その夜を知っている

 子どもの頃の一時期、不眠症だった。
 三時間しか寝ない小学生はそう多くはないだろう。
 睡眠時間が少ないことの弊害を理解していなかったし、そのことで悩んでもいなかったので、親や教師に相談することもなかった。

 闇の中で眼を開き、天井から堕ちて来るふしぎな水飴や、まばたきをした後に現われる海月の抜け殻のようなような薄緑の輪っかをわたしは視ていた。
 視力が悪かったので夜の読書は禁止されており、宿題も夕方のうちに終えて三十分だけテレビを観てしまうと、夜九時からあとには長い夜が待っている。
 バザーで買った中古のラジオの音を細く絞って、真っ暗な中でラジオから聴こえる音に耳を澄ます。
 若手漫才師の番組もあった。
 クラシックの旋律も流れた。
 流行歌もあれば、古いフォーク音楽が聴ける日もあった。
 (なんて云ってるのかな……)
 歌詞を即座に正確な単語に変換できるほどの語彙力はまだなかったが、心に留まる曲があると、枕元の小さなライトを付けて分かるだけの言葉をいそいでノートに書きとめた。

 朝になってその紙をみても、どの曲のどの部分の歌詞なのか分からなかった。
 それらの曲は夜中にだけ耳の奥にあり、朝になると脳内に部分的な旋律だけを残して消えていた。


 三時間しか寝ていなかったことは、応接間の鳩時計の音で知っていた。日付が変わって、一時、二時、三時。ぱたんと巣箱の扉が開いて、時計の鳩が夜に鳴く。

 ぽっぽー

 ぽっぽー

 ぽっぽー

 ジーッジーッ。
 ぱたん。


 鳴き声よりもぜんまい仕掛けの巣箱が閉じる時の音のほうがやけに大きく聴こえたものだ。
 三時から四時のあいだで、わたしはようやく眠りに落ちる。
 そして六時半に起きるのだ。
 なぜそんなにも眠らなかったのかは分からない。とくに身体が変調することもなく、家でも学校でも元気に過ごしていた。一時的にショートスリーパーだったのかも知れない。
 不眠に陥るような悩みこそなかったが、しかし小学生の頃のわたしは、ややこしい子どもではあった。


 倖せな、倖せな、人々。


 たぶん、何かの詩か小説の中に似たフレーズがあり、それが定着したのだろう。
 物書きの多くは幼少期から、小説の中の登場人物をみるようにして周囲の人を少し離れたところから見つめているものだ。そういう視点の癖がある。
 長じるにつれてだんだんその癖は意識的に引っ込めるようになるのだが、十代のうちはかなり強くもっていた人も多いだろう。
 小学生の少女たちがまず何よりも優先する横つながりの安心感と連帯感からわたしは落っこちていた。
 賢しげなことに、そんなことで諍いを起こしても不毛なだけであることもわたしには分かっていた。
 だから表には出さず、わたしは微笑んで皆に歩調を合わせ、その時がくれば周囲の何の疑問も思考も抱いていなさそうな友だちを眺めながら、この言葉でやり過ごすのだ。
 倖せな、倖せな、人々。


 萌木野めいさんの「iBook G4の思い出」を読んだ途端、忘れていた小学生の頃のあの夜が甦ってきた。
 優れた書き手は、読み手の体験や感覚を引き出してその文章世界に引きずり込むものだ。
 これ知ってる。これ分かる。
 追体験するように読者は文面を追いかける。
 萌木野さんの無駄のない洗練された描写が、若い女性の抱く悩みや雑念を、暗闇の中のとぼけた光となって読者にも投げかける。
 ぽわーぽわー
 記憶にある夜を読み手はそこに重ねて想い出すだろう。

 ぽわーぽわー

 ぽっぽー ぽっぽー

 ぽわーぽわー

 ぽっぽー ぽっぽー


 ぱたん。


 もちろん、小学生と大学生の思考能力や悩みや夢想が同じであろうはずがない。
 わたしは深い悩みなどない普通の小学生で、ただ夜中に起きていて、鳩時計の音を聴いていただけだ。
 ただこの経験があればこそ、闇の中に明滅している電子の灯りをじっと見つめている夜の長さを容易に想像できた。
 ぼんやりした頭の重みと繰り返す寝返り、季節ごとの過ごしやすさ過ごしにくさ、時折そとを通る車の音と投げかけられる不安なライト。
 風が吹く真夜中。月にかかる虹色を帯びた雲の船。
 誰かが歌いながら夜道を歩いている……。


 鳩時計はある日壊れて、あっさり棄てられた。もともと母の趣味ではなかったのだ。
 その後にはすっきりしたクリスタルガラスの、音の鳴らないシンプルな電波時計が箱型の鳩時計に代わって壁に架かった。
 大人になってから鳩時計を見ると、スイスじゃあるまいしと鳩時計を見るたびにぼやいていた母の文句も分かるなぁという感じだった。


 人は老いて死を待つばかりとなった時、仕事であったり家族であったり、その人生を象徴するものをいくつか想い浮かべることだろう。
 萌木野めいさんならば、傷だらけのお弁当箱のようなiBookG4を回顧して、何を想うのだろうか。
 型遅れのiBookG4を抱えて大学のキャンパスを歩いていたあの頃の一喜一憂、後に文才となって花開く鋭敏な自意識、自己嫌悪と失望、天邪鬼。
 ひどく大人にみえて憧れていたあの人も、何にも考えずにぬくぬくと育ってきたような我儘な友達も。
 わたしが優越感と疎外感をもって眺めていた彼らとて、外から見てもそうとは分からぬ顔色で平然と小学校に通っていたあの頃のわたしと同じように、独りで闇に眼を凝らしていた長い夜があることだろう。
 思い上がり、落ち込み、他者の才覚や境遇に嫉妬し、ねたまれ、恋の数と失恋の数、ありとあらゆる初体験が色濃く凝縮するその時期を、わたしたちは誰でも通るのだ。
 過ぎ去った日々の悲喜こもごもが込められた白い函を、わたしたちは脳裏で撫でさする。
 この函はわたしそのもの。

 倖せな、倖せな、人々。

 倖せな人はこの函の中にあった。
 ぽわーぽわー
 さようなら、わたしの人生。
 その光を視ながら、わたしなら死にたい。