま、目を閉じてるから。」

「ありがとう。」


 僕と彼女しかしない夜の砂浜。街灯なんてない。どうせ目を開けた所で何も見えやしないのに。そう思うと少し笑えた。


「今日の話の続きだけど。」

「人魚の話?」

「そう。私のご先祖様の話。旅をしたって言ったでしょ。どこに行ったと思う?」


 僕ならどうしただろうか。ウロコを欲しがる人々から逃げるならやっぱり海が無いところへ行くかな。人魚なんて信じていなさそうな内陸へ。


「海の無い所、かな?」

「違う。その逆よ。」

「……え?」

「私達の祖先は海へ逃げたの。」


 思わぬ答えに声が喉に詰まる。僕が口を開く前に彼女が声を上げた。


「私達は人魚に戻る事にしたのよ。海の中でひっそりと暮らす事を選んだの。」

「待ってよ。君はここにいるじゃないか。」

「そうね。こんなつもりじゃ、なかったから。」

「どういうこと?」


 思わず開いた瞳の前に、彼女はいた。寄せては返す波側に立つ彼女の表現は暗くてよく見えない。あと少し雲が動いてくれたなら月明かりが彼女を照らしてくれただろうに。


「あの時、本当はわざと貴方に脚を見せたの。」

「……え。」

「どうせ気持ち悪いって言われると思って。」

「そんな事、言うはずない」

「人間はっ! 私の知ってる人間はね、心底気持ちが悪いって顔をして、苦笑いして。それでも、ウロコだけは欲しがるの。」


 ああ……。どうしても君の顔が見たいよ。

 触れたいのに、今の君は触っただけで泡になってしまいそうで。どうか、お願い。お月様、彼女を照らしてくれませんか?


「場所がね、分からなかったの。人魚を愛した男が過ごした港町が。それでも人間と人魚が愛し合った場所をどうしても見てみたかったの。色んな所へ行って、その度に傷ついて。削った寿命も尽きるから、もうやめようって思った最後の町で君に会ってしまった。」


 昔話にも出てくる。人魚は陸に上がるため、自身の半分の命を削って尾鰭を人間の脚にかえたのだ、と。そして、もう二度と人魚には戻れない。彼女はそんな代償を払ってまで、ここへ来たんだ。

 

「君になんか会わなきゃよかった。海が私の家なのに、どうしてこんな脚で、陸で、君と過ごしたいと思ってしまうのよ。君になんか……。」

「……っ!!」


 泣き叫ぶ彼女がシャボン玉みたく何処かへ行ってしまいそうで、僕はたまらず彼女の腕を掴んで胸に抱いた。


「好き、だよ。僕は、君が好きだ。」

「……っ!!」

「君は、僕を嫌いかも知れないけど。僕は君が大好きだ。」


 月明かりよ、もう僕らを照らさなくていい。僕ら二人の世界をどうか見つけないくれ。彼女を連れて行かないで。


「何処にも行かないで欲しい。僕と陸でさ、一緒に暮らそう?」

「……。」


 教室の窓際に座る君はいつも遠い目をしていた。薄々気がついてたよ、君は人が嫌いなんだって。


「僕、働くから。学校も辞めて、こんな小さな港町を出て君の好きな所で暮らそう?」

「……っ。」


 生物準備室で見る君の脚のウロコがどんどん多くなっているの、君は隠していたんでしょ。


「君がいつか、僕を好きになってくれる日まで、待ってるから。」

「…………貴方、バカねっ。」


 僕の気持ちは変わらないよ。

 ずっとずっと、君を想うから。


「今頃気づいたのかい。僕は大馬鹿者だけど、一途に君を愛せる有料物件さ。買っておいて損はないよ?」


 頬を伝う涙を見たい意地悪なお月様は今になってようやく顔をだした。

 月光は神秘的に彼女の姿を演出する。亜麻色の髪は潮風と相まってキラキラと輝きを増し、深い海の瞳は晴天を思わせる澄み切った水色に。海水に浸かる彼女の脚のウロコが銀色に光を放っていて、その全てが海の女神を思わせる。


「ねぇ、昔話を信じてる?」

「信じるさ。」

「いつまでも待っていてくれる?」

「待つよ、いつまでも。」


 彼女と僕は海の音に包まれて最初で最後のキスをした。甘くて塩っぱい海の味。彼女の身体はひんやりと冷たくて、そんな所も君らしい。


「必ず貴方に会いにくるから。」

「待ってる、ずっとここで。」


 彼女は自身の脚から一枚のウロコをちぎると僕の手のひらに置いた。そしてもう一度強く抱きしめると小さく「愛してる」と呟いた。

 僕も君の肩に顔を埋めながら「愛してる」と囁いた。本当は大声で叫びたかったけど、海に攫われて小声にしかなからなかったんだ。


「そんな所も君らしいね……。」


 彼女は笑みを浮かべた。あまりの美しさに僕は君の手を離してしまったんだ。


 次の瞬間、彼女は月夜の海に消えた――。


 あの晩の事を僕は昨日の事の様に覚えているよ。

 彼女と別れてもう二十年が経つと言うのに。海辺の小さな家で、今日も海を見つめて君の帰りを待っている。

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心跳ねたら恋せよ人魚 穂村ミシイ @homuramishii

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