エンジンズ・アンド・インストゥルメンツ

水樹悠

ガラクタ置き場と狼と蝶

Episode 1 (ガラクタ置き場と狼と蝶)

彼は、いつだってそこにいた。


それはひとつの街といっていいくらいだ。

ありきたりな言葉で言えば高級住宅地、あるいは高級マンションという言葉で片付けられるだろう。別に毎年都内に一軒家が買える家賃がかかるような特殊な物件ではないが、勤勉な労働者というだけではとても住むことはできないような場所だと言っていいだろう。

ゲートに閉ざされた庭園の外周にいくつものマンションが建ち、あたかも城壁のようで、その内側にはコンシェルジュが常駐し、スーパーマーケットと薬局があり、このゲートを出ることなく日々を過ごすことなど何も難しくないだろう。

ここに住む人はだいたいが立派な肩書を持ち、実際としてはここにいるのはだいたいがそのような男の配偶者、あるいは子である。

ここに住み暮らす上で共働きなどというのはとても体裁が悪いし、それでは居心地がよくないだろう。あるいは、立派な肩書と裕福な資産あるいは収入を持つ女性とその配偶者というケースもあるだろうが、やはりあまり居心地はよくないかもしれない。

美しく広い庭園は安息の地ではなく社交場であり、母親だけがそこに立つことを許される舞台だと言っていい。


その中で、その男は一目見ただけでわかるほどに異質であった。

平日の昼間からその姿を見ることがあり、Tシャツとジーンズという装束であることが多く、髪はぼさぼさで、腹は突き出ている。

姿を見るときはいつも一人で、何をするわけでもなく歩いていたり、座っていたりする。誰かに言えばぼそりと挨拶するが、近隣住民と交流はなかった。

昼間から見かける男というのは、ここでも子供、若者であればそこまで珍しくはない。富裕層であれ、子供心というのは難しいもので、社会の軌道に乗れない者はいるものだ。だが、彼は明らかに若くはなく、かといって社会の軌道から外れたまま時が経ち庇護されたままの存在、とは見えない。彼の家を出入りする人間は彼以外におらず、時折スーツ姿の男、あるいは女が訪問しているところを見かけることはあるが、それはあからさまに客人といった風体である。

車はこの場所に住む以上はとても大事なものであったが、それもまた彼の評判を悪くする理由のひとつである。彼は車をもっていない。代わりに、古臭くボロボロのバイクに乗っていた。ここでバイクに乗るものなど少ない。これをもって、いよいよ彼の存在は「悪」であると位置づけられている。

いっそ、彼が無事にここに住んでいられることが驚きなくらいだ。いや、実際に彼を通報しようとした者はひとりやふたりではないし、管理会社も不気味な住人がいるという苦情には慣れっこであった。

しかし現実として彼はなにも迷惑をかけていないのだ。それでも、彼がここにおいて異質で、望まれない存在であるという事実は何も変わらなかった。


ひとつ明らかにしておかなければならない。この「街」はベイサイドにそびえ立つ独身貴族の砦ではない。無駄に凝った複雑な造形をした豪奢な部屋や、走り回れるほどのリビングと寝室だけからなるような部屋があるわけではないのだ。あくまでも裕福なファミリーが暮らすための家であり、豪華であることよりも快適であることが重視されていた。

それは余計に彼の異質さを際立てるのだ。ファミリーのための快適な家を、一人で暮らす男が必要とするのだろうか。

もし彼のことについて真面目に思案する人がいたとしたならば、まず最初に至る疑問はその部屋であろう。これが豪華さをウリにした住まいであればスーパースターが生活感のない広い部屋で過ごしているのが浮かぶだろう。しかし彼ならどうか。不気味で根暗で得体も知れない、そんなイメージとの辻褄を合わせるためにゴミだらけで暗く、幼女の性的な絵を飾るような部屋を想像するだろうか。

事実を目の当たりにしなければ人は事実を受け入れない。というよりも、事実を眼前に突き付けられてなお、イメージにそぐうようあることを求めすらするだろう。

現実はどうだろうか。彼の部屋は各部屋にコンピュータと本棚が置かれていることを除けば整然としたものだ。無数のケーブルが這い回るさまを見れば乱雑だと断じる者もいるだろうが、見るものが見れば心得のある人間が丁寧にラッキングしたものであることは一目瞭然であった。キッチンには立派な食器棚があるが、食器は少ない。使い込まれたフライパンと、大きなコーヒーミルが置かれてはいるが、マメに掃除していることはひと目にわかる。

彼は決して、誰一人として彼のことを理解していないような孤独を味わっているわけではない。だが、少なくともここにいる人々は受け入れていない。

だったら引っ越せばいいではないかと思うかもしれない。しかし機材の設置できる上部な床の面積と電力を賄える家はそうはない。現実的には家を建てるよりほかにないのだが、そうは思いきれずにいた。結局、彼としても家を追い出されると困るのだ。だからなるべく、人々と関わらず平穏を保ちたい、そう考えていた。

彼はバイクに対してなんらやましい気持ちはない。だが、それでも大通りまでバイクを押していくのは、音で幼子が起きてしまっていはいけないという配慮のためだったが、彼のそうした心配りは報われているとは言い難かった。


最近は少し仕事の手が空いている。

彼は計算機科学だ。彼の研究はいつも常識に挑むものであり、それは世で信奉される正しさの偽を証明することでもあった。そのための道はただひとつ、その正しさと相容れない方法で、それ以上の結果を出すことだ。四十に至るまでに彼はそれを叶え続けてきた。本当なら彼は偉大なる科学者たちと同列に並べられ、讃えられるべき存在なのかも知れない。だが、現代日本で彼が残した偉業は、新聞でその名を目に触れることさえ叶わないのだ。

脳の負担が大きい仕事だ。構想を練る必要があるときはノイズに身を委ねる。それはシャワーを浴びることもあれば、浜辺で過ごすことも、カフェに行くこともある。最も手軽なのは庭園だが、彼はそれが自身にとってのリスクであることを知っているので、あまり頻繁には行かなかった。

まだ昼だ。今から出かければ、どこへ行こうと遅い昼食にはありつけるだろう。となればすることはただひとつ。愛機に火を入れる時間だ。

そうと決まれば早い。彼は楽な服を脱ぎ捨て服装を整えた。黒いライダースジャケットは高性能な化学繊維でできておりバイクに乗るために最適化されている。見た目だけのファッションではない。前傾姿勢となり、腕を突き出さなければ体をきしませるタイトさ、痛みすら感じる当たりを持つプロテクター、すべてがバイクに乗る者のためだけに生まれたものだ。

エレベーターで階下へと降りる。バイク駐車場はないが、駐輪場にバイクのスペースはある。一応、金持ちの道楽としてふさわしいものとしてBMWやハーレーに乗る住人も想定したのだろうか、原動機付自転車を置くだけにしては随分と広いものだ。

黒とオレンジのいささか派手なバイク。そのハンドルに手をかけ、スタンドを跳ね上げる。二百キログラムを超える重量も彼にかかれば自転車のように軽く動き出す。まっすぐ引けばまっすぐするりと下がり、ハンドルを切れば円を描くように下がる。人差し指が軽くレバーを舐める。キュッと僅かに軋む音を感じるとたぽん、と水音がした。

そのままバイクを押していく。するすると進むバイクは、こうして平地を押す分には大した重さなど感じない。だが、ほんの少しでも上り勾配があれば、バイクはその重さをライダーに教えてくれる。当然、突き出た腹とは裏腹に、彼の体には筋肉が宿っている。

井戸端会議をしていた子連れの主婦たちが彼を一瞥し、その談笑を止めた。それを再会する前に子供の手を引いたことにも気づいたが、彼は今更そんなことを気にするほど繊細というわけではなかった。

ここに住んでそれなりに日は経つというのに、「街」を出て路地を押していても通りすがる人々が奇異の視線を向ける。ふと、見たことのない青年が立ち止まって彼を見ていた。彼は、その青年は恐らくバイクが好きなのだろうと思った。しかしその様子からすると、マニアというわけではなさそうだ。

ここを曲がれば大通り。体は少し汗ばんでいる。彼はスタンドをかけ、大地を蹴り上げた。

跨ぐ。キーを回す。電気の音を聞く。右足をつく。スタンドを跳ねる。また左足をつく。左手を握る。辺りを見回す。右指を押し込む。

さぁ――――イグニッション・オン。


バタバタという音はバイクに馴染まない人にとって馴染み深いビジネスバイク、つまりはカブを連想させるらしい。この音が近づくと何かを運んできたように思われることが多い。

バイクに馴染みがある人であれば、カスタムトラッカーか、あるいはマフラーを交換した大型スクーターを連想するだろう。

実のところ大通りを走っていて注目されるほど大きな音を立てるわけではない。だから人々がこのバイクに注目するのは、音によって接近をしたときではなく、目にその姿が映ったときだ。

なんのためにバイクに乗るのか、と彼に尋ねたとしよう。すると彼は答えに窮するはずだ。風を感じるためなどと気取った答えを言えばいいのかもしれないが、それは少なくとも彼の本心ではない。だいたいライダーにとって風は最大の敵だ。風を躱すより受け止めたいと思うライダーもいるが、その多くは主に近郊しか走らないか、もしくは首によほど自信があるのだろう。

なぜと聞かれると困るのだ。便利と答えようが、足だと答えようが、車でいいと言われるに決まっている。しかもそれは事実なのだ。彼にとってすれば、なぜコーヒーを飲むのかと尋ねられるようなものだ。それは当たり前のことであり、疑問を持つようなことではない。しかし、疑問を持つ理由なら想像できる。彼らは、このワイヤーを引くスロットルの重みを、郷愁を誘うようなガソリンの匂いを、体を押さえつける風を、ずっと先へ開かれる視界を、知らないのだと。

だがそれは、彼がバイクに乗ることに疑問を持たないという意味にはならない。そう、まさに今この瞬間だって、彼は排気ガスを浴びせられながら、視界を塞ぐファミリーバンのテールを眺めて、押して歩いたほうが楽な速度で、歩いていたならばもっと先にいけたであろう距離しか進んでいないのだ。最高に馬鹿げた時間だと彼もまた思う。たとえオイルの匂いにセンチメンタルな気分になるような人間だって、排気ガスの臭いを嗅ぎたいわけではないのだ。

想像だけで言うならば、山間にひっそりと隠れたウッディなレストランで、今まで知らなかったような美味しい料理を味わう、というようなプランを描くところだが、そんな店に巡り会おうと思ったらインターネット上の情報を探すよりなく、つまりは物理的に見つかりにくい場所にあったとしてもその存在は全く隠れていない。それに、その実現のためには下調べが必要で、仕事が昼前にキリよく終わったから出かけたような今の彼に訪れるものではない。だいたい、こうして出かければろくにランチにありつけないまま気がつけば数百キロメートルを走っていたなんてことだって珍しくない。彼のランチ計画は、思い立ったときには半ば失敗している。

もう割り切ってランチのことなど忘れて走り抜けたいところだが、残念ながら今目の前にある現実がそれを許さない。遠くまで走ろうとしてただ日が落ちるまで排気ガスを浴びているようでは何のためにこうして出かけたのかもわからない。せっかく仕事から解放された気分を味わおうというのに、それでは気分がだだ下がりだ。

今日はその日ではなかったのだろう。彼はそれほど遠くない、大きなスーパーへと向かった。バイクを出さなければ行きづらい場所にあり、売っている惣菜や弁当も地元のものとは異なる。多少がっかりした気持ちはなくはないが、新鮮味はあるだろう。それに、そこまでなら三、四十分もあればたどり着けるはずだ。

そうして進んでいく間、彼はスマートフォンに着信があったことに気づいていた。ランチのために出てきただけだったから、タンクバックも取り付けていないが、体にフィットしたバッグから振動が伝わってきたのだ。渋滞の中時間をかけて進み、予定通りスーパーまでたどりついてから、スマートフォンを取り出した。

『みちあき』

その名前を確認して彼は首をかしげた。珍しい人物だ。水野道昭は彼のよく知る人物だ。高校のときの同級生であり、大学も学部こそ違えど一緒だった。友人である、と表現することに違和感はないが、今やそれほどやりとりをしているわけではないし、ましていきなり電話など珍しい。

メッセージも届いていた。

『仕事が休みになった』『よかったらメシでも食いにいかないか?』

どうしたものだろうか。

『今バイクで出てるんだけど、渋滞にはまってる』『時間がかかるかも』

『いいよ』『こっちから近くまでいく』『どこへ行けばいい?』

彼は現在地からそう遠くないファミレスを指定した。駅から徒歩圏でもあり、道昭もそれほど困らないはずだ。


親愛なる友人、真治が指定したのはファミレスだった。会うのは久しぶりだから、積もる話があると互いに分かっているのだろう。彼と話をするのは楽しいもので、時間も忘れて夢中になってしまうくらいだ。けれど現実は必ずしもそれに伴わないもので、たまに一言二言メッセージを交わすくらいで、前に顔を合わせて話したのはいつのことだったか、もうあまり思い出せない。結婚して子供が生まれてからは世界の中心がすっかり変わってしまって、旧交を温めることすら忘れてしまう。

彼は渋滞にハマっていると言っていた。車で行くつもりだったが渋滞で予定が狂う可能性もあるだろう。おとなしく電車で行くことにしよう。

今住んでいる場所は彼の家とは近くはないが遠いというわけでもない。電車で乗り換えを一回、合わせて三、四十分といったところで、家を出て一時間もあれば顔を合わせられる。それだけのこと、と言いたいところだが、ほとんどの時間を仕事に費やして、残りの時間を家族に使ってしまえばそんな勝手はあまりに気が咎める。今日だって、妻がそうしてはどうかと言い出したからこうして友に会いに行くことが叶ったのだ。そうでなければ、仮に彼のことを考えることがあったとしても会いに行こうとはならなかったはずだ。

若い頃ならそれでも、アイツにお気に入りのスポーツカーを見せびらかして語り明かそうと思っていたはずだ。けれど、今乗っているお気に入りの発電機付電気自動車レンジエクステンダーEVはあの頃の青春とはあまりにかけ離れている。

彼に会うのはこんなにも楽しみなのに、少し憂鬱でもあった。

それでも、彼の顔を見たとき、嬉しかった。随分歳を取った。随分と疲れた顔になった。それでも忘れがたき友の顔だ。

「やぁ兄弟。久しぶりだな」

「そうだね。道昭君も……なんというか、白くなったね」

肩を叩きあって友情を讃える。不安や憂鬱などまたたく間に溶けた。ただ、そこに横たわる時間だけはリアルだった。

「まだ、あのバイクに乗ってたんだな」

ぼそりと、しかし感慨深く口にした。窓から黒とオレンジのバイクが見える。

ラヴェルダ・750・フォーミュラ。見た目にはとても古臭いが、実際には見た目の印象から受けるよりも十年ほど新しい。だが、例えその十年の事実を踏まえても、このバイクは古いバイクであることに変わりはないだろう。彼らがまだ高校生だったときに、彼が憧れのバイクとして挙げていた。そして、大学生になってからその夢を実現させ、自慢げに電話してきたことを、今でもはっきりと思い出せる。

それからどれくらいの時がたったのだろう。もう数えるのも億劫だ。だが、

「僕は、真治が主人公だと思ってた」

そう。それは断言できる。彼は高校生のとき、いつも女子に囲まれていた。そのうちの一人は「幼馴染だ」と言っていたけれども、なんだかんだいつも女子といる印象であり、女縁がないとは到底言えなかったはずだ。見た目には冴えないかもしれないが、親切でスマートな振る舞い、コンピュータに対する圧倒的な知識、そしてギターが上手くて、バイクに乗る。それでいながら理知的な空気を漂わせる男だ。男なら、これ以上ないほど羨むような存在だった。

道昭は、彼こそが主人公で、自分はそれを引き立てる友人ポジションだと、そう思っていたし、それを受け入れてもいた。

「僕が主人公だったことなんてないよ」

だが、今目の前にいる彼は、淡々とそう答えた。誇りも、怒りも、悲しみも、寂しさもない、氷のように冷たい言葉だった。

「もし僕が小説を書くなら、僕じゃなく君を主人公にする。僕を主人公にしても物語は書けるかもしれない。でも、それはかなり退屈で、いくつかの出来事はあるけど、特に見どころのある結果にもならなくて、読者は半分も読む前にその小説をゴミ箱に叩きこむだろうね。でも、君が主人公なら、苦難と挫折を乗り越えて幸せを手にする物語が書ける。王道の小説になる。主人公は僕じゃない」

その受け答えに、道昭は少しだけ、懐かしさを感じた。そう、彼はそういう男だ。それが大して意味のない言葉でも、なにか口にすれば彼は返してくれる。考えたこともないような言葉を、すらすらと口にする。だから、彼は人気者だった。彼がどう思っていようと、スポットライトは彼に当たっていた。その思いを、道昭は曲げる気にはなれなかった。

「今は、なにしてるんだ?」

道昭がそう尋ねると、彼は少し困ったように笑った。

「色々なことだよ。ありがたいことに、暮らしには困ってない。快適な家に住んで、おいしいものを食べられてる。色々してるから、日々飽きることもないしね。休日は、そうだな。ビデオを見たり、散歩したり、バイクで出かけたり。あとは、たまにはゲームもするかな。スチームで色々買っている割には、一度もプレイしてないゲームばかりだけどね」

不満はなさそうな暮らしだった。実際、彼が独り身で、人と交流していないから不幸だなどと決めつけるのは失礼極まりないと分かってはいたし、そんなつもりもなかった。実際、女に囲まれた日々を過ごした後に彼は今ひとりでいるのだ。趣味に生きるのも悪いことではないし、暮らしが充実しているのならそれは幸せなのだろう。

「真治は、オタクじゃあないよな」

ひっかかったのはそこだった。

「オタクじゃない、っていうのはどうだろうね。コンピュータは新型が出たら1、2台組むようにしているし、サーバーラックだってあるくらいだからそこそこオタクじゃないかな」

「それじゃあ研究者はみんなオタクだ。それどころか、熱意を持てばそれだけでオタクだ。情熱を知らない人間だけが普通なんて馬鹿げてるじゃないか」

道昭が軽く憤慨して見せると真治は少し笑った。

「いいじゃないか。別にオタクだと言うことが人を下げることにはならないさ。もちろん、君が言いたいことは分かってる。僕はゲームやアニメに夢中になるタイプじゃない。今でもそうさ」

「なんだよ、意地が悪いな。そうだろう。だって真治は人が作ったものを楽しむより自分が作ることを楽しみたい奴だった。なら今の暮らしは、本当に真治にとって幸せなのかい?」

「それは無意味な質問だよ。いいかい、事実僕は毎日退屈している。最高に充実しているけどその上ないほど退屈しているよ。この日々に誰かが加わったらどうだろう。刺激的で毎日が楽しいだろう。けれどそれ故に、日々軋み、苦しみもする。感情と事実に起伏が少ないのは退屈だけれど、多ければ良いというものでもないんだよ」

「でも、それが幸せというものだよ」

「それを諦めることも悪くはないものだよ」

分かり合う必要はなかった。なぜならば、もう十分すぎるほどに分かり合っているのだから。意見を揃える必要もなかった。どっちも真実だとお互い痛いほど分かっているのだから。泣きたいほど笑い合っていた。交わらない互いの道を違えたからではなく、これほどまでに時を隔ててなお同じものを見ていたことが嬉しかったからだ。

「真治のことを分かってくれる人と出会えないことは、この世で五本の指に入る残念なことだ」

「そうかい? 君がこうして分かってくれることは案外、僕としても満足なものだよ」

思えば、彼が得た順風満帆な人生はその才に見合わないものだったかもしれない。彼が存分にその才を発揮できたのならばどんな道を歩んだのだろうか。道昭はそのことを今初めて思ったかのように感じたが、明瞭な既視感にそう思ったのがもう何度目か知れないということに気づいた。そして、いつもこう思うのだ。彼は才にだけ恵まれ、その才を認める親の下に生まれなかったときから既に報われない人生を歩んできたのだと。


彼は道昭が強く話したいという気持ちを抱いて会いにきてくれたことは理解していた。そしてけれども他愛もない話や近況のことに終始したのは、きっと道昭が彼のことを気にかけていたからだろうと理解した。

口には出さないが、この友情が彼を支えているのだ。実のところ、彼自身この世界でひとりで生きていけるほど孤独に強いとは思っていなかった。けれどもなんだかんだと果報者だと彼は思う。彼のことを理解し、気にかけてくれる人がいることはどれほど救いになっているだろう。

そんな少し浮かれた気持ちでいたせいだろうか。彼は明日の食料と日用品を買って帰る必要があったのに、ただ道昭と話して満足した気持ちで帰ってきただけであった。しかもそれに気づいたのは家に帰り、シャワーで汗を流した後で、さらには今日は店じまいだとビールまで飲んだ後だった。

困ったものだ、と笑った。彼自身時を重ねて大人になったとは思うけれど、少年のような青春心を忘れ去ることが今もできずにいる。彼は結局、そんな余韻を少し醒ましてから買い物に出かけた。


けれど、そんな少しいい気分はあまり長くは続かなかった。

夜道にひとりの少女を見かけた。行きにも見かけた姿であり、なんだかひどく憔悴しているように見えて気になっていた。けれど帰り道の今、もはや道端に座り込んでしまっている。見るからに哀れであり何事かあったようにしか見えないのだが、通りすがる人はせいぜいが一瞥をくれるだけで彼女のことを気にかける様子すらなかった。

彼には、少なくとも自分が声をかけるのに適切な人物ではなく、むしろ不適切な人リストに載るような者であるという認識があったし、放っておけばいずれ誰かしらが声をかけるだろうとも思った。それに、例えば今パトカーが通りかかったらさすがに素通りはしないだろう。

だがとても残念なことに、彼に備わっている良心はそう割り切れるほど合理的ではなかった。

「どうかしたのかい?」

声をかけると少女は彼を見た。涙はなかったが、瞼は腫れていた。

「ご両親とはぐれたのかな?」

重ねて尋ねると彼女は首を横に振った。怯えはないが、期待する気持ちと期待すべきでない気持ちの間に揺れる表情であった。

「……大丈夫かい? それとも、何か手伝いがいる?」

彼女は答えなかった。迷っている、というよりも、何を言うべきかわからず困っているようである。しかし困ったもので、彼としても何を言うべきか適切な答えが思いつかない。

「家に帰れない?」

彼女は答えに困った。

「……家に入れない?」

言葉を変えると彼女は頷いた。

なるほど、よくあることではあるが、実際の状況如何によって話はだいぶ変わってくる。そうしないうちに帰ってくるのか。このままではまずい程度に帰ってこないのか。あるいは、閉め出されたのか。

「ゆっくりでいいから、どうしたのかおじさんに聞かせてもらえるかな?」

彼女は怯えるでもなく、本当にゆっくりと状況を説明した。どうやら親が不在である中家に入れないという状況のようで、本来であれば留守番はそれほど彼女にとって困難なことではなく、恐れてもいなかった。ところが、外出中に鍵を失くしてしまい、家に入れなくなった。どうすればいいか分からず途方に暮れ、留守の間に鍵を失くしたことを怒られるということを恐れてもいた。

だが、親との間にこれといった問題があるわけではなさそうだ。現実に考えれば、このような幼子が夜十時になろうという段階で途方に暮れており、放置しておくわけにはいかぬ、ということだけであった。

「お母さんか、お父さんの電話番号はわかるかい?」

分かれば苦労はなかろうが、そうであればこのようなことにはなっていないはずだ。そう思いつつ聞いてみたのだが、彼女はそこで「わかる」と答えた。


それは久しぶりに味わう緊張であったし、できれば逃げ出したいくらいであったが、このような少女を捨て置くことなどできぬという妙な正義感だけが彼を踏みとどまらせた。

彼女から聞いた電話番号に祈るような気持ちでかけると、三コールほどで応答があった。女性の声であり、彼女の母親であることを最初に確認した。

見知らぬ番号から男性の声で電話がかかってきたとあって女性はひどく動揺していたが、彼は辛抱強く、そして不安を抱かせないよう順序立てて説明することを心がけた。動揺して早まった判断をしないよう、考えられる対応も彼のほうから言った。

もっとも望ましいのは彼女が家に戻ることである。予備の鍵がある、もしくは彼女に鍵を渡すことが可能であるならば話が早い。この母親がこの事態を受けて戻れるならより望ましい。最悪の場合でも鍵屋に開けてもらうことも考えられるのでこの方法は不可能ではない。だが、彼はその住人ではなく、彼女も当然ながら身分証明書などないので、開けてもらうことが可能かどうかは怪しいものであった。

また、近隣に頼れる者がいるのであれば、その者を頼るのが良い。多少遠くてもタクシーを使えばなんとかなるだろう。

母親はこの怪しい男の話に対し真剣に耳を傾けた。途中、彼女と話させたのもよかっただろうか。冷静さを取り戻すと、今度は術のなさと、どの方法にせよ彼に対し多大な迷惑をかけるということに思い悩んでいた。

「お子さんのことがきっと心配でならないでしょう。そんなにも困ったときには人を頼って悪いことなどありませんよ。人の世は持ちつ持たれつですから」

彼はそう言ってできるだけその重荷を降ろさせようとした。そしてひどく迷った挙句、母親の出した答は、明日必ず戻るようにするので、一晩預かってくれないか、ということであった。

「できなくはありませんが…… ただ、子供が過ごすことを想定した家ではないので、走り回ったりすると怪我をするかもしれません。心配です」

『いえ、そこは……大丈夫です。おとなしくて利口な子ですから、そういったご迷惑をおかけすることは、多分ないと思います』

親としてはとても容認できない事態だと思うのだが、それでもあまりにも必死であった。それほど手がないのだろうか。

「そうですか…… なにか病気やアレルギーなどはありますか? 気をつけるべきことがありましたら言ってください」

『あ、えと…… 引き受けてくださるのですか? すみません、なにもありません。大丈夫です』

「わかりました。では今晩、お嬢さんをお泊めしますね。僕の電話番号は――――はい、白河真治といいます。白い河に、真実の真、治めると書いて白河真治です。ええ――はい、何かあったら遠慮なくご連絡ください。はい、では」

こうして成り行き、この幼い子どもを一晩泊めることになった。次の問題は、もう夜遅く、しかも憔悴して消耗したこの子供に対して、食事か、入浴か、それとも何より就寝か、一体なにをすれば良いのか皆目見当もつかない、ということであった。

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