しおれた愛に胃もたれ

佐古間

しおれた愛に胃もたれ

「やめてー! 絶対にいや!!!! いやなの!!!!」

 甲高い女性の悲鳴は喧騒の中に紛れて消えた。

 聞き留めたのは私くらいだ。私は目の前で震える彼女に意識を向けて、「もし」と声をかけた。

「もし、お嬢さん。どうして、何がそんなに嫌なのです」

 いやよ! いや、絶対にいや! と泣いていた彼女は、声を止めると私の様子を窺った。話をしても良いのか迷っているのだろう、私は周囲に“あの人”がいないのを確認して、「お話してくださいませんか」と丁寧に問うた。

 彼女もまた、“あの人”がいない事に気が付いたのだろう。ゆっくりとした調子で、「あなたは……」と声を上げた。

「あなたは、知ってるかしら……私たちがこれからどうなってしまうのか」

 問いかけには直接答えず、そんなことを聞いてくる。私は果たして“何”の事を指しているのか考えて、慎重に「存じてますとも」と答えた。

「短い人生でしたが、満足のゆく生でした。あなたは?」

 私は、私の人生に満足している。嫌がっているのなら、彼女は満足していないのだろうか。

 予想に反して、彼女は「私も、満足のゆく生ではありました」とはっきり答えた。死を恐れているわけではないのだ、と、強い声で主張する。

 私は「ではどうして?」と重ねて問うた。

 どうして、一体、何がそんなに「嫌」なのか?

「……あなたは、あの、どろどろとした液体をご存じ?」

 言いながら、彼女の意識が大筒の方へ向いたので、私の意識もそちらを向いた。

 どろどろとした液体、とは、大筒の中に満たされている、濃い茶色の液体の事だ。大筒は私たちの全身がすっぽり入ってしまうような大きさで、どろどろとした、ヘドロのような液体が入っている。一見不気味な液体なのだが、不思議と嫌な臭いはせず、少し甘みを含んだ、香ばしい香りがしていた。

「……存じております」

 彼女の問いに私は頷いた。

 私たちの運命は二つに一つだ。あの大筒の中に落とされてしまうか、否か。ただし、どういう基準で選別されているのかはわからない。

「見た目は……確かに……ひどいですが……匂いは悪くないなと」

 正直に続けると、彼女はぎょっとした様子で「信じられない!」と悲鳴を上げた。

「あんな液体なのよ!? 私は耐えられない。耐えられないの。もし私が、あの大筒の中に入れられてしまったら……!? せっかく良い人生を送って、良い最期を送れると思っていたのに、あんな、どろどろの、焦げっぽい匂いの混じった、気持ち悪い、液体になんか」

 言いながら、ぶるぶると震えているようだった。

「私は絶対にいや! 見たことがあるの……あの大筒に入れられた子たちが、べとべとの、どろどろになって悲鳴をあげたのを……そんな最期はいや!!!」

 とうとう泣き出した彼女は、「いやよ! こんなのってないわ!」と自分の最期を嘆いた。

 ふむ、と、考えながら私は彼女と大筒とを見比べる。“あの人”は戻ってこないが、いつものベルが鳴ったので、そろそろ戻ってくるだろう。

 “あの人”が戻って来たら、私たちはこうして会話をすることもできない。

「私が身代わりになれたなら……身代わりになって差し上げるのに。この体では、もう満足に動けない」

 ぽつり、とこぼすと、彼女は悲鳴をやめてもう一度私に意識を向けた。

「……本当に、そう思ってくれている?」

「ええ」

「あなたは、あの液体が怖くはないの?」

「ええ」

「……どうして?」

 問いかけに私は思わずくすくす笑う。彼女は笑い出した私に少し気分を害したようだった。

「ねえ、どうして?」

「あの大筒に入れられてしまったとしても、入れられなかったとしても、最後に行き着く場所は同じだからですよ」

 彼女に理解できるかはわからない。それでも、私にはそういう確信があった。

「私たちは皆、そのために生きてきたのですから。そのための最期を迎えられるなら、それで彼らが幸せになれるのなら、これ以上の幸せはありません」

 不思議と穏やかな気持ちだった。

 彼女は少し考えた様子で、「ふうん、そういうもの……」とぼんやりとした相槌を打った。

 ややあって、“あの人”が顔を出した。

 はっとなった彼女が黙り込む。あの人は何かが書かれたメモをぺたりと横の壁に貼り付けると、私たちに向き直った。

 “あの人”と呼んでいるが、私も、彼女も、“あの人”の事なんてこれっぽっちも知らない。

 ただ、私たちに最期を与える人だということだけ知っていた。彼女の隣の隣の誰かが“あの人”の手によって簡単に掬い上げられてしまった。小さく悲鳴が聞こえる。

 “あの人”の指が動くたびに、彼女が震えているような気がした。彼女の隣が空いて、とうとう、“あの人”の指が彼女に触れる。

「あっ」

 彼女が耐え切れぬ様子で、僅かに声を漏らした。私の方を向いている。私も、彼女に意識を集中させた。

「ああっ」

 片手でひょいと掴まれた彼女が、大きな穴を横断するように横たえさせられる。あの大穴の下で、ごうごうと炎が燃えていることを私は知っていた。もちろん、彼女も知っている。

 この場でこうして横たえられた同胞を見守るのは、初めての事じゃない。

「ああ……熱い……」

 ひっそりと、悲鳴のような、呟きのような、言葉を聞き留めた。実際に彼女が言ったのかも知れないし、私の空耳かもしれない。

 そこで暫く寝かされて、ぐるぐる転がされたりして、ゆっくり、ゆっくりと殺されてしまうのだ。彼女は諦めた様子で、「もうすぐね」と言った、ように聞こえた。

 大穴の中で炎が躍り出したので、少しくらい声を上げても、“あの人”に聞こえやしない。

 やがて“あの人”の指が私の下の方を掴んで、ひょい、と軽く持ち上げられる。一気に体が重くなったようだった。

 同じように持ち上げられた同胞たちと一緒に、彼女の近くに横たわる。

 彼女はもう殆ど自我が残っていないような、そんな様子で、近くに来た私に気が付いたようだった。

「……ねえ」

 ぱちぱち、ばちばち、と、大穴の下から炎の音が響いてくる。

 喧騒はもう聞こえなかった。彼女の声に集中する。聞き逃してしまいそうなほど、か弱い声だった。

「あなたと一緒なら、あの大筒に入っても、怖くはないかもしれない」

 彼女の言葉に驚いて、私は彼女の方を向いた。

 彼女の意識はもうここにない。ぼんやりと、炎の中を見つめているのか、大筒の方を向いているのか。

「それは……」

「せっかくなら、あなたと同じところに行けたらいいなと、思ったの」

 彼らの幸せを願えるあなたと一緒に。

 彼女はそれだけを呟いて、ぱたりと、言葉を終えてしまった。

 私ははっとして「もし?」と彼女に呼びかける。反応はない。“あの人”がまた、私の下の方を掴んで、ぐるりと強制的に体を反転させた。大穴の下、炎がよく見える。

(ああ……)

 熱い、と、自我が焼け付く感覚がする。隣で彼女がひょいと持ち上げられたのが分かった。そのまま、あれほど嫌がっていた、大筒の中へ。

(ああ!)

 あの中に、私も一緒に入れたのなら。

 少しでも彼女の慰めになっただろうに、私の身ではそれすらも叶わない。“あの人”が大筒の中に私を落としてくれるようにと、願うことしかできないのだ。

 大筒の中から出された彼女は、彼女の言っていた通り、べとべとで、てらてらしていて、私の感じた、少し甘みの残る、香ばしい香りに包まれていた。

 再び寝かされた彼女は、もう何にも反応しない。じりじりと焼かれるままだ。

 私はその、彼女の真白の肌が濃く、濃く焼かれていくのをじっと感じていた。

 それしかできなかった。





 ぼとり、と、焼き鳥の串が皿の上に落ちてしまった。先輩はにこにこと――いや、にまにまと――笑いながら、「どう?」と小首を傾げている。

 どう? と聞かれても、どうとも答えにくい。ガラス窓の向こうで調理人が焼き鳥を焼いているのを熱心に眺めていたかと思えば、急に妙な一人芝居を始めてしまって、思わず聞き入ってしまった。聞き入ってしまった結果、妙に焼き鳥が食べにくくなってしまった。

 注文したのはタレもも三本と塩もも三本。タレは僕ので、塩は先輩のだ。

「……食べにくくなりました」

「そうだろう、そうだろう! 塩食べる?」

「いりません!」

 ずい、と差し出された塩ももを拒絶して、皿に落ちた串を拾った。まだ一口分残っている。

「いやいや、でもほら、同じところに行きたいって言ってたし」

 言いながら、もう一度。

 同じところって、と繰り返しながら、先ほどのわけわからん一人芝居の事か、と思い至った。妙に感情を込めた調子で、タレもも役と塩もも役を演じ分けていた。焼き鳥注文後、急に悲鳴を上げたものだから、僕はとうとう先輩の気が狂ったのかと心配したけど。

「同じとこ、ねぇ」

 もう一度呟いて、思わず自分の腹を見つめた。つまり、一緒に食って一緒に消化してやれと。

「……どれがさっきの塩ももなんですか」

「だからこれこれ。連れてってあげて」

「言い方!」

 何故だかほんのり浮かんだ罪悪感を振り切るように、まあ、貰えるなら貰っておくかと今度は串を受け取った。僕のタレももはまだ二本残ってたけど。

「そんで、胃の中で幸せにしてやって」

 にまにま、と、笑っていたはずの先輩が。

 急にしんみりとした様子で言ったので、僕は思わず先輩の事を見つめなおした。優しいまなざし。一瞬、どきりとする。言ってることはわけわかんないのに。

「……え、どういう意味?」

 先輩はにこにこと笑うだけで、特に何も答えなかった。

 仕方なく、差し出された塩ももを口に含む。ぷっくりと歯ごたえのあるもも肉が美味しい。程良い塩気がタレと違った味わいで、ビールが飲みたくなった。

 だというのに、ビールジョッキは先輩が奪い取って、僕の手の届かない所へ。僕が黙って先輩を見つめていると、再びにまにま笑いになった先輩は、どうしてか胸を張ってこう言ったのだ。

「酒なんて入れたらせっかくの再会が台無しだろ」

 あの、一人芝居の延長の、タレもも嬢と塩もも紳士が僕の胃の中でいちゃいちゃしだすの、嫌なんだけど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

しおれた愛に胃もたれ 佐古間 @sakomakoma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ