第40話 雨月 竜閑橋跡の仇討
夜。
しとしと、一体だれが泣いているんだろう。
僕かな。それとも、滲むように浮かぶ月かな。
「うう、寒いなぁ」
嘘だ。震えるふりをするけど、嘘だ。
五月も最後の日曜日。いくら夜更けで雨が降っていても、震えるほど寒くはない。
単純に、玄関前で立ち止まる大義名分が欲しかったんだ。
そうやって雨月を眺めていると、後ろから遠慮がちな声がかかる。
「にーちゃん」
「周。どうしたの?」
「……何だか知らないけど、がんばれっ。にーちゃんのやることは、きっと誰かの笑顔に変わるから」
「そっか。そう願うよ」
「周がお月様に願っといてやる。にーちゃんはさっさと行け!」
尻を蹴られるように、送り出される。
周のやさしさが身に沁みるようだ。
もう一回だけ、月を見る。
「僕のいう事なんて、きっと届きすらしないんだろうけど……周の願いは叶えてあげてね」
事を終えるまでは顔を上げないと誓いながら、人気も無い雨降る夜町に繰り出す。
背中には長い筒を背負う。勿論、僕の愛刀だ。別に刀を愛しているわけじゃないけど、なんだかんだで馴染み深い。
向かうは千代田、竜閑橋。今では僅かな礎と碑しか残らない、廃橋。
遡上するように電車に乗って、神田へ向かう。駅を降りて、竜閑橋親柱跡に向かう。
見た目はただの裏路地。
そもそも竜閑橋というのは、江戸城の御濠に架かっていた橋で、堀の埋め立てに伴って撤去される。
近くに数寄屋坊主
古ぼけた説明板を読んでいると、野太い声がする。
「来ていたか」
「はい」
雨に濡れるのも厭わず、闇夜に溶けるような黒服で、松阪夏丈先生が登場する。
目には生体としての一切の光がなく、淋しい街灯が反射するのがなんとも不気味だ。
他人の怒りが乗り移ったみたいだ。
これから、松阪先生は恋人たる有岡涼介の仇を討つ。
ぼくとて、流れた血と、渦巻く恨みに決着をつけないとという思いがある。だからこそ、この呼び出しを受けた。
土曜日に有岡くんが死んで、今日にはこうして御膳立てされる。
きっとどこかでまた、何かの意志が働いたんだろうけどどうだっていい。
「ひとつだけ、聞いても良いですか」
「言え」
「どうして、子宮を刺したんですか?」
「……」
沈黙。
先生は、無骨な漆塗りの鞘を軽く扱く。
「俺は、涼介を愛している。だからこそ、涼介の望みはできうる限り叶えたいと思う。俺は、大谷を受け入れる覚悟を決めていた」
一途に想う恋人が、違う人間に恋をした。
有岡くんには決して矛盾でも背徳でもなかったけれど、先生にはこの上ない仕打ちになったんだろう。
蘭翅くんは言っていた。
『二次元と三次元は別物。なのに妙にこだわるから面倒なんだ』
きっとそれはこだわりじゃなくて、もっと先天的な、生まれた時から刻み込まれた特性で、変えようのない認知なんだと思う。
「だが、大谷は涼介の告白を断った。それどころか、蔑むような、憐れむような視線を向けていた……」
先生は、刀を抜く。
剣先が僕を捉え、血を吐くように叫ぶ。
「涼介の想いは尊重する。だが、俺があの女に容赦する理由は何一つありはしない!」
まっすぐだ。
一途に、まっすぐ恋路を走った行き先は、人の道を外れていた。
これもまた、一つの決着だ。
昼は、吹石くんたちが決着をつけに行った。結果なんて見なくても分かりきっている。
だから、僕も刀を抜く。
手繰るように抜いて、鞘を親柱に立てかける。
人はいない。
路地の様に狭い道、長い刀を振り回すには不利だ。
先生は駒川改心流独特の、柄を突き出し肩に峰を乗せるような八相。
僕は、普段は絶対にしない、『海猫の構え』をとる。
長い刀を左脛にあたるように後ろに向け、重心を低くする。脇構えのようにも見えるが、かなり低い位置になる。
下半身への攻撃に使うけど、あまり使ったことはない。
でも、吹石くんを見ていたら、少しやってみたくなった。
横薙ぎにはできない。
「駒川改心流松阪夏丈」
「……巌流小野寺紡」
名乗りを上げ、走る。迸る。
迫り来る刀は、煙の様な雨と薄い月光を浴びて跳ね返す。
襲いくる怒涛に、目を凝らす。
間合いが詰まる刹那の時、左足にほんの僅かな隙間を見つけた。
姿勢をさらに低くする。
蟹の平這いのように迫り、身を投げ出す。
刃風がそばを通り抜ける。
確かな手応えと、自分が無傷だということを、濡れた地面を転がりながら認識する。
そして、よろよろ立ち上がり、地面につくばう先生に近づく。
左足が截断されて転がっている。
「ウゥ……み、見事だ……恐ろしい剣だ」
「先生……」
断面から血を流し、その血が帯をひいて錆びついた網から排水溝へ流れ込む。
僕は、どうしても伝えたかった。
「先生。確かにすれ違いはあったけど、それでも有岡くんは先生を愛してましたよ」
「……そうか」
「はい。先生に貰った手拭い、大切にしていたみたいです」
「そういえば、そうか。……俺は、本気で見ようとしていなかったのかもな。見ていたと思い込んでいたのは、雨と雲に霞んだ月でしか、なかった……」
そう言って、ことりた息を引き取った。
恨みも後悔も吐き出した顔は、とても穏やかだ。
周、これが僕の決着だよ。都合の良い救いなんてないけど、それでも僕を信じてくれるのかな。
雨で刀に付着した血を洗い、鞘に収める。
暫く、月を仰ぐ。
雨が目に入るけど気にしない。
滂沱の裡に、月光が僅かに煌めきを増した気がした。
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