第38話 理解及ばぬ愛と毒

広大な敷地に、人がいない。

まるで、四方地平線までを一色に染めて、一様に風に揺れる薄原みたい。

建物はあるし、人もいるところにはいるんだろう。

でも、やっぱり土曜日の学校というのは静かで、どこか墓地のように薄寒い。

ましてや、蔓草が乱暴に伸びうねる廃園に誰が温かみを覚えるだろうか。

でも、土曜日だというのに、わざわざ訪れた男の声は弾んでいた。


「せんせーい。松坂先生。どうしたんですか?土曜に呼び出して」


甘えるように、猫撫で声を出して呼ぶ。

きょろきょろと周囲を確認する彼に、潜んでいた僕が声をかける。



「ごめんね。先生は来ないよ」













「有岡くん」



***************


ぽつぽつ、雨粒が落ちてきた。

夜中に一度熄んだ雨は、泥のような雲から再び地を濡らす。

有岡くんは表情を凍らせて、慌てていつもの美少年顔を取り繕った。


「えっと、どうしたの?確か、君は盛作と時々一緒にいる」

「覚えててくれたんだ。光栄だよ」


気にならないはずがない。

僕は大谷さんの事件の真相を探っていて、大谷さんを強姦したのは有岡くんなんだから。


「あ、あはは……いったい、どうしたのさ?」

「……信用する人、頼る人は選ばないとね。山浦常太郎が全部白状したよ」

「え」


また表情が固まる。

目を泳がせて、唇を噛んで、噛んで切った唇から血が滲む。


「……山浦かぁ。でもさ、その信用できない情報屋の証言に、有効性はあるの?」


目を据えて、挑むように聞いてくる。


「……あの隠岐さんに責められて、嘘を憑けるような大物じゃないよ、たぶん。でもそうだね、一応聞いた話を伝えようかな」


この一件、素行の悪い剣道部員だったり大谷方子ひがいしゃ関連で綾森さん吹石くん、そして二人の仇討で僕や荒砥さん、また別方面で前谷くんと大人数が絡んで、それらを追いかけることしかできなかった。

でも、実際に重要な人物は三人しかいない。

一人は当然強姦犯の有岡くん、そしてまた一人、散々引っ掻き回した山浦常太郎だ。

以下、隠岐さんが言葉では表せないような尋問で聞き出した内容。

山浦は、二年生に上がってから吹石くんたち四人グループに目をつけていた。カースト底辺の僻みから、そこそこ楽しく生活を送っている他人の弱みを掴んで売りさばいたり、強請ったりする常習だった。

そんな時、二つの有用な情報を得る。

ひとつは、綾森さんを付け狙う前谷上智ストーカーの存在。

ひとつは、同じく綾森さんを目の敵にする男子部員レイダーの存在。

それを利用して、一計を案じた。

前谷くんに接触して、綾森さんの尾行を手伝うと申し出る。前谷くんは渋ったらしいけど、結局受け入れた。自分が守護できない間に、異変があったら伝令する役だ。

ある日、有岡くんが大切にしている手拭いを、更衣中にさっと抜き取って床に落とす。

上手く気づかれずに教室まで帰り、そこで有岡くんが手拭いを落としたことに気づくのを確認する。有岡くんは特徴的な容姿で男に見つめられることは珍しくないから、誰も違和感を抱かない。

そのまま授業が始まって、終わる。放課後、教室を出て上坂くんたちにに報せに行く。


「もうすぐ、あんたらの嫌う二人が廃園を無防備に通りますよ」


と。

前谷くんがあの場にいたのは、山浦が伝令したため。上坂くんたちから礼金を、前谷くんからも伝令の足代を、それぞれせしめたというわけだ。

更に徳を欠いて、欲をかいた山浦は上坂くんたちを強請って返り討ちに会い、更には僕たちにまで絞られた。

でもあの時すでに、新しい企ては進行していたんだ。


「依頼主は有岡涼介。内容は、男子部員が大谷さんを強姦したと噂を広げること」

「……でたらめだよ」

「そうだといいね」


実際に噂は広まって、鎹先輩や上坂くんは追い詰められた。アリバイなんて関係なくて、学校としては不良生徒をうまく処理できるなら、むしろしめたものだと思う。深舎が望むのは真実の究明じゃなくて、円満な解決だから。

でも、一般生徒である有岡くんが、そんな学園の闇に踏み込んだ計画を思いつくとは考えにくい。山浦くらい汚い人間なら思いつくかもしれないけど、彼は有岡くんの方から声をかけてきたと証言した。隠岐さんにつるし上げられて瘧のように震えながら言った言葉に嘘はないと思う。

だとすれば、智慧をつけたのは、もう一人の重要関係者。


「剣道部顧問、松阪夏丈先生。…………有岡くん、君の恋人だよ」



僕は、トイレの中で、上坂くんが言った言葉を思い出す。


『だって、先生は………ゲイだ』

『は、へ?』

『まちがいねえよ、ありゃ生粋だ。俺にも、一度声をかけてきたから……』


童顔の上坂くんが俯いて言った。

その時の、皆の困惑はとても滑稽なものだった。鎹先輩たちも知らなったようで、口を半開きに呆けた顔は、割れて黒ずんだ鏡に映る僕の顔と同じだった。


「松阪先生とそう言う関係だったのは、認めるかな?」

「……」


ぎゅっ、と苦し気に、首にかけた手拭いを握る。保身のために否定するか、迷っている。


「そうだよ。松阪先生が、僕の大切な人だ」

「そっか」

「はぁ、本当に、山浦を頼ったのが間違いだなぁ。でも、それでも学校としちゃ剣道部員が犯人の方が都合がいいんじゃない?もっと、僕が犯人で、あっちを疑う余地も無いって証拠を見せてよ」

「う~ん」

「無いでしょ?そんな、あるわけないんだよ。DNAとか精液検査とか、そういう力を借りられればいいんだけどね。いくらお嬢様の力を借りても、どうにもならないんでしょ」


松阪先生から聞いたんだろう。にやにや笑いながら、距離をとって後ずさる。

その行動が、何よりの証拠なんだけどね。

僕を睨みながら、勝ち誇ったように廃園を後にしようとする有岡くん。

後ろから忍び寄る金色の気配に気づかない。


「い、痛い!」

「大人しくしろ軟弱者」


不気味な廃園にも、眩く耀く荒砥さんだ。それ程輝いているのに、どうして気配もなく近づけるんだろう。

荒砥さんは片腕を捻り上げて、長袖をめくった。


「何するんだよ!離せぇ」

「じたばたするな……こっちじゃないか」


右腕は綺麗な肌だった。

同じく左腕。抵抗はより一層ひどくなる。でも、荒砥さんにかなうはずもない。


「やめろ、やめろ」

「……あった」


左腕も、滑らかできめ細やかな、同性とは思えない白肌だ。

ただ一つ、上腕に、楔のように打たれた赤い円状の傷痕を除けば。


「大谷さんの遺体にはたくさんの打撲痕があったよ。ただし、首より上に外傷はなかった」


でも、僕は覚えている。

僕が荒砥さんに凄惨な殺人現場に連れていかれた時の、大谷さんの死顔を。

恐怖に見開かれた瞳孔と、半開きの口から覗く赤く染まった歯並びを。

大谷さんの口中に出血の所見はない。

つまり、あれは大谷さんの血ではない、ということ。


「あ、あはは、これは、松阪先生につけられたんだよ……」

「松阪先生の歯は揃ってるはずだよ」


円状の楔は、まるでコロッセオの上空写真のようで、楔が一つ分だけ抜けている。

大谷さんは、最近最後の乳歯が抜けて、歯が一本ない状態だ。


「どうかな?三千人の生徒の中でも、未だに乳歯が抜けていない生徒はそういないだろうね。もしいたとしても、大谷さんと同じ位置の歯が抜ける可能性はどのくらいかな?どうする、賭けてみる?」

「うあ、い、あ、その」


青白い顔に、雨露が伝う。豊頬の美少年の面影は消え失せ、あの日ここで見た前谷くんに似た、幽鬼のように蒼褪めている。

僕は、最後の一太刀を浴びせる。


「でも、多分無駄だよね。DNA検査は無理だけど……血液検査くらいなら、ギリギリ請け負えるらしいから」


大谷さんの遺体はできる限り良好な環境で保存してある。血液は丈夫な物質で、検査の精度も最先端を期待できる。

いくら後ずさっても、逃げ場はないんだ。


「う、はぁ……参った、よ」


がっくりと、糸の切れたマリオネットみたいに地面に腰砕けになる。

目をつぶっている顔に雨粒が流れて、泣いているように見える。


「小野寺君、だっけ。君が言った通り、僕も松阪先生も性的マイノリティだ。でもね、愛し方ってゲイとかなんとか、一つの枠に納められるものじゃないでしょ」


目から雨粒を流しながら、有岡くんは語る。


***************

有岡side


「種はたったひとつだった。僕にとって、男性を愛することと女性を愛しく思うことは等価で、両立できるものだった。でも、先生は違った」


気づかなかった。今思えば、気遣いが足りなかったと思う。

でも、僕は松阪先生を完全に理解していなかった。

僕は松阪先生に、大谷さんが好きになった、手に入れたいから協力してほしいと頼んだ。他意なんてまるでなくて、だからこそあの時の先生の顔を忘れられない。

すぐに誤解というか、認識の齟齬は解決したけど、あの時の感覚は心臓を蝕んだ。

愛し合っていても、向けあう愛が同質だとは限らない。

先生は僕の言葉に傷ついて、僕は先生の考え方を理解できなかったことに、いや今でも理解できていないことに傷ついた。

それでも先生は協力してくれると言った。僕の手を握って、手伝うと言ってくれた。

そして、僕は方子に告白して、玉砕した。

振られるのは想定内。世の中にはyesとnoの二つがあって、割合はnoの方が多いことくらい義務教育で知っている。

僕の血を沸騰させたのは、noの質だった。

方子は、こういったんだ。


『え……でも、涼介は男の子が好きなんじゃないの……?』


ただの疑問じゃない。若干ならぬ嫌悪と不理解に満ちた、異物を見る目、疑問だったよ。

結局、僕は愛した男を理解できずに、愛した女に理解されずに、どうしようもなく熱くなっちゃったんだ。

熱が冷めるころには、そこはどこか屋内で、目の前で虚ろな目で、裸の方子が横たわっていた。

僕は冷めすぎちゃったみたいで、後悔も罪悪感も沸いてこずに、ただこの後どうしようって困惑しかなかった。

方子がずるずる這って、白い石の庭に逃げ出そうとしても、僕の体は動かなかった。多分急激に冷えすぎて脳が凍ってたんだろうね。

そこに来たのが先生だった。

先生は方子の髪を掴んで引きずり起こして、高座の上に投げ飛ばした。

そして、恐怖に満ち満ちた方子を足で押さえつけて、さっき僕が蹂躙していたんだろう子宮に突き刺した。

みるみる血に染まる木目が、最後に残る記憶だった。



***************


ふっと息を吐いて、有岡くんは脱力する。

もう抵抗の意志はないと見た荒砥さんは手を離す。

離されて自由になった手は、重力のままに地面の草をなぞる。


「気絶した有岡くんを運び出すところを、竹林で一人酒におぼれていた竹下くんが目撃したんだね。まぁ、彼は何をしていたのかまでは認識してなかったみたいだけど」

「ふうん」


興味もなさそうに、鼻を鳴らす。


「僕はこの後、どうなるのかな」

「扱いは上の人に一任されるんじゃないかな。今回は荒砥さんが絡むことだし、一色の物言いが決まり手かもね」

「お嬢様の一言に委ねられ……ってこと?あははは、どうでもいいや」


あはははは、と壊れたレコーダーのような無機質で、ノイズが混じった笑い声をあげる。

その顔に、生気が戻ってくる。


「あははははどうでもいいけどさ……気に入らないなぁ」


生気が戻っても、抵抗のそぶりは見せない。

僕は悪い予感に襲われて、荒砥さんに目配せをする。


「気に入らないよ。高みのお嬢様とか、理解が足りない他人とか、理解が足りない自分とか、全部気に入らないけどさ……小野寺君。全部君の思惑で進むのは気に入らない!せめて、君だけでも!」


そう言うや、近くの茂みの枝をへし折り、自身の喉笛に突き立てた。

たかが細枝、命を奪うものではない……そう思ったけど。


「か、かははっ。ううぁぁぁ」


みるみる蒼褪めていく。さっきまでとは比べ物にならない、明らかにおかしい青だ。

荒砥さんが近寄って、慌てて叫ぶ。


「まずい、夾竹桃きょうちくとうだ!」

「ああしまった!」


猛毒で有名な夾竹桃。この廃園に自生しているのを全く考慮していなかった。

有岡くんは喉に枝を突き刺したまま、嗤う。


「ぼぐが……このまま死んだら……ゲホゴッ、先生は、きっと仇を……討ってくれる」


そのまま、数回頭を震わせて、有岡くんはこと切れた。

小さな美少年の遺体を、梅雨の雨が濡らすだけだ。


「仇討ち……かぁ。皮肉だなぁ」

「綾森たちの仇を討つ手伝いをしていた私たちが、狙われるようになるとはな」

「……狙われるのは僕だけだよ」

「いや、私もだろう、現に私は」

「うんうん。僕だけ、だよ」


食い気味に否定して、僕は廃園を出る。

荒砥さんが何か言っている。綺麗な声はずっと聴いていたいけど。今だけは雨の音で聞こえないことにしよう。

決して激しくない、絡むような雨の音のせいに。

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