第41話 渡り鳥は今日も飛ぶ
翌朝には雨が上がっていた。
地面からむわっと蒸気が立ち上り、汗腺を刺激して襟や脇を濡らす。
電車の中でも、隣に立った女子高生の慎まし気な芳香と、もう片側に立ったサラリーマンの慎ましさの欠片も無い芳香のミックスブレンドを提供されて、駅を出てしばらくは新鮮な酸素のありがたさを朦朧とした頭で考えたものだ。
道を通る人々は、みなその暑さけだるさと戦いつつ今日も持ち場に赴く。
僕も持ち場……教室にたどり着くと、何やらがやがやと興奮した様子だ。
溝呂木くんが僕を目ざとく見つけて、おーいと呼ぶ。
「小野寺、廃園で首吊りだとよ」
「廃園?首吊り?てるてる坊主の見間違いじゃなくて?」
「ぶはっ。まぁ、それなら御利益はあったみたいだけどな。残念ながら違うぜ。ブランコしてたのはB組の山浦って野郎らしい」
「ほーん」
「なんだよ、手ごたえねえな」
溝呂木くんがしらける。
予想はしてた。隠岐さんならやりかねない。
後始末には首も口も突っ込む気はない。学園としての体裁は整ったみたいだし、僕がどうこうする次元じゃなくなっている。
それにしても、死んでこの程度の扱いってのが山浦くんらしい。
成仏しますように。むしろすぐさま現世から逃げ出しそうなものだけど。
数日後。途中、雨のち晴れのち、が延々と繰り返される落ち着かない日々。洗濯物を扱うお母さんたちの愚痴があちこちの家庭から聞こえてくる。
久しぶりに、秘密の部屋に来た。
中には隠岐さんがいる。
やほー、と取り忘れられた自販機のサイダーみたいに気の抜けた挨拶を受ける。
「何の用かな」
「そんな警戒しなくても良いじゃんよ。ねぇねぇ、クッキーいる?」
「大福がいいです」
「ないよそんなの。甘いのなら、あ、金鍔ある」
「わざわざこの部屋にもってきたんだ」
鎖で封じられた部屋でピクニックでもないだろうに、と呆れる。
「細かいことは気にするな、ってね。とりあえず座りなよ。ちょっとした報告だからさ」
大谷方子、有岡涼介の家族には虚実織り交ぜて、後は金と権威で納得させた。
大谷家にしても有岡家にしても、なにがしかの会社に勤めて家計を保っていて、日本を代表する御曹司御令嬢がわんさといる深舎の都合は無視できない。
松阪夏丈については、辞職の上行方不明という形にすることにした。
「松阪先生も、哀れな人だったなぁ。恋に溺れなきゃ、理解し合えていたら、同性愛者でなければ、選択も前提も、一つだけ違えば立派な人物だったろうに」
「それはどうなんだろうね。松阪夏丈って人間は遥か昔に歪んじゃってたかもよ」
「どうして?」
「篠上って男は今も昔もクズで、まるで見境がない。当時中学生だった新入門徒の松阪少年に性的暴行を加えた」
「……そんなことが、あったんだ」
歪んで、歪みきれなかった少年が大人になって、一途に歩いた道は当然でこぼこに歪んでいて。
いつか跌蹉いて、転んだまま動けなくなる日が来る。それでも、進むしかなかったんだろう。
人を愛したら、前に進むことしかできなくなる。僕にはまだ、その怖さがわからない。
「それから、山浦常太郎ね。びっくりしたよ、まさか死ぬなんてね。紡じゃないよね?」
「え?隠岐さんじゃなかったの?」
「ええ……紡は、こんなか弱い女の子に男一匹釣り上げるだけの力があると思っているのかい」
「物理的に、なら」
「このこの、それは性的魅力がないってことかぁ?」
人差し指を丸めた関節で頭をぐりぐりされる。痛い、地味に痛い。
じんじん熱を持つ頭を抑えて、隠岐さんじゃないなら誰がやったんだろう、と考えた。
「あらら、興味ないふりして、結局気になってるのかな?おませさんめ」
「遺憾ながら、気になる」
「いやボクも知らないけどねー。ただね」
そして、唇をそっと耳元に持ってくる。
クッキーを食べたから、かすかにバターの香りがする。魅力がないわけじゃないけど、それを上書きして余りある威力があるから、隠岐さんにきゅんきゅんしたことはない。
それでも、やっぱり耳元で、吐息混じりで受ける女の子の声はひどく艶やかで。
「山浦の首、縄の跡の中に細かい鎖の跡があったらしいよ。うふふっ」
囁かれた内容は、物騒なものであったけど。
またある日。
雨と晴れの比率が逆転してきて、雲が怯えた様に色を薄くしていく。
今日は気持ちいい晴天の下、一人でお弁当を食べていた。
別に教室に居づらかったわけじゃない。またもや空気を読まない発言で白けさせたから逃げてきたとかじゃない。そもそも、そうなっても逃げる必要はない、だって空気を読まないんだもの。
乾きを取り戻したベンチに座って玉ねぎとマヨベーコンのサンドイッチを頬張る。
周には、昨日のローストビーフの残りをサンドしておいた。きっとほくほく顔で齧り付いているだろう。ただ、もう少しお行儀を身につけないと良縁が遠退きそうだなぁ。
「おや?」
玉ねぎの程よい辛さと、値段の世知辛さを噛み締めていると、馴染みのない声が聞こえた。
馴染みはないけど聞き覚えはある。
顔を向けると、黒々とした髪をどろんと伸ばす前谷くんが立っていた。
「その節は、どうもお世話になりました。あっはははは」
「どうも。でも、今になって何の用かな?」
ちょっとそっけない返答になったけど、声をかける義理もないだろうから驚いた。
でも前谷くんにしてみればそうでもないみたい。
「何を言うのです。共に綾森様をお守りした仲ではありませんか。ねぇ、小野寺さん」
ストーカーするだけあって、どうにも奇妙な距離の取り方だ。
遠慮もなく隣に腰掛けるその不躾は、僕自身が持つ特性ととても似通っているきがした。
すると途端に親近感が湧いてきて、ぽんと質問が口から飛び出す。
「前谷くんは、どうして綾森さんを好きになったの?」
「おお、聞いてくださるか。いやはや、では語りましょう、平凡で奇跡的な、女神との邂逅を」
最初にする質問にしては我ながら立ち入りすぎだと思うけど、前谷くんは嬉々として答えてくる。むしろ聞かれるのを心待ちにしていたみたいだ。
芝居がかった口振り手振りで語り出す。
「あれはそう、まだ空気に冷たさが残る頃のことです。私が路上で田川焼き鳥店のぼんじりを食べながら街中を歩いているとですね、公園の一角で言い争う声が聞こえてきたのです」
童顔の少年が眉を苛立たせて、仲間と共に男女を恫喝している様子だった。
男子部員が吹石くんと綾森さんを目の敵にすることになる決定的な瞬間に、偶然立ち合わせた。
声を荒げる男をさかしまに黙らせ、襲い掛かるのを返り討ちにした綾森の姿を、神々しい彩光と心が恋の淵に沈む音を背景に侘傺と眺めていた。
「綾森様は美しい。周囲の醜さなどと乖離して、美しい。しかしその伴侶たる吹石はといえば、綾森様に守られるだけの体たらくだったのですよ」
「それで、ストーキングを始めたの?」
「ストーキング……言い方は考えてもらいたいですが、その通り」
「じゃあさ、今はどうしてここにいるの?」
「吹石は立派に育ちましたからね。彼が伴侶として綾森様を守護する以上、守護霊がうろうろする必要は皆無でしょう?」
確かに、吹石くんは見違えるほど成長した。
大谷さんの件は、絶対の口止めをして話した。
静かに聞いていた。話している僕の方が切なくなるくらい、静かに聞いていた。
話し終えた時、彼がどんな思いだったか、慮ることすら許されないんだろう。
でも、その瞳が、確かに前を未来を見据えていることに確かな安心感を覚えた。
「前谷くんはそれでよかったの?」
「良かった、とは?」
「好きだったんでしょ、綾森さん」
「破滅も厭わぬ愛を捧げますよ。私の理想は、綾森様が恙無く、吹石と添って暮らしていけること。吹石が阻むものを蹴散らす覚悟を手にした以上、できるのは祈ることくらいですよ」
「それで、いいの」
何を当たり前のことを、という感じで前谷くんは言う。
「愛とは、幸せを願う気持ちでしょう?想い人の理想が、そのまま己の理想に反映される状態を恋と呼ぶのです。それに向けて、全身全霊で扶けるのが私の役割ですよ」
「そうだね。……面白いなぁ、愛には色んな形がある」
人を狂わせ、人を踊らせ、人を涙させ、人を繋ぐ。
「最後の仕事として、山浦常太郎を始末させてもらいましたよ。あの腐れ外道め、懲りることなく綾森様を脅そうとしおって」
「やっぱり、前谷くんが」
「大谷さんの死の真相を、捻じ曲げて広められたくなければ金を寄越せ、とね。もちろん接触する前に縊りましたがね」
そう言って、体を軽く揺する。
ちゃらり、と軽快な音が弾む。
「山浦くんもよくやるよなぁ。隠岐さんに死ぬほど絞られたはずなのに……」
「性根まで、人を欺く事に慣れて腐ってるんですよ。鬼に脅されたとしても、呼吸をずっと止めているわけにはいかないでしょうよ」
「そっか」
息をするように嘘をつく。
その嘘が誰かを無差別に傷つけるのだから、嘘を、息を止めなければならなかった。
「後悔はない?」
「後悔?」
「人を殺すのって、相手がどんな者でも嫌な感触じゃん」
「……確かに」
淋しそうに、両の手を見つめる。
悲鳴はいつだって耳を焼く。
血はいつだって苦くて堪らない。
「だから、小野寺さんに話しかけたのかもしれないですね。きっと、同じような経験をしていると思って」
「そっか」
空を見上げる。
先週は大空を我が物顔に支配していた黒雲は、クーデターによって散り散りになって、哀れに漂うのみ。
これから夏が来て、今度は太陽が威勢を振るい、それもまた台風の前に跪くんだろう。
熄まない雨はない。
熄んだ雨も、またいずれは降り出す。
幸せも不仕合わせも、糸車の様にくるくる回って、人生を紡ぐ。
これから、どんな人生を送る事になるのか。
心配は尽きない。恐怖は尽きない。
それでも。
冷徹な瞳の中に芯の暖かさを秘める氷の姫君。
燃え上がる意志で王国を統べる焔の女王。
純真で無垢たる、癒しの権化のような華の妖精。
献身的で、理知を漂わせる姫の従者。
この世界で最も美しい光を放つ、美麗なる女王の騎士。
人なつこい笑顔の裏に、毒針と友愛を忍ばせる妖精の悪友。
そして、誰よりも優しく、誰よりも健気で、誰にも代え難い僕の宝、周。
理解者がいる。頼れる人がいる。逃げ場が、尻を叩いてくれる人が、確かにいる。
それは、生きる理由になる。人生を織る励みになる。
「帰ろっか。授業が始まる」
「……私たちも、それはそれで幸せなのかもしれませんね」
僕は校舎の中に消えていく。
ふらふらと、迷いながら。
渡り鳥は、今日も飛ぶ。
氷焔華と渡り鳥 大魔王ダリア @mithuki223
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。氷焔華と渡り鳥の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます