孤独な瞳と歪な春
いいの すけこ
それは春風のように
風の暖かさも、開いた花の香りも届かない。
今、世界は春で、命あるものが輝く季節だという。
「こんな気持ちのいい季節に閉じこもっちまうなんて、お前ってやつはよ」
頭に靄がかかるような眠気だけは、間違いなく春のもの。男が突っ伏した机に、なにかが飛び乗ったような軽い衝撃があった。
「うるさい」
「ま、お前に季節は関係ないわな。春夏秋冬、四六時中ひきこもり」
悪態に、男はのっそりと顔を上げる。年の頃はわからない。鼻先まで伸びた前髪が、目元を覆い隠していた。
「黙れ。使い魔のくせに生意気を言うな」
先程から辛辣な言葉を浴びせていたのは、白い毛並みの猫だった。机の上に座ったまま、ふんすと鼻を鳴らす。
「使い魔? 笑っちゃうね。いいか、俺は魔法でお前に使われているわけじゃない」
猫はやらわかな体をしならせた。伸びをするような姿勢で、男の顔を覗き込む。
「お前、魔法なんて全然使えないんだから。使える力はたった一つ」
そこまで言って、猫は背後に飛び退った。今までいた場所に、男の拳が飛んでくる。振り払う仕草で軌道を描いた拳は、インク瓶をひっくり返した。
「おっと。ぶち猫になっちまわあ」
「いい加減しないと、叩き出すぞ」
「俺は先代の時代からこの家に仕えているから、居付いているまで。先代はすでに亡く、お前はろくすっぽ魔法も使えない。いつだって出ていってやっていいんだぜ」
代替わりして以来、朽ちていく一方の家。猫は埃の積もった梁を見上げた。反対に男は視線を下げて、机のインク染みを見つめる。
「……なら、出ていけばいい」
「出ていっていいのか?」
こぼれたインクを器用に避けながら猫は歩き、男の鼻先でいう。
「俺がいなくなったら、さびしいだろう。独りぼっちさん」
「……うるさい」
吐き捨てた言葉は力なく。拗ねた子どものようだな、と猫は呟いた。
「春は出逢いの季節っていうぜ? 腐ってないで、出逢いを求めてみちゃどうだ」
「馬鹿な」
それだけ言って、男は暗い瞳で笑った。
「臆病者」
だから猫も、短く返す。
男が一日のほとんどを過ごしているのは、庭に面したサンルーム。本来なら採光の良い部屋であるはずなのに、大量の蔦が絡みついてもはや硝子張りである意味がない。風雨にさらされた硝子窓はいつだって曇っている。主の暗い理想を反映したような部屋だった。
「こんにちはあ!」
唐突に、薄暗い部屋に高い声が飛び込んでくる。ばりばりがさがさという音を伴って、無理矢理に部屋に入り込んでこようとする影があった。
「あっ、やっ、引っかかる」
「ちょ、なんだやめろ。そこの扉は何年も開けてなくて、荷物だって積んで」
謎の訪問者は部屋の隅、サンルームの硝子扉を無理矢理押し開こうとする。絡んだ蔦と、錆と荷物に妨害されているのを強引に開けようとするものだから、サンルーム全体がガタガタと悲鳴を上げた。
「うちを壊す気か!」
怒鳴ると同時に、扉の前に積んだ荷物が崩れた。どさどさと雪崩を起こした荷物は、もうもうと埃を舞い上げる。白く霞んだ塵の向こう、人影の正体を確かめようとして――慌てて顔を背けた。
「こんにちは、お邪魔します!」
声は子どものものだった。幼児というほどではなく、恐らく少女のもの。
「おいおい、わざわざこんな場所から入ってこなくても」
「あっ、猫ちゃん。えっと、力任せに入ってごめんなさい。玄関は
「ああ、こいつ臆病モンだからなあ。でもあれ、民間信仰を越えないレベルのアイテムでしかないから、大丈夫だぜ」
背後で猫と少女の、親しげな会話が続く。
「おい。なんだ、その子どもは」
男は少女の方を、一切振り向かずに尋ねた。
「私は猫ちゃんのお友達です」
男の問いに、白猫ではなく少女が答える。
「猫ちゃんがこのお家に入っていくのが、見えたので。お邪魔してしまいました。猫ちゃんの飼い主さんに、ちょこっとご挨拶出来ればと思っただけなんですけど、なんだかお家をぐちゃぐちゃにしてしまったみたいですね」
ごめんなさい、という少女の声に重なって、荷物が崩れる音がした。
「あっ、また。私、お掃除しますね。お詫びです」
「いらんから帰れ」
人間のお喋りを、こんなにたくさん聞いたのはいつぶりか。疲れてしまう。
「二度と来るなよ。人の家の生き物を、勝手に友達扱いするな」
「気を悪くしたのなら、謝ります」
「謝らなくていいぞ、俺は誰の所有物でもないからなあ」
猫は宣言のように言う。男は思わず舌打ちした。
「私、動物が大好きなんですけど。お父様が飼うのを許してくれなかったので」
「そいつは賢明だな。父親はお前みたいな、やかましい子どもに加えて、動物まで面倒見きれんだろう」
少女の声が耳に障る。
父親や周囲の者に愛されて、孤独なんて知らない子どもの声だ。
「お父様は、動物を飼うと死んだ時が哀しいから。だから嫌なんだって」
その声が。少女の、その言葉が。男の耳に一段と響いた。
「確かにお別れは、哀しいだろうけど。でも初めから出逢いを拒むなんて、寂しいです」
少女に向けた背中が、ふるりと震える。
「なあ臆病者よ。このお嬢ちゃんなら、大丈夫だぜ」
猫の声が、背を打った。
「私の何が、大丈夫なの?」
「この臆病者はよ、人の顔を見ると、その人が死ぬ時がわかっちまうんだ」
男は拳を握る。
望んで手に入れたわけではない。本当に欲しかった魔力には、見放されているというのに。
「出逢った瞬間には、別れの時を知ってしまうわけだな」
「まあ……」
「せめて別れの時まで、存分に仲良くすればいいのになあ。怖いんだろうよ。離れがたくなるほど親しくなった相手が、もし儚い命なのが見えちまったとしたら」
知らぬやつに、なにがわかる。
振り向いて、怒鳴りつけてやりたかった。
けれど少女の顔を見てしまったら、知りたくもないものを見てしまう。
「それなら大丈夫。だって私、死んでるもの!」
「は……?」
明るく言い放たれた信じがたい言葉に、男は思わず振り向いてしまう。
「ようやくお顔が見られた。はじめまして、お兄さん」
青白い肌。
継ぎのある顔の少女。
寿命は見えなかった。
「
「私のお父様は、
少女は縫合痕のある顔で笑う。
額の中心から左の頬骨にかけての、大きな痕。
「私、馬車にはねられて死んじゃって。頭が半分、ぱっくりといってしまいまして。でもお父様が直してくれました」
白い指先で傷跡をなぞって、少女は言った。
「別れがつらいものだっていうのは、わかります。ですからお父様も、私を蘇らせたのでしょうしね」
蘇らせた。体を繋いで、魂を呼び戻して。
たっぷりのレースで飾った洋服は袖が長く、厚く長い靴下で覆われた足も露出がないので、どんな様子だかはわからない。
「私もお父様が亡くなるときは、哀しかったわ」
「死んだのか、死霊術師は」
「もう五十年は、昔のことです」
「五十年……」
男よりずっと、年上だった子どもは。
「それからずっと、私は独り」
男よりずっと寂しそうに、呟いた。
「私は死んでいるので、もう死にようがありません。お兄さんが恐れることは、起きないわ」
少女は小さな手のひらを、男に差し出した。
「だからお兄さん、私とお友達になりましょう?」
血の通わない少女の手は、とても冷たいのだろう。
春は命が芽吹く季節だという。
目の前の命なき歪な存在は、まるで悪い冗談のようだ。
だけど。
「春は出逢いの季節だと、言っただろう?」
孤独と言う名の長い冬が終わり、雪解けの春がやってきたのは、信じていい気がした。
孤独な瞳と歪な春 いいの すけこ @sukeko
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