モノ忘れ探偵とサトリ助手【出会いと別れ】

沖綱真優

別れと別れと

「春ですねぇ……」

「春ですね」


広げた新聞を老眼鏡越しに見つめたまま、正木興信所所長の正木善治郎は相槌を打った。

応接テーブルで未解決事件ファイルを眺めていた助手の中島健太がため息を溢す。


「どうして春って、すっと暖かくならないんですかねぇ……」

惨憺咨嘆さんたんしたんと言いますからね」

「それをいうなら三寒四温……って、その変な造語、僕のことですか?」


惨憺たる現状を咨嘆する、なるほど自分に相応しい……健太は冬物をすっかり片付けてしまい、薄手の綿ニットで震えている。

三月に入って急に気温が上がり、二十度を超える日もあったのだ。ぽかぽか陽気に春物を慌て引っ張り出し、ウールのセーターをクリーニングに出してしまうのも仕方なかろう。


それが今週は寒の戻りだ。

だいたい、梅や桜の花びらならいざ知らず、舞い踊るのは花粉ばかりというこの都市部で、寒風吹きすさぶ春とは何たることか。

どうせ風流など解さないのだから、暦くらいは守れば良いのに。


「くしゅんっくしゅんっくしゅんっっズルズルズル……」


原因がどちらか不明なクシャミを連発し、派手に鼻水をかむと、健太はボヤいた。


「春なのに……出会いが、ない」

「社会人は人間関係が固定されがちですからね」

「先生、事務員を雇いましょう。ぼっきゅっぼん」


健太はデスクにいる探偵の方に向けて、両手で理想の曲線を描いた。

探偵は眼鏡の上からシラとした目を見せて、


「多方面から叱られそうな表現とジェスチャーを止めてもらえませんかねぇ。

うちは君がいれば充分ですよ」


それらしいことを言う。


「……そういえば今月、回転焼き以外の報酬貰ってませんけど、大丈夫なんですか、家賃とか」


健太は、探偵の意図を正確に読み取った。

お金がない。

仕事もない。

いや、仕事がないからお金がないのだ。

新たに人を雇う余裕などないことは先刻承知。健太の月給の支払いが滞っていないだけでも奇跡的というのに、ぼんきゅっぼんのボンドガールがこの零細興信所の戸を叩くなど。


ボンドガール……。

谷間を惜しげもなく見せつけるセクシードレス、清楚な風で腰から尻のラインを誇張するワンピース。

情事の余韻が艶めかしい、素肌に絡みつくシーツ。


お嬢さん、僕が守りますから。

命を狙われていると助けを求めてきた女性を、保護がてら雇い入れる。

周囲で起きる事件すべてに怯え、涙ぐみ震える彼女を禿げ増す励ますうちに深い関係に堕ちる助手。

あぁ、愛しているわ、ケンタ。私を守って……。

しかし、女の目的は探偵にあった。

探偵の秘密を探る、女スパイ。

探偵が私を狙う犯人かもしれないと、籠絡した助手とふたり、深夜の事務所に忍び込む。細工した小さな懐中電灯でぼんやりと照らした事務所の中、常に探偵が座っている事務机に近づく。

きっとあの中に……はっ。


「ドン、突き飛ばされた瞬間、ガァーン、轟く銃声。

『け、ん、』

転がる懐中電灯が、彼女の輪郭を際立たせた。

幾度も抱いた身体から温もりが失せようとしている様を、数歩の距離から眺める。

『あ、い、し、』

腰をしたたかに打ち付けた僕の身体は、最も大切なこの瞬間に動作不良を起こして、抱きかかえるどころか触れる事さえできずに、愛した女性を旅立たせてしまう。

『知ることは、知ろうとすることは、罪です』

冷たい声が、闇に響いた。尊敬する雇い主の、耳にした覚えのないほどに冷えた声が……」

「妄想は結構ですがね。口に出すのは止めて貰えませんかね」

「え、声出てました?」

「それ、私が犯人じゃないですか。失礼にも程があります」

「そうでもないんですけどねー、探偵なんて幾らでもいますし」

「『僕』の『雇い主』なら私でしょう。

しかし、街中でサイレンサーも付けずに撃つなんてコンセンサスなこと、私はやりませんよ」

「ナンセンスって……まあ、いいです。

仕事ですよ、仕事。

いい加減、新聞広告でも出しませんか?」


健太は一人掛けソファから立ち上がり、デスクに近づくと、正木探偵の読んでいる新聞を平手で叩いた。


「今どき、三行広告でもないでしょう。君、パウロなんかの読み過ぎですね」

「クリスティだけじゃないです。古き良きミステリーの小道具のひとつ、新聞広告でのヒト探し、ペットから宝探し、果ては殺人予告。ロマンじゃないですか」

「ウチは広告も看板も出さないのが売りですし、家賃は格安ですから心配無用です」


新聞の上に置いた健太の手をぺちんと払うと、正木はページをばさり捲る。

きな臭い国際情勢に険しい顔になる正木を、しばらく斜め上から眺めていたが、


「……大家さんと知り合い、とかですか?」


健太は尋ねた。


「ふむ、これはなかなか難しい……何か言いましたか?」

「家賃が格安って、」

「事故物件ですよ。君、広げてたでしょう、ファイル」


え、と声にならない声を上げて、健太は振り返った。

先ほどまで眺めていたファイルには新聞切り抜きが入っている。物差しを使って丁寧に切り取り、白紙に糊付けし、新聞社と日付を几帳面な字でメモしてある。先生の字ではない。

開いたページには、痛ましい幼児誘拐事件の記事が入っていた。


空海くうかいちゃん誘拐事件……?あ、違う、読みが」


空海スカイシーちゃん誘拐事件。

十五年ほど前の話だ。当時健太はまだ小学生だったが、幼児の誘拐とあって新聞やワイドショーでも大騒ぎだったため、覚えている。

発覚から犯人逮捕まで二週間ほど、毎日のようにワイドショーのカメラの前で、子どもを返してくださいと涙ながらに訴えた母親が印象的で、実にジェットコースター展開を見せた事件だ。


宇山空海うやまスカイシーちゃんが誘拐されたと母親からの通報を受けて、警察が捜査を開始。身代金などの連絡がなかったため、早い段階で公開捜査になった。

目撃情報は芳しくなく、普段から母親や男性の怒鳴り声が聞こえるなど、逆に児童虐待が疑われる。

また、捜査の過程でこの男性、同居する内縁の夫の覚醒剤所持が判明。家宅捜索が行われる。複数の覚醒剤、大麻類とともに、押し入れの天袋から複数の幼児の遺骨が見つかり、このうちのひとつが空海ちゃんと断定、母親の自作自演と結論づけて逮捕した。


「悲劇の母親を演じる……『代理ミュンヒハウゼン症候群か』。

この事件とこのビルが何か、」

「あ、違います。その事件ではないです」


読み終わった新聞を雑に畳んで、正木探偵は立ち上がった。

応接セットのテーブルを挟んで向かい側のソファまで来ると、どっこいしょと座った。


「君が調べているのなら、別の事件だと勘違いしましてね」

「暇だから、未解決事件ファイルを眺めていただけですよ。何も、」


テーブルのボックスティッシュを一枚抜いて、先生は老眼鏡に息を吹きかけた。ティッシュ越しに二本の指が老眼鏡を挟み込み、ゆっくりと動き出した。

健太は区切った言葉の続きを呑み込み、核心を突いた。


「ここで、誰が亡くなったのです?」

「さぁ……。詳細を伺わない、調べないという条件で借りてましてね」


絶対に嘘だとは言い切れなかった。

正木善治郎探偵が名探偵として名を馳せていたのは十年以上前の話だ。

仕事依頼の量、質どちらを取っても、今は忘れられた探偵なのだ。

例えば遺産相続に係る失踪事件や殺人予告の捜査など、有名探偵ならではの依頼を多数解決してきた正木探偵が、落ちぶれた現在において、探偵という職業自体に拘泥しているとしたら。

ペットを含む失せ物探しや浮気調査が主な仕事であっても、興信所所長という地位ともいえない地位、気位が大切ならば謎を謎として放置することもあり得る。


「……あり得ない」


『探偵という仕事しか私には残されていない』


いつか、下手くそな舞台役者のセリフの様に。

冗談めかして、目だけは真っすぐで。

そのあと、照れ隠しなのか、頭髪を取り外して顔を覆ってしまった。


先生の頭の外も中も隠し事だらけなのか。

まだ信用されていないだけなのか。


ビルの一室、窓の外は真っ赤に染まる。

祭りの日、フィナーレのスターマイン。

先生の手に握られた銃が音もなく非情な鉛玉を打ち出す。

男は倒れ、先生は部屋を出る。

入れ替わりに戻る助手……第一発見者は、やがて逮捕される——


健太は頭を振った。

ただの想像だ。妄想だ。

推理できるほどの材料がない。推理できるほどの頭脳も。

しかし、認知されていない連続殺人事件を、この忘れられた探偵が解けるだろうか。


「別ればかりで……出会いがありませんね」


失った人を想いだして、健太はしんみりと言った。


「出会わなくては別れることはできませんから。別れたのならば出会ったわけですし、別れには出会いが内包されている……いえ、出会いにこそ別れが含まれているのでしょうね。別れないふたりなど、あり得ませんから」


探偵は、老眼鏡を畳みながら応えた。

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