第39話 暈陽 篠上道場の仇討
晴れた、と表現するには烏滸がましいような、辛うじて雲間から陽光が滲む空である。
鳥一匹飛ばず、奇跡のような、夢幻のような太陽が、重い雲の質量に抗ってくれている。
決戦の
佃島、篠上道場の板張りの上。
道場の端には十六人の門弟がずらりと端座し、向かい側は扉が開けきられて、立派な縁側と、鈍重な空が見えている。
吹石盛作は、天候と真逆に薄霧ひとつない純なる心境で敢然と叫ぶ。
「篠上幽遠!越し方の讐念、今日この場で晴らす」
「癪に触るわい」
憎々しげに吐き捨てる篠上は、なかなかどうして衰えなど感じさせない覇気があり、おまけに還暦を迎えようとしている老人とは思えない偉丈夫であった。
彼の目はいつの事かも誰の事かもわからぬ出来事を持ち出して、今更のように敵意を向ける子供など見ていない。
彼が睨んでいるのは、二人の横で飄々としている隠岐疎……彼女を検視役として遣わした譲羽に対してだ。
「検視役どの。悪趣味な戯れはこれっきりにしていただく」
「悪趣味な?ボクのいう事じゃないけどね、篠上のやり方の方が悪趣味な気がするけど」
「聞き捨てならぬわい。……女風情が、調子に乗るでないぞ」
「あはは、御忠告痛み入り候、ってね」
「……」
喋れば喋るほど、青筋の色が濃くなる。
篠上はその青筋を押さえつけるように揉むと、広い道場に端座する門弟を睥睨した。
「
「応ッ」
篠上に呼ばれ、禿頭が赧く光る男が呼応する。
海ノ介は解体包丁のような大刀を持ち出し、頭上で旋回させて威嚇する。
思わず遠く離れた門弟たちが尻をすくませるくらいの圧力がある。
しかし、吹石と綾森は眉ひとつ動かさない。
(こんなの、小野寺紡の物干し竿と比べればそれこそ戯れにもならない)
むしろ、押し付ける風が余念を吹き飛ばしてくれる。
隠岐の合図で、双方刀を構える。
予想通り、篠上幽遠は大上段に構える。吹石は、当然地摺り。
海ノ介は柄を臍につけるように、やや前屈みの中段。その大帽子から吹石を守らんと同じく中段に構える綾森。
太陽は灰雲に隠れ、格子窓から漏れていた陽光は消える。
道場内に影が咲き、白刃が煌めいた。
「エエエエイイ!」
「ダァッ!」
海ノ介の咆哮と綾森の気合。
雪崩のように無慈悲に肩に襲い掛かる大刀は、無為に空気を切り裂いたのみであった。
「こ、小娘ェ……何が……」
「何もない。私たちの積んだ修練を思い知れ」
血がドクドク溢れて落ちる。脾臓を裂かれ、抑えても塞いでも命は削れゆく。
綾森はもう一度剣を振り、膝をついた禿頭を一文字に薙ぐ。
あまりに一方的な、勝負とも呼べない結果に門弟が唖然としている。
一番動揺しているのは、吹石と対峙する篠上だ。
高く掲げる剣先が震えている。
威圧しているはずが、四十も年下の青年に気攻めで押し負けている。
「何糞」
エイ、と大仰に打ち込む。
振りをして、端に座る門弟の中に逃げ込む。
「貴様ら、立てい!こやつらを生きてここから出すでない」
「……」
「ええい臆したか!」
更に道場の奥の方からどたどたと乱暴な足音が聞こえる。
真剣や槍を手にした荒くれ門弟が目を逆立たせて構える。
隠岐が、咎める様子もなく、むしろほくそ笑むように眉を上げて篠上に言う。
「へぇ。仮にもボクの前でそう出るってのは、譲羽への反抗と捉えてもいいのかなぁ?」
「黙れ小娘!譲羽の女帝国に永久の隷属などできようか」
そして、門弟……特に普段から目をかけている餓狼に等しい門徒に命令する。
「こやつらを殺せ!酒も女も、一切不自由なく与えよう!譲羽の支配すら抜ければ、この佃島は我らの物だ!」
「ふぅん」
老害は気づかない。
楽し気に笑っていた隠岐の目が、制裁者の持つ闇色の光を帯びたことに。
そもそも、わざわざ綾森に仇の情報を与えたのも、それに小野寺が巻き込まれるや否や進んで協力したのも、全てはこの卑劣な道場主を叩きつぶすため。
既に、佃島の住民からの訴えは納屋が一つ埋まるくらいには届いている。中には書面だけではなく、乱暴されて切り落とされた指や、門弟の強引な誘いを断ったせいで引き抜かれた髪を送り付けた女もいる。
ユズリハの会の権力は世界的だ。警察権力なぞあてにならない。ユズリハの問題は譲羽が片づけなければならない。
しかしまた、伝統と文化の守護を大目標に掲げるユズリハにとって、駒川改心流の継承者を潰すのは、たとえ会長である譲羽家でも厳しいものがある。
だからこそ、表向きに譲羽が関わらない形で潰さなければならなかった。幸い、と言えるか不明だが、駒川改心流の継承者は日本国内にもう二名ほどいる。
隠岐は、数を恃みに押しとおろうとする篠上に、最後の念を押した。
「譲羽……ユズリハに、刃を向けるんだね」
「くどい!耳障りな幼な声を潰せ!」
「はぁ……死ねよ」
豹変。
隠岐疎が、表の世界に決して浮かぶことのなかった巨匠隠岐静山の一人娘が、剣を握る。
刀とは鉄の板だ。未成年の女性が片手で軽々しく持ち上げて、一切のぐらつきなく構えられるものではない。
しかし、隠岐は囲炉裏にくべる粗朶を扱うようにやってのける。
決闘に集中していた吹石も綾森も、思わず見入ってしまう。
(間違いなく、これは小野寺と同じ剣だ)
違うのは、小野寺の剣が大津波の前に海岸の波が一斉に引くような、空恐ろしい静寂であるのに対して、隠岐のものは美しい花びらから猛毒を持つ蜂が飛び出したような、突然で遠慮のない殺気であることだ。
華の妖精の側近にして、可憐な友人を守る、普段は針を隠した蜂。
それが、隠岐疎である。
その針は今、むき出しになっている。
「答えは聞いたよ。今武器を持っている奴は全員殺す……あはは」
欠片の感情も交えずに笑い、針の照準を定めたその時。
「待ちなさい!」
「道を開けろ不届き者め!」
がしゃがしゃと、招かれざる客がやってきた。
燃えるような紅蓮。煌めく金。
弱弱しい陽光が、途端に輝きを増したようだ。
「……あれれ?どういうことかな?」
隠岐が、剣呑な雰囲気を忘れて聞く。
「白記が、どうしても行くって聞かないから、ついてきたのよ。この子が我を通すなんて、初めてだから」
「申し訳ありません。後からお叱りはいかようにも。ただ、紡と、僅かな期間ながら付き合いを持った教え子の決戦を見届けたかったのです」
「……どうやら、私たちがいる意味はありそうね。白記と紡が育てた機会を台無しにしようとしている馬鹿がいるようよ」
ぎろり、と熱で焦がすように睨みつける。
何もされていないのに、門弟たちは汗みどろになる。
その流れた汗を凍り付かせるような声が、続けて響く。
「お掃除、お片付けでしたら私が適任でございましょう」
「はぁ……私はかかわりはないのだけど。……でも、関わりのない私でも、この男共には虫唾が走るわ」
猛吹雪を纏って、氷の姫君が訪れる。
焦熱と極寒、そして殺気。
美しき元凶が、卑劣な男たちに牙を剥く。
紅蓮と金は、その眩さをもって。
漆黒と紺は、その険しさをもって。
そして毒々しくも美しい蜂は、昏き殺意をもって。
誰かがが思わず呟く。
「何なんだ、この女共……」
その問いに、迷いなく答える。
「一色財閥総裁一色
「風間財閥総帥風間満州の娘、淑乃」
「ユズリハ会長、譲羽
もう誰一人、武器を手に持つ者はいない。
日本いや世界を動かす大団体を三つも相手取るなど、愚行や無謀などという言葉で表すことができない冒険だ。
いや、一人だけ、武器を捨てることかなわぬ者がいる。
「隠岐。お前の立場はわかるがな。綾森たちの仇討は邪魔しないでもらいたい」
「……そうだねぇ。うふふ、仲間想いっていいね、心が安らいじゃうよ」
篠上幽遠は、どうあっても逃げること能わぬ。
退路を断たれ、進む道は激痛を伴う地獄行き。
全ては、自身が他人に行ってきたことだ。
「この……小童どもめ……女帝国め……役立たずどもめ……うおおおおおおお」
八つ当たりの恨み言を叫びながら吹石に猛進する。
怒りを叫び声に乗せて、吹石の頭を砕こうと振り下ろす。
怒りは、力に変換される。
篠上の怒りはその場の昂奮による、一時で膨れたもの。しかも、叫びに乗せてぶつける怒りはただ徒に威圧するだけである。
吹石は、何年も何年も、腹の中で熟成した怒りを、復讐心を、一言も発さずに刀に乗せる。
普段はまるでごく普通の人生を送ってきたように笑いながら。
まっすぐで綺麗な恋人。よくよく面倒をみてくれた部長。
そして、何よりも得難い経験を与えてくれた師匠。
皆への感謝も、刃に上塗りする。
雪崩落ちる暴力に、掬い上げるような刃が白鮎のごとく舞う。
「うがぁぁぁっ」
吹石の刀は篠上の腿を斬り、ほぼ両断して中空に止まる。赤い血が雲間から漏れる陽光に映え、曇天を背景に凄艶な風景だ。
篠上はまだ生きている。
皮一枚で繋がった足を持て余しながら、亡者のように這う。
綾森がその行く手を塞ぐ。
「地獄に落ちろ!」
背中から、垂直に刀を突きさす。
じゅぽっと引き抜かれる奇妙な音を聞いて、篠上幽遠は息絶えた。
ぱん、ぱん。
乾いた拍手の音がする。
まるで、あの日禅の部屋で聞いた片手の拍手のようだと、綾森は感じた。
隠岐疎の拍手だ。
「お見事。仇討、本懐おめでとう。本当にここまで、良くたどり着いたと思うよ。紡も喜ぶだろうさ……じゃあ、ボクも仕事をしなきゃね」
そう言って、検視役としての仕事をする。
「篠上道場の面々よ!道場主以下、本道場の行跡甚だ非行多く、その訴えは会でも問題になっている。その上、今ここで古武術駒川改心流継承者は果し合いに敗れ命を落とした。これ以上ユズリハが篠上道場を庇護する理由はない!本道場よりユズリハの会籍を剥奪する!これは、会の議決である」
滔々と述べ、最後に会長の直筆サインが入った通告書を見せる。
絶望に染まる門弟たち。ユズリハの庇護がなくなっては、今までの非行の罪科で司法の世話になるのも時間の問題だろう。
我先にと道場を去り、どうにか逃げ延びようと走る。
きっと、外では住民に石を投げられているに違いない。
「よくやったな。見事だったぞ」
「荒砥さん……本当に、ありがとうございます……」
「あれが紡の弟子?やるじゃない」
「確かに、片鱗ながらあの恐ろしさを感じたわ」
「あの落ち着きぶりは、元来のもののような気もいたします」
口々に健闘を称え、感謝を述べ、喜びを分かつ。
その輪から一歩離れて、吹石は縁側から空を見上げていた。
隠岐が、その横に近づく。
「黄昏るには、少し時刻が早いんじゃないかい?」
「ああ……隠岐。まあ、ね」
「紡が気になる?」
「……」
小野寺紡がどうしてこの場にいないのか。
もちろんわざわざここまで訪れる義理はないはずだけど、それでも残念な気持ちはぬぐえない。
一番、この結果を見せたい相手だ。
これが、師匠に上達を誇りたい弟子の心なのだろうか。
それを汲んで、隠岐が慰める。
「紡も、行きたい行きたいって随分頭抱えてたさ」
「なら、どうして」
「紡には柵が多いんだよ。本当に、いろんな鎖が彼を縛ろうとするんだ。縛って、引きずり込もうとね。渡り鳥は、あっちこち飛び回らないと生きていけない程に面倒な星のもとに生まれてきたんだ」
「……」
「多分わかんないだろうね。きっと、後ろではしゃいでるお嬢様もわかってない。分かってるのはボクだけさ。ふふふふふ」
わからない。
隠岐の歪な笑い声の意味も、小野寺が抱える面倒とやらも理解できない。
それでも、その裏に潜む理不尽の気配は肌で感じられた。
理不尽の象徴のような黒雲が、再び太陽を駆逐しようとしている。
湿りを含んだ風が、また一雨降るのだと告げる。
息も絶え絶えな陽光を、吹石は強いまなざしで見つめていた。
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