あの一瞬の、彼女

サトウ・レン

あの一瞬の、彼女

 俺の頭の中に付けられた管は、どこへ、と繋がっているのだろう。


 白衣の人間が数名、俺を取り囲んで、身体のいたるところに細長い管を入れられて以来、俺は動くことを許されていない。仮に動くことが許されたとしても、動くこと自体、できる気がしないのだが。


 ベッドの上に横たわる俺は、頭ひとつ動かせないので、最近はずっと目をつむっているだけだ。蛍光灯の白い光だけをぼんやりと眺めているほうが苦痛だからだ。


 いまの俺にできるのは、思考のみだ。


 これから俺は、人生をひとつ終わらせることになる……はずだ。だけどそれは、死、ではない。ただ、いつ、どんな形で訪れるのか分からない、という点では、とても死に似ている。


「本当に、後悔は、ありませんか?」

 先日、動けない俺のそばで、男が言った。いや顔までは見えなかったので、男だったかどうか、実は知らない。ただ声から、男、と判断しただけだ。このタイミングで、そんなことを聞くのは卑怯だ、と思った。俺はもう声も出せないのだから。相手も、答えを求めて聞いたわけではなく、独り言だったのかもしれない。わざわざ、俺にそう告げる、ということは、その瞬間が近付いている気もする。


 後悔か……。


 いまの人生において、俺には最大の後悔がある。これから俺に起こることを、俺は知らない。だけどあの後悔に比べれば、きっとたいしたものではないだろう。


 別れましょう。たぶん私たちは出会うべきではなかった。

 ふと言葉が、よみがえる。別れの際、泣くことも、怒ることもなく、彼女が俺に告げた言葉は、ひんやりとしていた。こんな未来を知っていたなら、何度そんなことを考えただろうか。だけど人生は一回だけだ。やり直すことはできないものだ。


 はじめて出会った時、俺たちは大学生だった。最初に彼女を見たのは、熱心な勧誘に根負けして、仕方なく入った演劇サークルの新入生歓迎会だ。そこに彼女の姿があった。伊藤静夏いとうしずかという名前を知ったのは、その時だ。でもその場で、俺たちは話すこともなく、そんなに印象に残っているわけではない。彼女はすこし離れた場所にいて、さらに遅れて参加していたから、そもそも関わりがなかったのだ。


 だから、ここを、出会い、とするのは違和感がある。


 俺たちの出会いの場所として適切なのは、やっぱりあの公園だろう。


「あれ、新歓コンパにいたひとだよね。ちょっと手伝って……!」

 その翌日だった。スーパーで買い物を終えて、まだ慣れないひとり暮らしの新しい自宅を目指して、夕暮れにそまった帰路を歩いている、と声を掛けられたのだ。その声は公園のほうから届いて、目を向けると、そこに静夏がいた。隣には、彼女に手を繋がれたちいさい女の子が泣いていた。


「迷子?」

「うん。どうしたらいいかな?」


 心底、困ったような表情で静夏が言った。たぶん俺も似たような表情をしていたはずだ。困り果てつつも、とりあえず交番に行こう、という話になって、公園を出ようとした時に、大きな声がした。少女の母親らしきひとが、少女の名前を呼びかける声だ。結局すぐに迷子問題は解決して、なんとなくそのまま別れるのも、ということで、俺たちは公園のベンチに座って、最初にしっかりと彼女の顔を見たのは、その時だ。


 困ったように、

「よく知りもしないのに、急に、ごめんね」

 と、夕暮れの陽に照らされる公園で、彼女が、俺にほほ笑んだ。


 単純な性格だ、と分かっている。短絡的な考えだ、と分かっている。でもその顔を見た、あの日、あの時、あの一瞬、冗談ではなく、世界のすべてが彼女になった。それまでの俺は、恋は、ゆるやかに育んでいくものだ、と思っていたし、一目惚れみたいなものは、嘘だ、と感じていた。だけど静夏と出会って、俺はもう、そんなことが言えなくなってしまった。


 静夏も、俺に悪い印象は抱いていないようだった。


 それから俺たちは連絡先を交換し、サークル活動以外でも、頻繁に会うようになった。その途中、俺はサークルを辞めた。もともと演劇に興味があったわけではなく、入ってからも、なかなか好きになれないまま、人間関係までうまくいかなくなってきたからだ。静夏とは、辞めてからも会っていた。好きに生きるのが一番だよ、と言って、俺がサークルを去ったことを責めたりはしなかった。


 デートを重ね、俺のほうから告白し、俺たちは一緒に暮らしはじめた。そして大学を卒業して、何年か経った頃、俺たちは結婚した。


 言葉にしてしまうと、こんな簡単に済んでしまうけれど、もちろんこの辺りにも、印象深い事件やエピソードは色々ある。ただそれをいまになって事細かく思い返すつもりはない。それ以降のことを考えると、あまりにもつらすぎるからだ。


 俺たちの関係の終わりが決定的になったのは、おそらく彼女の不倫だろう。結婚して、十年目のことで、俺たちは三十代も終わりの年齢だった。だけど俺たちの関係の破綻を考えた時、間違いなく俺にも、非はあった。


 別れましょう。たぶん私たちは出会うべきではなかった。

 そんな言葉とともに、俺たちは離婚した。離婚の原因をすべて彼女のせいにするのは、卑怯だ。いや離婚前の俺は、本当に卑怯で、俺は何も悪くない、の一点張りで、あの頃の俺たちの姿は、周りから見れば、あまりにも悲惨か、あるいは滑稽に映っただろう。


 大学を卒業後、最初に入った会社は、いわゆるブラック企業の基準を満たしているのかは分からないが、すくなくとも俺にとっては、とてつもなく過酷な職場だった。結局その会社を、俺は二年ほどで辞めて、以降、辞め癖が付いてしまったのかもしれない。ひとつのところで長くいることができず、職を転々とするようになった。彼女は、同じ職場にずっといて、順調に見えた。仕事だけではなく、友人関係でも、うまくいかなかった。お金を騙し取られたことがあったのだ。


 大事なところで選択を誤る。何をやってもうまくいかない。要領も悪い。


 静夏の目には、きっとそんな俺が、ふらふらとして頼りないやつに映っていたことだろう。すこしぐらいなら大目に見ても、降り積もれば許せなくなる。


 いまになって思えば、もしかしたら静夏の不倫は、俺への復讐もあったのかもしれない。


 その相手は、俺とは真逆なタイプの男だったからだ。


 別れましょう。たぶん私たちは出会うべきではなかった。


 彼女の最後の言葉を聞いてから、よく考えてしまうようになった。出会った頃、こうなる未来を知っていたなら、と。何度、後悔しただろう。どれだけ後悔しても、過去へと戻れるわけがない、だって人生は一度きりなのだから。そう分かっていても、萌した想いを捨てるのは難しい。


〈いまの人生を捨てて、新しい人生をはじめてみませんか?〉


 たった一度だけ、過去をやり直せる方法がある。


 そんな都市伝説めいた噂を偶然、職場の同僚から聞いた。同僚もその具体的な方法までは知らなかったし、そもそも冗談のつもりで話したのだろう。俺が真面目に聞くとも思わずに。いわゆるダークウェブなどと言われるものまで利用し、俺はある企業が行っているビジネスと、その企業の連絡先を知った。


 目を開く、蛍光灯の光が眩しい。


 完全に信じきったわけではない。雑居ビルの中に、病室みたいな真っ白な部屋があって、白衣の人間たちがいて、そして俺はいま、長い時間、ベッドに寝かされている。怪しさだけが、その場に充満している。俺はこれから殺されて、臓器などを売られてしまうかもしれない。というより、そっちの可能性のほうが高そうなくらいだ。でも本当に過去に戻ろうとするなら、このくらいのリスクは背負わなければいけないような気もする。


 声が、聞こえる。先日聞いた男性の声に似ている。


「いまからあなたは、いまの人生を捨てて、新たな人生をはじめ――」


 頭に激痛がはしり、その言葉を最後まで聞くことができなかった。


 気付けば、俺は夕暮れの景色の中にいた。指定した通り、あの時の公園が、俺の視界に広がる。いまの記憶を持ったままの俺は、きっと彼女を好きになることもなく、新しい人生がはじまる。


 だから、ここを選んだ。

 彼女と出会い、恋に落ちたこの場所で、俺は訣別するのだ。


 俺にとっても、彼女にとっても、それが未来の幸せに繋がるのだから。

 そう信じていた。


 でも……。あぁ、そうか……。


 やっぱり俺はいつも、大事なところで選択を誤る。俺たちはそもそも出会ってしまった時点で、こうなる運命なのかもしれない。出会ってはいけなかったのだ、きっと。


 未来の暗さを知っていても、

 あの日、あの時、あの一瞬の、彼女に、俺はまた恋をしている。


 俺たちはもう一度、ふたりで歩きはじめた。光射す、未来を信じて。

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