俯かず、顔を上げて
せてぃ
いま、こんなにも涙が溢れるのはなぜだろう。
この方と過ごしたのは一年と少し。
シホ・リリシアは、いま目の前に横たわる相手のことをどう呼ぶべきなのか、ずっと悩んでいた。
『聖女』と呼ばれた人。
シホの特異な能力を見抜き、見出だした人。
シホを厳しく鍛えた人。
身なりから始まり、人との接し方、話し方。読み書き、教養、この国の、そして大陸の歴史。教会の教えと仕組み。いまのシホを形作る全てを厳しく教え込まれた。
そして、同時に優しくもあった人。
『聖女』の名に相応しい優しさで、シホの日々を見守ってくれた人。
『聖女』をシホに託した人。
シホは手にした一輪の白い花を、横たわる『聖女』の胸の上、組み合わされた手の甲の上に置いた。
痩せて節榑だった手は、齢八十を間近にしたもの相応の老いを感じさせた。その手にそっと触れると、氷に触れたかのような冷たさしか感じられなかった。
その瞬間、急に現実がシホの胸の内を競り上がった。鼻の奥がつん、として、涙が止めどなく流れ始める。この方と過ごした一年と少しの時間が、次々に浮かんでは消えた。
ずっと堪えていたわけではなく、ただ、現実を理解できていなかったのだ。
母が逝った現実を。
シホは、両親を知らない。
戦災孤児として、養父母に育てられたからだ。
そのわたしが、母と、いまこの方を呼んだのか。
そう思うと、涙はさらに量を増した。息ができず、嗚咽を漏らして、シホは泣いた。
そうだ。お母様。お母様だった。
「シホ様」
泣きじゃくるシホの背後に、男性が立っていた。シホは陽光色の美しい髪を揺らして振り返ると、辺りの目も気にせず、その青年の胸に飛び込んで泣いた。
「ラトーナ様は、常にシホ様を案じておられました。今後はわたしが、及ばすながらお力添えを致します」
必ず守る、という強い決意を感じる声を、シホは自分の泣き声の中で聞いた。
この日、天空神教会最高司祭にあって、『奇跡の人』『奇跡の聖女』と呼ばれた女性、ラトーナ・ミゲルが神の御許へと召し上がられた。現世で積み重ねた徳の多い彼女は、天空の神そのものになれると教会は謳った。
だが、彼女が続け、シホに託した、この大陸の破滅を防ぐ為の『暗闘』までは、民衆に語らなかった。
旧王国時代の遺物、超常の力を秘めた武器、百魔剣。
ラトーナが亡くなったこの日。
その遺物と戦いは、シホへと託された。
俯かず、顔を上げて せてぃ @sethy
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