いつでも恋は私を乙女にして

澁澤 初飴

第1話


 彼に初めて会ったのは、主人の枕元でだった。

「きっと、あなたを支えて行きます。よろしくお願いします」


 控えめな言葉、優しい目。真っ黒な短めの髪をすっきりと整えていて、縁なしのメガネが似合う。暗い色のスーツが素敵だ。

 こんな男性と2人きり、いや主人は、やっぱり主人のことはまあいいか、2人きりなんて。


 恥ずかしさに思わずうつむく私の肩に、彼が優しく手を添える。

「さぞおつらいでしょう。七十年も連れ添われた方を亡くされるのは。私共ナウエス葬祭が、きっと故人様を偲ぶのにふさわしいお式に致します」

 彼は優しい、しかし思いやりに満ちた控えめな微笑みで私を労った。


 葬式は何度も出ているけれど、喪主は初めてだ。色々決めなければならないことが多く、米寿も過ぎた私にはなかなか堪える。子供でもいれば良かったのだが。

「お疲れですか、少し休まれますか」

 彼が気遣わしげに私を見つめる。ああ、素敵、その目。

「いいえ、大丈夫」

 彼が側にいてくれるのだから。

 私は気力を奮い起こし、柩にかける覆いの模様を基本料金内のものに決定した。


 私と夫は見合いで結婚した。お互い嫌いではないからまあいいか、くらいの感じで結婚したと思う。誠実な人だった。私をずっと大切にしてくれ、私も夫を立ててここまで生きてきた。

 子供を授からなくても夫は私を捨てるようなことはせず、むしろ大事にしてくれた。原因が私ではないことを、私がそれを病院で確認して諦め、夫には告げずにいたことを薄々勘づいていたのかもしれない。

 ともかく手に手を取り合い、たまにはケンカもしながら、ここまで生きてきた。


 ああ、あなた。あなたの最高の女房孝行は、死んでからだったのだわ。


 親戚の勧めで入ったナウエス葬祭の互助会。満期までかけ終え、忘れていたが、主人が亡くなるとすぐに彼が病院まで来てくれた。

 雷に打たれたようだった。

 思わずよろめいた私は、彼のほっそりして見えるのに力強い腕に支えられ、あの言葉を聞いたのだった。


 通夜、振る舞い、葬儀までの様々な行事。

 喪主がしなければならないことはたくさんあったが、親戚も、何より彼がずっと付き添い、励ましてくれた。私は彼に頼り切り、支えてもらいながら何とか役目をこなした。彼はずっと私を気遣ってくれた。私は波立つ心をシワに隠して、でも隙あらばそっと寄り添った。これが女の手管、年の功というものだ。私だって伊達に女でいた訳じゃないんだから。


 私は久しぶりにときめく気持ちで鏡に向かい、明るい口紅をさして、苦笑した。

 ダメ、こんな色。お葬式なんだから。

 すぐに拭き取り、いつもの習慣で塗っているメイクに変えた。それでもシワの間までしっかり、しかしなるべく薄く塗った。だって時間が経ってシワに白粉がたまってしまったらみっともないもの。

 そしてふと手を止める。

 お葬式が終わったら、彼は去ってしまう。私と彼の小さなつながりは切れてしまう。

 当然だ。彼は仕事だ。わかっている。

 けれど、彼の優しさは本物だ。彼が私を見つめる目に確かに存在する気遣い、思いやり。


 こんな男性に出会えて良かった。


 やはり私は明るい口紅をさしなおした。この年だ、思い残すようなことはしたくない。今の私の一番きれいなところを見てほしい。


 私は夫の葬儀の間、背筋を伸ばし、立派に喪主を務め上げた。最後の挨拶では彼と別れることの切なさに思わず言葉が詰まったが、会場はそれをいいように解釈してくれて、見送りの時には私に親身になってくれる人が大勢いた。

 葬儀後の会食も済み、いよいよお別れだ。

「ありがとうございます、あなたのおかげで夫を見送ることができました」

 私は彼を見つめた。ずっと行事ごとを共にしてくれた彼も初めて見た時より疲れた顔をしていた。そこも素敵だ。

 彼はその疲れた顔に優しい微笑みを浮かべた。

「あなたのお手伝いができたなら何よりです」

 心がきゅんとした。私はそれを冥土の土産にする。


 ひとりの暮らしは慣れている。夫は長く入院していたから。病院に通わなくていい分楽でいい。

 しかし、この寂しさは。

 突然胸が痛くなる。心筋梗塞か、遂にお迎えかと思ったが違う。この痛み。

 半世紀以上前に味わった、懐かしい恋の痛み。

 彼に会いたい。でも、彼には彼の世界がある。私はただの、彼の客のひとりだ。

 私は彼との甘い記憶を追い、仏間にいることが多くなった。訪ねてくる人は私のその様子を貞女の鑑と思うようだ。心の中は相手には見えないから、私はそういうことにしておく。


 訪問者も少なくなり、ようやく葬儀の疲れも癒えて生活が落ち着いてきた頃。


 再び彼が現れた。

「お変わりはないですか」

 私は泣き出したくなる。

「やはりまだお寂しいですよね。今は気が張っておられますからいいですが、お体には気をつけてくださいね」

 ああ、やっぱり彼は優しい。メガネの奥の瞳が私を見つめる。

「本日は、オプションで入っておられた四十九日のプランのご案内に」

 四十九日。

 私は喜びのあまり息が止まりそうになり、三途の川を渡ってしまうかと思った。

 ああ、なんて素敵なの。私はまた夫に感謝した。

 これからは法事があるではないか。

 毎日は会えないけれど、また彼に会える。四十九日、百か日、一周忌、三回忌。

 全部やるわ。やりきってみせるわ。だから、力を貸して。

「よろしくお願いします」

 私は彼を見つめた。彼は微笑んだ。私はときめく。


 約束するわ。石に齧り付いてでも長生きして、十三回忌、いえ十七回忌、三十回忌までやってやるわ。


 私はうっとりと彼を見つめ、四十九日の会食の内容を基本料金内のものに決定した。


 

 

 



 

 

 


 

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