【KAC20227】そして高校の入学式の日。私は彼に出会った……

和響

平和への祈り

 私は彼を愛している。あの何を考えているかわからないような彼の横顔が好き。出会った時から、不思議なここではないどこかの空気感を纏っていて、他の誰とも違う香りがする特別な存在感の彼が大好きだった。


***


 ――あれはまだ高校生になったばかりの頃。


 真新しい制服を着て、自転車にまたがりスカートの裾を気にしながら、坂を下る駅までの道。髪を撫でていく春風はせっかく綺麗にした私の髪を揉みくちゃにして、それはまるで私が新しい世界を期待している心をまるでからかっているようだった。私はそんな朝の時間が好きだった。そう毎日自転車に乗るたび感じていたのは、私自身実際に新しい世界に期待を寄せていたからだと思う。


 志望校は県内でもトップ5には入りなさいという両親の意向を真面目に受けて、毎日夜遅くまで塾に通い念願の志望校に合格した私はやっと恋をする準備ができたと卒業式の間中ずっと思っていた。


 中学では男女交際は禁止。それが両親との約束だった。でも、憧れはあってもそれは嫌ではなかった。


 好きだった男子と両想いだと思ったこともある。付き合っちゃえば? と周りからからかわれたこともある。周りの同級生は付き合ってる子もたくさんいた。でも、私は好きになることはあっても、高校生になるまでは付き合うことはなくていいと思ってきた。付き合ったその先に、何があるの? そう、いつも思っていたから。そして、それがとても怖いような気がしていたから。


 中学女子のトークは、きっと私達の親が考えてる範囲を超えていると私は思う。小学生で高校生の彼氏がいたなんて子もいたりしたし、中学の同級生には大学生と付き合ってる子もいたりして、「もうそんな経験はしている」とか、「そんなのは付き合えば当たり前」だとか、「もちろんキスはもうしたよ」とか、「手も握らないしLINEの返事も遅くてつまらないから別れようって言った」とか、そんな会話も飛び交っていたりするのは日常だった。でも、私はそれを羨ましいなとは思っても、そうなりたいとは思わなかった。まだ今じゃない。


 そう思っていたから、中学校の卒業式に両想いだとお互いに思えるクラスメイトの男の子に告白をして、高校は一緒に電車で通って高校生ライフを一緒に過ごしたいと思っていたのだけれど……。


 あっけなく、その未来は霞が風に流されていくように消え去った。


 中学二年生のバレンタインの後、両想いで志望高校も同じだねって毎日笑い合っていた彼が他のクラスの誰かと付き合い始めたと噂を聞いた。学年中の誰もが、私と彼が両想いだと知っていると思っていたけれど、現実はそんなに甘くはなく、instagramで猛アタックをした隣のクラスの女子を彼は好きになったといって付き合うことにしたらしかった。


 ――そんなくらいにしか私のことを思ってなかったんだ……?


 そうであるならば私はもっと早く気持ちを確かめ合って付き合えば良かったのかと一人で枕に顔を押し付けて思い悩んだ。 私ももっとみんなみたいに、積極的になれば良かったんだろうか、そうしたら彼を誰かに取られることなんてなかったのだろうか?


  いろんな感情が沸いては消えて、私の胸を締めあげたその力は私の涙の貯蔵庫を何度も溢れさせたけれど、でもどうすることもできないまま、時間はすぎた。そして、中学三年になりクラスも変わって、私は負傷してまだ包帯を巻いたままの心を隠しながら待ち望んでもいない受験生に流れるままなった。


 ――もう恋愛感情はいい。高校生になってからでいい。もうこの中学校の誰ともそんな気持ちにはなりたくない……


 そう思いながら、何もしてないまま失恋したという心の傷を、その痛みを感じないように自分で麻酔をかけて、毎晩遅くまで塾に通い受験勉強をした。麻酔から目覚めるのは高校生になってからだと自分に言い聞かせて。


 そしてやっと、春が来た。卒業式の時、やっと重苦しい世界から解放されたと思った。


 高校の入学式の日。あの私を押さえつける失恋の記憶も、何もかもが麗かな空気に包まれ、庭に父が自宅の新築記念にと植えた桜がやっと咲いた玄関先で、着物姿の母と写真を撮った時に、私はようやく新しい世界が始まると思ったのだった。


***


 ――そして高校の入学式の日。私は彼に出会った……


 希望の進学校に進めた私は、入学式の後のホームルームで緊張しながらも温かな気持ちに包まれていた。中学時代の心の痛みに麻酔をかけて眠っていた自分がやっと目覚めた気分だった。コロナの感染予防対策として開け放たれた窓からは、私を優しく包むような暖かさを感じる風が時折私の髪を揺らしていた。


 ――新しい世界が始まる。もう過去に囚われることなく、私は私の世界をここでこれから生きることができる。


 私は静かにその温かな空気をゆっくりと味わうように胸に吸い込んだ。私の胸はこれから始まる新しい世界への期待で大きく膨らみ、その感覚は身体中に充満していくようだった。そして、その日私は彼に出会った。


 彼は平坦な凹凸の少ない私と違いまるでフランス人形のような美しい顔をしていた。目鼻立ちがしっかりとしていて外国の映画俳優のようだなと私は思った。日本人ではない顔……。でも彼は流暢な日本語で、自己紹介をしたのだった。


 「僕の名前はウラジーミル。ロシア人の両親が日本でロシア料理店をしているので小さい頃から日本で暮らしています。よろしくお願いします」


 自己紹介の時にそれだけ言って席に座る。窓際の私の斜め向かいにいる彼は、他のクラスメイトとは違う何かを纏いながら、それからいつも私の視線の先にいて、それがいつしか、私の見る世界のワンシーンになった。それは彼がいないなんてあり得ないほどに私の視界に映り込み、それが私の全てかもしれないと思うほどだった。


 もちろん他のクラスからも他の学年からも、美しいエメラルドグリーンの瞳を持っているにも関わらず日本人と変わらない言葉でコミュニケーションができて、まるで絵本から飛び出てきた王子様のような彼を見にくる女子生徒は沢山いた。でも、当の本人のウラジーミルはそんなことは無関心でもあるかのように日本語やロシア語の難しい本を読み、そんな雌達の興味には興味がないようにうまくあしらうのだった。


 ――あの日、私は彼に恋をした……と思う……。その素っ気ない今まで出会ったことがない空気感に……私は惹かれてしまったのだった……


 ***


 ある晴れた日。確か、五月の大型連休が明けた頃だった。図書館で本を借りていた私の目の前に彼が、ウラジーミルが突然現れたことがあった。


 「あのさ、本を探してるんだけど、これ知ってる?」


 そう言って私の前に出してきたメモに書かれた本の題名には『ヒトラーの憂鬱』と書かれていた。私はそんな歴史的なものは読んだことも探したこともなかったけれど、でも彼と一緒の時間が過ごしたくて、図書館の歴史の棚を一緒に探してみた。


 「ここに多分あるんじゃないかと思うんだけど。やっぱり日本の歴史の本が多いよね」


 「仕方ないよ。ここは日本だから」


 そんな短い会話の中に私は、彼は日本人ではないと改めて思った。


 「あ、これ」


 「見つけた?」


 まるで日本語を話すのが日本人だからだと思うほどの日本語で彼が私に聞く。


 「うん」


 「ありがと」


 そう言って、彼はその本を手にして熱心にその場で読み始めた。私は何故だか不思議に思い、自分でも不思議なほど自然に、


 「なんでそれが気になるの?」


 と口を開いていた。彼は私の方を美しい異国の目で見つめ、


 「今のロシアだから」


 とだけ言った。私は胸がざわつく気がしたけれど、この彼との時間をただ味わいたくて、そのざわつきをないものにした。


 ***


 ――三年後


 二〇二二年 二月 ロシアがウクライナに侵攻したとテレビのニュースは報じた。私のあの時の胸騒ぎは確かにそうだったのだと、私は思った。


 あの日図書館で彼が探していた本のようになってしまったと、私は思った。少し前に世界を襲ったコロナウイルスの流行で高校生時代を共に生きた愛しいウラジーミルの家族は、故郷であるロシアへと帰っていった。もう日本ではロシア料理店の収入が見込めない状況になっていたからだ。


 もちろんインターネットで世界中が繋がれる世界。国境を超えた遠距離恋愛を会えない寂しさながらも続けていた私たちだったけれど、ある時彼に告げられたのは、戦争が身近ではない日本国民の私には理解できない一言だった。


 「俺、徴兵されるんだ。もう十八歳を過ぎているし、ウクライナ近郊で軍事演習を行うらしく、そこにいくことになって」


 「それは、あなたに大丈夫なことなの?」


 「大丈夫だよ。ただの軍事演習だし。日本と違ってロシアにはそういうことは普通なんだから」


 「本当に?」


 「うん、本当にだから。大丈夫。すぐに終わって戻ってくる予定だし」



 ***


 二〇二二年 三月


 もう彼は戻ってこないかもしれない。スマホもつながらなくなってしまった。


 私はテレビで、SNSで、毎日ロシア軍がウクライナでしている殺戮の数々を目にする。でも私は知っている。彼がもしここにいても、彼はこれを望んでないことを。何故、それがわからない? ロシアのここにいる若い兵士はみんな騙されてここにきたんだということを。


 だから、私は同じ想いの両親と貯金を叩いて日本でその材料を集め、モスクワで焼き鳥屋を営む兄の元へすぐさま反戦運動の荷物を送った。兄は、ロシアのモスクワで父が日本で経営している焼き鳥屋を展開しているから。


 今こそ、世界中の人々がどんな手を使っても立ち上がるべき時。戦争は、戦争だけはしてはいけない。誰かの、私の、愛する人を奪わないで。そう思う気持ちはもう国境を超えている。


 決戦は二〇二二年の四月一日エイプリルフール。


 頭のいかれた独裁者の好きにはもうさせない。

 今世出会えた奇跡を暴力によって別れる未来がないために。



 ――黙祷。


 私達は戦争のない世界を望んでいます。

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