白い部屋の人
斐古
白い部屋の人
「もう……疲れた……」
フラフラと……おぼつかない足取りで、私はひたすらに歩く。
どこを目指すでもなく、目的もないまま……まるで予めプログラムされ、ただその通り動く機械のように、私はただただ足を前へ前へと動かすだけ。
……どれほどの時間、そうやってさ迷ったことだろうか。
気づけば見知らぬ扉の前に立っていた。
「なんだ? この扉は……」
無意識下でさ迷っていたせいで、ここがどこだかさっぱり分からない。
明かり一つない、狭い袋小路。
それなに、この目の前の扉は何故だか妙に存在感がある。
私は疑問に思いながらも、どうしてかその扉を開ける必要があると思った。
固く冷たいドアノブの感触が手に伝わり、私は軽く捻る。
そうして扉を開けると、光が漏れだしてきた。
あまりの眩しさに、私は反射的に目を瞑る。
徐々に光に慣れはじめ、ゆっくりと目を開ける――――――と、真っ白な部屋の中に一人の人物が居た。
その人は無機質な白いベッドに、枕を支えにして上半身だけ起こすような形で座っている。
不思議なことに、私が来た扉の外は夜だというのに……この部屋に一つだけある窓の外は、まるで真夏の昼間のように、眩しいほどの青空が広がっていた。
そして開け放たれた窓からは、心地よい風が吹き抜け、その人の細く白い髪を揺らす。
そして私は悟った。「この人はもう長くは無いのだ」と。
理由は分からない。だが、何故かそう思ったのだ。
「貴方は死ぬのですか?」
無意識に口に出た私の言葉に、その人が振り返る。
私は慌てて手で口を塞ぎ、思わず顔をそらす。
「(しまった、失礼なことを言ってしまった……)」
私は己の失言に対し、内心でとても焦った。
血走った眼で「巫山戯るな!」と、怒鳴られるかもしれない……そう思うと、心臓がバクバクと音を立てて脈打つ。
私はすぐさま「謝ろう」と決め、その人に近づいて視線を向ける。
するとその人は、怒るどころか嫌な顔一つせずに私に微笑んで「えぇ、死にますよ」と、返した。
その返答に、私は思わず呆気に取られる。
そして私は、少しの間を置いてから口を開く。
「……死ぬのが、怖くないのですか?」
私は謝罪の言葉ではなく、気づけばその人に質問をしていた。
それなのに、その人は相変わらず嫌な素振りを見せずに、首を軽く横に振る。
「いいえ、とても怖いですよ」
「ではどうして、そんなに落ち着いているのですか?」
「怖いから、落ち着いていられるのですよ」
その人の言葉の意味が分からず、私は眉をひそめる。
対してその人は、無垢な瞳で私を見つめてこう問うた。
「アナタは死ぬのですか?」
その人の言葉に、私は驚いた。驚いて、再び心臓がドクンと脈打ち――――私は、何も言えなかった。
静寂に満ちた空間に、再び風が吹く。風が私の頬を撫で、髪を揺らす。
「……私はもう、疲れました。だから死ぬのです」
――――夢を諦めました。
――――親友を失いました。
――――目標を失いました。
ポツリポツリと呟いた私の言葉に、その人はそっと静かに耳を傾けていた。
裏切られ、絶望し、挫折した。
疲れきって全てを終わらせたくて、あてもなくさ迷った。
――――そして気づけばここにいたのだ。
言い終えた私を無言で見つめていたその人は、そっと口を開く。
「……大変、でしたね。アナタは今まで、よく頑張りました。本当に、偉かった」
その人の言葉に、目頭が熱くなる。
褒められたかった、認められたかった。
そんな感情が、一気に込み上げ、溢れ出した。
頬を伝うそれを拭いながら、嗚咽を漏らす。
堪えようと必死に耐えたが、まるで感情のダムが決壊したかのように、私は子供のように泣きじゃくった。
そんな私を、その人は自信の細い腕を伸ばし、黙って優しく背を撫でてくれた。
痩せ細り、皮が張って骨が浮きでたその腕は、どこか安心感を与えてくれた。
――――どのくらいそうしていただろうか。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった私が泣き止む頃、その人は真剣な眼差しで私を見ていた。
「アナタにはこれからもきっと、沢山辛いことや大変なことが起きるでしょう。再び裏切られ、絶望し、挫折することもあるでしょう」
私は鼻をすすりながら、その人の言葉の続きに耳を傾ける。
「……ですが、これだけは覚えておいてください。アナタの人生は、決して辛いことだけではなかったのだと」
そう言ってその人は、私が入ってきた扉へと指をさす。
「……私はそろそろ逝きます。だからアナタも……さぁ、お行きなさい」
私は最後の雫を拭うと、促されるまま元来た扉へと足を向ける。最後に振り向けば、しわくちゃな顔のその人が微笑んでいる。
私は微笑んで頷くと、扉の向こうへと戻る。
ココへ来た時とは違い、力強く一歩一歩を踏み出す。
あの人と会話したことで、心が少しだけ軽くなったようだった。
「(きっと私は、誰かに認められたかったのだ……)」
何故か、私は「それがあの人で良かった」と思った。
――――――――――――――――――――
扉が閉まり、一人残されたその人物はらしばらくの間その扉を無言で見つめていた。
きっとこの扉からはもう、誰かが尋ねてくることは無いだろう。
安心するように微笑むと、最初のように窓の外へと視線を戻し、ぽつりと呟く。
「大丈夫。
入道雲の浮かぶ青い空の向こうでは、一羽の鳥が飛び去っていく。
そうして、
白い部屋の人 斐古 @biko_ayato
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