第37話 最後の雫
走って駆け付けてみたら、鎹くんたちをはじめ剣道部の面々が地面とお友達していたから面食らった。
肩の力が抜けたというか、肩甲骨に穴が穿たれたように軽くなった。
ぱっと状況を確認すると、前谷くんが加勢してくれたのは明らかだ。
「鎖分銅?前谷くんはそれ遣うんだ」
「ええまあ。……どうして名前を知られているのか」
まるでストーカーを見るように一歩引かれる。僕は悲しい。
前谷くんの追及は後ででいいや。まずは剣道部員の始末だけど……
「心当たりはある?」
吹石くんと綾森さんに聞く。今までの嫌がらせとはまるで違う、殺意を面に出した襲撃には何か理由があるはずだ。
吹石くんは首を傾げながら、言った。
「鎹先輩は、俺たちが何か噂を流したって……」
「噂?」
「女を犯したと出まかせを並べた、と憤怒していた。それから方子がどうとか……まさか、最近方子が休んでいるのは」
「いやいや、先生が体調不良って言ってただろ?」
綾森さんが勘付いて背筋に冷たいものが走ったけど、吹石くんが学園の誠実さを信じているお陰で助かった。まだ、知らないでいてほしい。
「小野寺!どうだ、無事か!」
「綾森!だ、大丈夫?」
そこへ、西側を探していた荒砥さんと浅瀬先輩が現れる。
二人共首筋に珠の汗を流して、それが夕陽に橙色に染まってシャツの布地に吸い込まれていく。
「ううぅぅ」
とりあえず、逃げられないように気絶している人をトイレの中に押し込めて、話を聞くことにした。
普段使われていないトイレで、最後に掃除をしたのは何年前だろうという臭いがした。トイレっていうのは利用者がいなくても臭くなるんだね。
収容人数に限界があるから、大方は男子トイレに入れて、話を聞けそうにない人は女子トイレの方に放り込んで綾森さんと浅瀬先輩に見張ってもらう。
荒砥さんは、僕と一緒に尋問する。男子トイレに入るのはやはり大いなる抵抗があるみたいで、気を付けの姿勢のピクトグラムを数秒睨みつけた後、世界で初めて腎臓移植を決断した患者のような面持ちで踏み込んだ。
もちろん、隠岐さんに躊躇は欠片も無い。なんなら、情報屋の仕事で数度踏み入ったことがあるかもしれない。
便所臭に酒と煙草と汗の臭いで軽く地獄だけど、嗅覚を一度封印する。
「うぐぐぅ、足が……」
「鎹先輩、話を聞いてもいいですか?」
「話、だぁ?」
「はい。吹石くんが流したって噂の話です」
「ちっ。もうどうでもいいじゃねえかよ。ああ、おめえは探索してる糞坊主か。もしかしておめえの入れ知恵かよ。えぇ?臭いものはまとめて片づけようってか」
「あはは、先輩たちくらいなら、臭いうちに入らないよ。このトイレの方がよっぽど」
先輩は不機嫌そうに舌打ちするけど、少し話してくれる気になったみたいだ。
「あんなことがあって、あれから俺らは大人しくしてたんだぜ。それなのに、いつの間にか、俺らが強姦だ殺人だって噂が広まって、風当たりは強くなる一方だ。そこに上坂の奴が、噂を流してるのがこいつらだって言ったから」
「上坂くんが……?」
そんなわけで上坂くんにも話を聞きたいけど、完全に気絶しちゃってる。荒砥さんが活を入れようとすると
「それじゃあだめですよ、ほらほら」
前谷くんが待ったをかける。ずいぶん綺麗好きみたいで、トイレの環境に信じられないという顔をしながらも協力的だ。もちろん、状況は全く理解していないだろうけど、気にもしてないみたい。ずっと、隣の女子トイレを番しているであろう綾森さんの方ばかりを気にしている。
「鎖で首を絞めて気を落とした場合は……」
首の左側と、右脇をそれぞれ掴んで、ぎゅっと力を入れる。
「キュイン!」
人声と機械の作動音の中間のような音を出して、上坂くんの瞼が開く。
流派によって活の入れ方も違うとは知ってるけど、こういうツボの押し方は初めて見た。
「あ、あれ……う、臭い」
目を覚ました上坂くんもまずは花をつまんでで驚く。
そして僕たちを恐怖の目で見てくる。ずりずりと後ずさるけど、そんなに動けるほどスペースはない。
「ねえ。吹石くんたちが根も葉もない噂を流してるって噂、どこで聞いたの?」
「うぇ?ああ、あれは……たしか
「竹下?」
「ああ、そうだ……あいつだよ」
指さしたのは、最初に道場内で尋問した時に、上坂くんが抑えつけてた髪の長いアルコール中毒高校生だ。
こっちは首を絞められた跡も無いので普通に活を入れると、途端に酒臭い息を吹き返す。
焦点の定まらない瞳に、同じ質問を投げかける。
「うわさ……?あ、あれね……確か、道場横の竹林で飲んでた時に……そう、声を掛けられてさ…」
「それは誰かわかる?」
「んと……なんだっけな。さ、や、やま、やま……浦島太郎?」
「山浦常太郎?」
「そ、そ。山島浦太郎」
間違いない。今回の件、山浦くんの行動が最大の鍵だ。あの時、まだ何か隠していると思ったのは勘違いじゃなかった。
隠岐さんが、珍しく苦々しい顔をしている。
「山浦かぁ。そろそろ見逃せなくなったなぁ。基本他人には不干渉が原則だけど……うふふ」
妖しく笑う隠岐さんに、目配せをする。それだけで意図は伝わって、ウインクを返された。
竹下くんは、ぼけーっとしながら違う話をし始めた。
「そういえば、あの日も変な人いたなぁ……」
「あの日?」
「そう。あの日……いつも座ってる切株から、道場の避難口が、みえるんだけど……」
「ああ、あれね」
白砂の庭の端にある、ほとんど使われない扉だ。一応、着替えの途中やトイレにいる時にはあそこから非難する事を想定してるらしい。
「そう。いつもはあそこから誰かが出てくることないんだけど……あの日はいたんだよねぇ…ヒック」
「あの日……まさか事件当日じゃないよね?」
もしかしてと思って聞いてみる。
竹下くんは、事件?と不思議そうな顔をしている。
「じけんはしらないけどさぁ……あの人どっかで見たことあるんだよな」
「どこか……?」
「そ。誰だっけな……たまに会ってるような……いや、結構しょっちゅう会ってる気もする……ええと……」
頭を抱えてうんうん唸る竹下くん。アルコールが持つ恐ろしい忘却作用に懸命に抗おうとする姿は勇ましい。
意識がある皆は、それを固唾を飲んで見守っている。意識がない人は相変わらず寝転んでいる。
僕は、殆ど確信に近い仮説を出している。僕の考えが正しければ、ここで言われる名前は恐らく………
「ええと、あそうだ!松阪先生だ!」
答えを出したところで電池を使い果たしたようで、竹下くんは白目を剥いてばたんきゅーと汚い床に伏した。間もなくぐうぐうと案外大人しいいびきをかき始める。
「松阪先生が……どういう事なんだ…?」
荒砥さんが戸惑っているけど、じつは僕は少し疑っていた。
それは、大谷さんの遺体にためらい傷がなかったから。たとえ鎹先輩たちがどれだけ荒くれでも、普段から刃物の扱いに慣れている人とは思えない、実際、今日も襲う時は刀じゃなくて赤樫の木刀だ。
どれだけ昂奮していても、いや昂奮しているからこそ、素人は狙いがぶれて不要な傷をつけてしまう。でも、彼女の遺体にはそういった傷が確認されていない。
多分、多少なりとも刃物を扱い慣れてる人間の犯行じゃないか。そう考えた時、一番条件に合うのが松阪先生だったんだ。
僕は先生の厳めしい風格を思い浮かべる。疑いはしたけど、あの謹厳な先生が女子生徒を襲ってあんな騒ぎを起こすとは思えなかった。
それは荒砥さんも、そして鎹先輩たちも同じようで、当惑している。
「おいおい、松阪がそんな……臍で熱燗つけてもありえねえぜ」
「そ、そうだ……それに、先生に限って女性を襲うはずがねえよ……」
上坂くんが、やけに確信めいて言う。
口をもにゅもにゅさせて、言おうかどうか躊躇した後、絞り出すように暴露した。
「だって、先生は……」
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