涙が流れる理由

脳幹 まこと

タブレット・スピリット


 周りから「ロボット」「能面」と呼ばれてきた。

 親兄弟、クラスメート、先生、上司。今までの20数年の半生において、滅多なことでは、感情を出さなかったからだ。

 母は思春期半ばの俺に向かって、馬鹿にしたように「あんたは産まれた時に産声を上げなかった」とまで言ってのけた。

 不気味がった彼らが俺をからかい、「感情を引き出す手伝い」と称して暴力を振るったことは今でも忘れていない。

 親元から逃げるように東京で就職したものの、「無愛想」という一点だけで、社会人としての赤点ギリギリにまで減点されてしまう。



 赤点仲間の先輩・白塚しらつかさんが、何のつもりかは知らないが、俺に黄色い錠剤タブレットを手渡して「これ、特別に効くヤツ。可愛い後輩に免じて初回はタダ」と言ったのだった。

αアルファ」と彫られた錠剤は、ウェブ検索でも引っかからなかった。白塚さんに関する黒い噂からして、十中八九ヤバいもののはずだ。

 強烈な中毒性、禁断症状によって、心身共に摩耗させる。一錠の価格も馬鹿にならないはずだ。俺をカモにしようとしている、それは明白だろう。

 とはいえ、随分人生に投げやりになっていたのもあって、この錠剤を棄てるでも、誰かに訴えるでもなく、ごく自然に口に含んでいた。

 小一時間待っても何の変化も起こらなかったので、コンビニに立ち寄ることにした。ぼんやりと歩道を歩いていると、目の前の空間がぱっくりと割れて、中から金髪碧眼の女性が現れた。

 目が合った途端に彼女は「私の名前はマリー」と自己紹介し、手が差し伸べられたので、反射的に握手をした。

 とはいえ、どう扱えばよいのか分からなくて、コンビニの代わりに近くの河川敷に向かって、そこに咲いていた花を一本抜いて、彼女に渡した。クスリとも笑わず、感謝の言葉もなく、ただ、両手に持ったまま俺と一緒に歩いていた。

 その姿があまりにもサマになっていたので、俺は彼女に聞こえないように「マリー……マリー……」と呟くだけのデクになっていた。


 気付くと、彼女はいなくなっていた。



 翌日、白塚さんは「買う? 高いよぉ? 高いけど、ヤバいよぉ?」と言ってきた。口からは線香みたいな臭い。「先輩はこれ、どこから仕入れたんです?」と尋ねると「それは企業秘密、金の斧ならゆっきー1枚、銀の斧ならのぐのぐ5枚」と返す。財布からゆっきーをあるだけ取り出して、買えるだけ買いたい旨を伝えると、「少年よ、胎児を抱け」と何錠かくれた。

 家に帰ると、居間の明かりがついていて、昨日の花が一本、瓶に挿してあった。その隣には昨日の華がこちらを見つめていた。サマになっている……良く出来ている……すっかり俺は出来上がる。出来上がっているから、目の前にいる彼女が果たして本物か偽物かの判別もつかなかった。

 偽物と分かっていれば、思うように動いて、それこそ、胎児を抱くようなことも出来ただろうか。実際には、俺とマリーは見つめ合っただけだった。それから、カレーの残りをレンジで温めて、皿に盛り付ける。瓶を挟んで、向かい合ってそれを食べる。昨日のように会話はない。気まずいはずなのに、この激しく痛む沈黙がどうにも心地良くて、テレビをつける気にもならなかった。

 ただ、食べている姿を見ていたかった。


 その翌日は、有給休暇を取った。

「α」を小瓶に入れて、街を散策していると、マリーが花を一本摘んでいた。こちらに気付くと、ゆっくりと近付いてくる。俺から手を差し出すと、握ってくれた。

 あてもなく歩いていた。笑顔にさせたい、とは思わなかった。期待も不安もなく、ただ、座り心地の良い古いベンチに腰掛けた時のような、静かな、静かな時間が流れていた。

 彼女がどこかへ行ってしまうのが淋しくて、その日の間に、何錠も飲んだ。指先の熱感を覚えながら、自分の全財産をすべて錠剤に変えたら、どれだけ持つだろうかということを考えていた。

 別れ際に「この花の名前は」とだけ発したので「ホトケノザ」とデマカセを言った。



 月末のプレゼンで手酷くなじられた。

 他の人たちと同じことを喋っているのに「やる気が感じられない」と突っ込まれて、そこから人格攻撃、否定が始まった。

 顔色一つ変えない俺が余程お気に召さないのだろう。それは心を砕かれない為の防御であり、今さら変えるつもりもない。

 火は燃え広がり、謝罪を求められ、謝罪しても「心がこもっていない」と返される。様々な人が色々な口調で沢山の言葉を使ってなじる。数少ない例外は、すっかり眠りこけている赤点の先輩だけだった。

 この場でふところにある黄色い錠剤を飲んでやったら、何が起こるだろう。そんなことをしている間にお昼休みになった。その後は、俺の順番を飛ばしてプレゼンは進んでいった。

 最低評価を受けた赤点二名は、改善案を出すことになった。一人きりのオフィスで、虫食いの改善案を眺めていると、マリーがホトケノザを一本摘んで隣にいた。

 彼女の服装はいつも赤のワンピースで、殺風景な白黒オフィスにはよく映えた。

 いつクビになるかも分からないが、少なくとも、給料があるだけ彼女と長く一緒にいられる……


 魔法の錠剤に給料を絞りとられ、貯金も残り僅かとなった頃、白塚さんはいつもと同じ抜けた声で「オレ、この会社辞めることになった」と言った。

 俺はさほど驚かなかった。目の敵にされている俺よりも点数が低く、改善案も出さないからだった。勤務時間の半分を呑気に寝て過ごした上で、定時に退社していたような男だ。

「楽しかったなぁ、お前とのやりとり」とボロボロになった歯を見せて、甘ったるい息を吹きかける。この人はずっとこのままだろうな、と思って、それが、どうにも胸につかえた。

「せっかくの餞別せんべつなんで、今回は弾みますよ」となけなしのひぐっちと、のぐのぐを差し出すと、彼はカカカと乾いた笑いを浮かべて、特徴的なジュース瓶状のペットボトル容器を差し出した。

「中に入っているやつ、全部くれてやるよ」とだけ言って、先輩は離れていった。


 それからは、マリーと一緒にいた。

 錠剤が尽きたら、マッチ売りの少女よろしく、倒れることになるだろうと思った。

 瓶に挿したホトケノザは一本ずつ増えていった。古いものから、枯れてせてしなびて、使い終わったマッチのようだった。

 どうにかして錠剤が欲しくなって、自分で作ろうとしたこともあった。しかし、幾ら試そうとも偽物ではマリーは出てきてくれなかった。

 会社からの圧力は強まっていく一方で、どうにか自主退職か、大義名分を作って解雇に追い込みたかったようである。ただ、無愛想というだけで、ここまで手酷くされる理由は分からなかった。防御を解いた瞬間、粉々にされてしまうだろう。

 それなら、いっそのこと……

 上司の名前を呼ぶと、彼は心底不愉快そうな顔でこちらを見た。

「ど、ど、どどどど、どうしてっ、ひどい、ぼくのっ、ごと、みんな、そ、そんなに、みんな、ぼく、そんななに、ひどい、目にあわせせっ……」

「意味が分からん、もうちょっと整理してから来い」



「α」が残りの一粒になって、まだ自分の名前さえ伝えていないことに気付いた。

 夜、彼女と最初に会ったコンビニへの道で、口に含んだ。


 いつもの時間になっても、彼女は現れなかった。

 俺は不思議と納得していた。今まで必ず現れてくれたことの方が奇跡的だったのだろう。そういう代物でも効果が薄かったり、悪い側面だけ現れたりすることもあるのだから。

 次に明日からのことを考えた。反抗するのももう辞めた。このまま、ぶら下がり続けてもいい。出費の原因がなくなったのだから、お金はまた貯まっていくだろう。生きる意味も、死ぬ意味もないことは、学生の時に散々悟っているから、ぼんやり生き続けることに異論はない。

 堂々巡りが続いて、河川敷や、今までめぐった場所をふらついて、気付けば、黒い空が青くなっていた。自宅が見えてきて、鍵を取り出そうとポケットに左手を入れると、ホトケノザと名付けた一本のワスレナグサがあって、右手にはあの熱感が伝わっていた。


「待ってた」とだけ伝えた俺の手を、彼女は引っ張っていく。

 何のことかさっぱり分からないまま、鍵を開けると、机の上にワスレナグサが塔のように積まれていた。上は瑞々みずみずしく、下は萎びている。

 それを見てようやく、彼女が現れなかった理由を悟った。

 反射的に俺は抱きしめていた。草の匂い、土の匂い。

「良かった」とだけ彼女は伝えた。


 花の塔が崩れて、目を開けたら、マリーはいなかった。


 慣れない感情が溢れてきて、止まらなかった。

 涙が流れる理由を、初めて知った。

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