Episode 2 (ガラクタ置き場と狼と蝶)

夜、家に連れ帰ったときには彼女はもう寝落ちそうな状態であったため、彼は彼女をベッドに寝かせると邪魔にならないよう、軽くシャワーを浴びてそのまま就寝した。彼自身気疲れしていたのかほどなくして意識が途絶えていた。

朝、人の気配で目が覚めた。あまりに不慣れなことだったので、起きてからも頭がぼーっとした。

「おはようございます」

少し目眩がしたが、そんなたどたどしい挨拶はその不快を打ち消すのに十分なものだった。

「おはよう。よく眠れたかい? シャワーを浴びてくるといい。着替えはないけど……埃を流すだけでも気分は変わるだろうし。その間に朝食の用意でもしてくるよ」

彼はそう言ったが彼女は困惑して彼を見つめていた。彼はそれを見て考え込んだ。幼い子供であるからひとりで入浴はできないのかもしれない、と思ったが、いやそれはなかろうと思い直す。彼女はもとより一人で留守番をしていたのだ。風呂など入らなくても良い、という家庭の方針でない限り、入浴や歯磨き、就寝などは一人でできる前提であるはずだ。だとすれば、デリカシーの問題か、あるいは単に風呂の場所や使い方が分からないということかもしれない。

「嫌なら別にいいんだ。でもせめてシャワー浴びて……歯を磨いたほうがいいと思うんだ。僕はどっちでもいいよ。どうしたい?」

言い方に迷ったが、言い方を工夫してどうこうなる問題でもなかった。猜疑心があるのならどのみち問題になるし、ないのなら言い方などどうでもいい。

「お風呂…入りたいです」

「わかった。浴槽は洗ってないからシャワーで我慢してくれるかな。浴室はこっちだ」

彼は彼女を先導して案内した。4LDKの部屋は迷うほどの広さではないけれど、彼女ははしゃぎまわって困るというよりも、必要以上に恐縮しているようだったので案内しなければ進まないと思ったのだ。

「石鹸とかは好きに使ってくれて構わないよ。使い方はわかる? 一人で大丈夫?」

「はい……ありがとうございます」

「じゃあ、バスタオルはここに置いておくよ。僕は朝食の準備をするから」

そう言って彼は彼女から離れた。子供に対してどのように気を配るべきなのかよくわからない。ただ、彼は料理ができないし、昨日買ったものは子供が食べるのには合わない辛味の強いカレーであった。だから食べ物を買うついでに歯ブラシを買おうと思った。幸い、コンビニなら近い。

そうして出かけて帰ってくると、彼女はもう服を着て、不安そうに佇んでいた。

「朝食を買ってきたよ。でもその前に、歯を磨いたほうがいい」

彼はそう言って彼女に歯ブラシを渡した。彼女の細く長い髪が湿っているのに気づいたが、指摘することは気が咎めた。


ぎこちなく朝食を終え、一息ついてもまだ彼女は恐縮していた。けれど、好奇心は隠せないようでもあった。最初は何かテレビでも見たいのかと思ったが、彼女の視線はその隣の箱に向けられていた。

「あれが気になるのかい?」

彼が訊くと彼女はビクリと震えたが、恐る恐る頷いた。

「あれは、なに?」

「あれはパソコンだ。こっちの画面はテレビみたいだけどテレビじゃなくてね。パソコンの画面を映すんだ」

「パソコン? あの箱がそうなの?」

「そうだよ。 ……ああ、そうか。ラップトップしか見たことないのかな。ちょっと待っててね」

彼は寝室に戻り、ラップトップを取ってきた。随分と洒落た姿をしているので同じと認識されない可能性もあったが、少なくとも時間をつなぐ役には立つはずだ。

「お待たせ。君が知っているパソコンと言ったらこういうやつかな?」

ラップトップを彼女に見せると、彼女は不思議そうな顔をして頷いた。

「形は違うけど、あれもパソコンなんだ。パソコンにもいろんな形があるんだよ」

彼はそう言うとディスプレイ横のミニデスクトップを起動した。画面を見せることはあまり役に立たないだろう。彼女がパソコンの画面を見慣れている可能性は低いし、そもそもリビングに置かれたこのパソコンは映像視聴に特化していて画面が普通のパソコンと違いすぎる。

けれど、その話を続けるよりもネットフリックスでもつけたほうが彼女との時間を過ごしやすいと考えたのだ。彼としても、子供とどう接していいのかまるでわからない。今までの人生に子供との接点など皆無であった。

けれど、彼女の関心はそこには向いていなかったようだ。

「パソコン、いっぱいあるの?」

「いっぱい、そうだね…… 僕はパソコンをいっぱい使うお仕事をしているんだ。だからこの家にはとてもたくさんのパソコンがあるよ」

滑稽なぐらい必死の語りであった。それを言うにあたり、彼はラックマウントサーバーをパソコンとしてカウントすべきかどうかという点をまず悩んだ。大人が相手ならコンピュータ・リテラシーが高くなかったとしても、「サーバーがたくさんある」は会話として通じる内容だ。少なくとも、普通の家庭にはないコンピュータを多く保有し使用していることは伝わる。だが、それを理解するには社会的な基準感があった上でサーバーという言葉に聞き覚えがあることが前提として必要になり、人生歴の短い子供に対して言うような内容ではなかった。それを踏まえた上で「パソコンはそんなにない」と回答する道と、「たくさんある」と回答する道があった。今、彼女は明確に関心を持ってその事を尋ねている。関心の程度はわからないが、たくさんあるというほうが夢があるし話がつながるだろう。しかし、ただ「ある」と答えるだけでは突き放しているかのようだ。だから一味加えてあげたほうがいい。とはいえ、彼が分析系の仕事をしている話は一般には社会人であろうと話すべきではない、伝わらない内容だ。しかし「仕事で使う」というのは彼女にとっても情報が増えていない。彼が分析とシミュレーションにのめり込んだ話をしても酒席ですら白けるようなものだ。とすれば、そもそも彼の仕事は運用段階ではスーパーコンピュータを使うようなものであり、その実証過程でも数多くのコンピュータを駆使し計算量を稼ぐ必要があり、それは彼の仕事の特異性であると考えられる。であれば、彼の仕事はたくさんのコンピュータを使うものであるというのは内容の理解を伴わずに彼の仕事を捉える上で正しいものであり、かつそれが逆から見れば保有するコンピュータの数が多い理由でもある。こうして、この言葉を選ぶことで彼はわかりやすく、かつ正しい表現で答えることができた。

「……見たい!」

そしてその反応は、彼がその苦心が報われたと感じるに足るものであった。

彼は仕事部屋を見せることにした。寝室以外の各部屋にラックを組んであるが、あくまで一般家庭である関係上データセンターのような台数を組めるわけではない。重量的にも電気容量的にも実現できない。それならわかりやすく仕事部屋を見せるのが良い。サーバーラックに、二台のデスクトップコンピュータが置かれ、エンボディチェア、複数に分かれたゲーミングデスク、分離式キーボード、トラックボール、画面を見るためだけに設計された照明、大きなトリプルディスプレイ、式と図の書かれたホワイトボード。男なら誰もがワクワクする光景だろう。ここは秘密基地だ。

女の子にとってそれは夢のあるものかどうかはわらなかったが、少なくとも彼女には十分な関心を引くものだったようだ。目を輝かせながらそこにあるものを眺めた。怖がって触れようとはしなかったが、目が離せないようだった。

「おじさんって、すごい人?」

「どうだろうね。ひょっとしたらすごい人なのかもしれない」

実際、答えるのが難しい質問だと思った。彼は自身が挑んでいることが偉業であり、かつこれまでの功績もまた偉業に数えられて良いものであるという認識を持っている。だが、自分がすごいと認めることはやはり難しい。無二の存在であると証明できたら良いのかもしれないが、単に挑む人がいないだけのことかもしれない。それに、科学を拓く人間がすごい人間であるかどうかについても疑問を差し挟む余地があり、結局どちらともいえないという答にしかならない。

「じゃあ、すごい人! わたしにとってはすごい人だもん!」

彼女はそう言い切った。子供の言うことと言えど、彼にとっても嬉しかった。


そのあと彼女の気を引いたのは、寝室に置かれたアコースティックギターだった。ヤマハのギターだが、ちょっといいやつで、少し深みのある色合いの美しいギターである。彼の演奏スタイルはパーカッシヴだから稀に壊してしまうことがあり、あまり高いギターは使わないのだが、もう壊すことはなくなってから買ったのがこのギターだった。

話半分に手にとって軽く奏でてみた。彼はよく寂しい気分のときにこのギターを弾いた。多ければ週に四度、少なくても二週に一度は弾いていた。気まぐれでしか弾かないけれど、高校生のときからの積み重ねは小さくない。ちょっとしたフレーズ、本当に、楽器店でふと手に取ったギターを弾く程度のフレーズだった。けれど、それは彼女の心に響いたらしかった。

もっと弾いてほしい、そう言いたいけれど遠慮して言えないのは、ひと目見れば誰でも分かる。そんな顔だった。

子供にもわかる曲、などと思ったが、そんな曲はせいぜいジブリか、オールドアニメソングくらいしか知らない。本当に子供が求めるものはそうではないだろう。

結局よく知られた古い曲で始め、あとは気のむくままに奏でた。

かつてはアコースティックギターは爪弾くものだったかもしれない。けれど、今はそうではない。望む音さえ鳴ればどんな弾き方をしても構わない。他の楽器にはない、自由な楽器だ。

フレットを、ボディを、弦を叩く。右手でフレットを叩いたって構わない。左手でボディを叩いたって構わない。弦を弾き、押さえ、叩き、その全身を使って鳴らす。トンッと叩くたびボディを伝って彼の体に振動を伝えた。それは叩いた衝撃だけではない、音楽の震えだ。

アコースティックギターの木製ボディは響きもよく、叩けば実にいい音がする。叩く場所によって音も違うし、そこに弦が加われば打楽器よりも表情豊かな打楽器になる。

指が十本しかなくても、弦が六本しかなくても、リズム、伴奏、そしてメロディのすべてがこの一本から奏でられる。

彼はまだ子供の頃から感情の起伏に乏しいと言われていた。それは半分は正しく、半分は間違いだった。彼は思いに力を使うことはひどく疲れるもので、それが感情に寄れば寄るほどに報われ難いものだと知っていた。中学生になる頃には彼はもう十分に疲れていた。それならば報われる可能性の高い確固たる意思で行動するべきだと考えた。だから彼は感情にエネルギーを使わないようにした。

そうして彼は良い未来へと近づいた。けれど、そうして押し込めて温存したエネルギーは、今度は溢れすぎて行き場を失った。

感情的な報酬を得られずに思わず口に出そうになる寂しさを紛らわすにはエネルギーの使いみちが必要だった。

ギターは彼の心をギリギリのところで救っていた。夕凪のような彼がこれほどまでに激しくギターを鳴らすのだと誰が想像するだろうか。これほどまでに悲しくギターを響かせるのだと誰が想像するだろうか。

弦が、ボディが震える。彼の希望が、心が、鳴いている。無心に高められた技巧は、彼の心を余すことなく映し出した。このギターが彼を慰め、奮い立たせてきた。それを聴く者が誰一人いなくなっても、ギターは彼のそばにいつもあった。

スターになりたかったことなどない。人に聴かせるためにギターを練習したわけではない。彼は満足していた。つまり彼は、最初から見失っていた。

何曲弾いただろうか。寝室に残響がゆるゆると残り、彼の耳には小さな耳鳴りが響いていた。随分と汗をかいた。久しぶりに夢中になっていたようだ。ゆっくりと現実に戻り、ふと彼女は退屈していたのではないかと心配になった。目を向けると彼女は、静かに涙を流しながら残響にまで聴き入っていた。


彼女の母親が訪れたのは夜七時になってからだった。

母親は何度も繰り返し謝罪と感謝を口にし、しきりに頭を下げた。彼もそれに応じて何度も気にしなくていいと笑って返した。その間彼女は母親の服をつかんだまま、じっと彼のことを見ていた。

彼女たちを見送るといつもの部屋に戻った。けれどそこかしこに彼女の痕跡があり、彼は苦笑しながらそれらをひとつひとつ片付けた。奇妙な体験でひどく疲れたが、たまにはこういう変化があったほうが人生に飽きないのかもしれない、などと思いもした。ひとつ残念だったのは、彼女の母親がくれた菓子が、彼は苦手とするものであったことだ。

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エンジンズ・アンド・インストゥルメンツ 水樹悠 @reasonset

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