拾ったゴミは実験体〜改造吸血鬼に体液供給⁉︎〜

南雲 皋

◆◇◆

 大雨の降る、秋の夜だった。


 最寄駅に着く頃には雨脚が弱まっていることを期待していたが全くそんなことはなく、常にカバンに突っ込んだままにしている折り畳み傘をさして家まで歩いた。

 夏は過ぎ去り、すでに冬の足音が聞こえてきている時節、雨が降ると特に気温が下がる。

 平坂ひらさか紅葉もみじは、着ていたコートの前を閉じるように空いている手で押さえながら家路を急いだ。

 金曜日の夜だけあって、駅前には酔っ払いの声が多く響いている。

 炭火で炙られる焼き鳥の煙の中を歩いた紅葉が、途中で寄ったコンビニでご飯と一緒にハイボールを買ってしまったのは仕方のないことだろう。


 駅から徒歩八分。都心からそれなりに離れているため、だいぶ安く借りられているマンションはオートロック付きで、一人暮らしの女にはありがたい作りをしている。

 そのマンションの前に、巨大な何かが落ちていた。


 最初は布団が落ちているのかと思った。

 粗大ゴミとして出された布団が、何かの弾みで道路まで転がり出てしまって大雨に濡れているのかと。

 誰が捨てたのかしらないが、これは後始末が大変だろうな、などと思いながら足を進める。

 マンションのエントランスの前に転がっているものだから、どうやったって近付くことにはなるのだが、何となく距離をとって歩いていた紅葉は、その塊が動いたのを見て固まった。


「は?」


 恐る恐る近付いてみると、それは人だった。

 黒いロングコートを着た、大柄の男。


「あの……大丈夫、ですか?」


 小さくうめき声を上げ始めた男に、いつでも逃げられるような体勢と距離を保ちながら声をかける。

 けれど返事はおろか、その目を開けることもない。

 相変わらず雨は容赦なく降り注いでいて、紅葉は小さな折り畳み傘を少しだけ傾け、男の顔に当たる雨を遮った。


「ねぇ、ちょっと、おーい」


 酔っ払っているのかと思ったのだが、男からアルコールの香りは全くしない。

 顔は真っ青で、青紫の唇が震えている。


(これ、やばいんじゃないの?)


 私はしゃがみ込み、男の首元に手を伸ばした。

 脈は早く、冷たいかと思った身体はひどく熱を持っている。

 紅葉の手が冷たかったのか、男の瞼がふるりと震え、薄く開かれた。

 焦点の合わない瞳が、左右に揺れる。


「救急車、呼びますね」


 そう声をかけた紅葉の方を、男が見た。

 寒さに震える唇から、カチカチと歯がぶつかる音がする。

 雨音にかき消されてしまいそうな小さな声が、男の口から搾り出された。


「きゅ、……きゅしゃ……は…………よぶ、な」


 男はそれだけ言うと、力尽きたのか再び目を閉じてしまう。

 スマホを取り出そうとポケットに突っ込まれた手はそのままに、紅葉は途方に暮れた。


「呼ぶなって言われても……どうしろっての?」


 声を掛けてしまった手前、見捨てるのも夢見が悪い。

 紅葉は盛大に溜息を吐くと、傘を畳んで手に持ち、男の両脇に腕を突っ込んだ。

 無理やり引き起こして、ずるずるとエントランスの方に引きずる。


 思ったより細身だったらしい男自身はそれほどの重さではなかったものの、雨水を吸いまくった服は重たいし、コンクリートの地面は全く滑らない。

 汗だくになりながら何とかエレベーターまで引きずり、五階の自宅まで運んだ。


 玄関先に出しっぱなしだった靴を下駄箱に無理やり突っ込み、男を転がして先に家に入る。

 お風呂の湯沸かしスイッチを入れてからバスタオルを数枚掴み、男の元へ。


(これは介護、これは介護、これは介護)


 そう自分に言い聞かせながら男の服を脱がしていく。

 黒いコートの下は、白いTシャツに白いズボン。それだけだった。

 この寒い中でこれしか着ていなかったら、それは唇も紫になるだろう。

 両腕を伸ばしてバンザイの体勢を取らせてからシャツを脱がせると、その下に現れた上半身はガリガリに痩せていた。至る所に鬱血の痕があり、注射の痕のようなものまで見える。


(えぇー、ヤク中とかだったらどうしよう……)


 いまさら放り出すわけにも行かず、男の上半身をタオルで包んで軽く拭く。

 もう一度介護だと言い聞かせ、紅葉はズボンに手をかけた。

 ベルトなどはしておらず、ゴムの通ったズボンを履いている。

 脱がしやすくてよかったと思いつつ、病院かどこかから逃げ出して来たのではないかという不安が首をもたげる。

 拘束しておく方法を考えようと思いつつ、タオルで包んで見えないようにしながら、パンツを脱がせた。

 白のブリーフ(見たくて見たわけではない)を指でつまみ、洗濯機に投げ入れる。

 コートも悩んだが、縮んでしまうような素材ではなさそうだったので、何もかも一緒くたに洗濯してしまうことにした。


 自分もびしょ濡れになっていたので、服を脱いで洗濯機に放り込む。

 まだそこまで夜も遅くないから許してくれと思いながら、洗濯機のスイッチを入れた。


 玄関先に男を放り出したままにしている状況でどうなのかとは思ったが、濡れたままなのも気持ちが悪いので扉を開けっぱなしにしたまま軽くシャワーを浴びる。

 男は全く身じろぎもせずに横たわったままで、紅葉は溜息を吐いて部屋着に着替えた。


 こんなとき、ショートカットでよかったと思う。

 軽くタオルで拭くだけである程度は乾いてしまうのだから。


 また男を引きずって浴室に放り込み、浴槽に溜まったお湯をタオルの上から全身にかけてやる。

 シャワーで髪を濡らし、適当に切られている黒い髪をわしわしと洗った。

 ざぶざぶと全身にお湯をかけ続けていると、だいぶ唇の色が戻ってきたので安心する。


 とりあえず暖かく綺麗になったので、次なる試練は服を着せることだ。

 なるべく下半身を見ないようにしながら乾いたタオルの上に男を転がし、素早く包んで拭いた。

 男に履かせるパンツはない。

 明日コンビニかどこかで買ってきてあげるとして、今日のところはノーパンでいてもらおう。


 もともと大きめサイズをだぼっと着るのが好きだった紅葉のタンスには、LサイズやLLサイズのスウェットが入っている。

 男は体重こそ軽いものの身長は高かったので、LLサイズを着せることにした。

 上半身は仰向けの状態で着せ、下半身はうつ伏せの状態で頑張って履かせる。

 脱がせる時以上に、股間を見ないようにするのに必死だった。


 何とか体裁の整った男を、ベッドに寝かせる。

 床に転がしておこうかとも思ったが、拘束することを考えてベッドにしたのだった。


 ロープなんてものはなかったので、仕方なく梱包用のビニール紐を引っ張り出してくる。

 暴れられたら食い込んで痛そうだが、そんなことまで配慮する必要もないだろう。

 足元の柵に片足ずつ括り付け、両手はサイドの枠に括り付けた。

 

 布団をかけてやり、ようやく一息つく。

 身体はすでに汗ばんでいて、玄関先に放置したまま忘れていたハイボールを冷蔵庫に突っ込んでから、もう一度シャワーを浴びることにした。


 熱い湯を頭から浴びながら、軽率なことをしてしまったかと思考が渦巻く。

 見知らぬ男を家に上げて。しも救急車は呼ぶなと言ったり身体に針の痕まであるような怪しげな男を。

 ぞわりと震えてしまったのは、寒暖差のせいではなかった。


(目が覚めて暴れないといいんだけど……)


 今度はしっかりとドライヤーで髪を乾かし、部屋着を身に着ける。

 洗濯機はすでに静かになっていたので、中身を取り出してハンガーに掛けて部屋まで持っていった。


 窓際に突っ張り棒で作ってある部屋干しエリアに洗濯物をぶら下げ、冷蔵庫から出したハイボールをあおりながら買ってきたご飯を電子レンジに突っ込む。


 男は規則正しい寝息を立てたまま、目を覚ます気配がない。

 拾ったときよりもかなり生きた人間に近付いた顔色に安心するが、それでもなお、男は驚くぐらいに色白だった。


(顔だけ見ると、イケメンの部類だよね)


 頬がけてはいるものの、黒髪の下の顔はかなり整っていた。

 しっかりご飯を食べて適度に肉がつけば、その辺のモデルよりも格好いいのではないだろうか。

 テレビなんて見ないから最近の流行りの顔は分からないけれど。

 そんなことを考えながらご飯を食べた。


 すぐに逃げられるように、扉の横に毛布を敷いて、その上に寝転ぶ。

 隙間風が寒いが、寝られないほどではない。

 もうとっくに日付は変わっていて、精神的にも疲れていたのだろう。紅葉の意識はすぐに溶けていった。



「…………うわ……っ……」


 男の声に目を覚ます。

 一瞬、どうして自分の部屋から男の声がするのかと混乱したが、すぐに思い出して部屋の電気を点けた。

 男はわけが分からないといった風に紅葉を見て、小さく悲鳴を上げた。


「悲鳴を上げるのはこっちだっつーの。君に襲われたら困るから拘束させてもらっただけ。どうかした?」

「え、あ、……あー、その……トイレに……」

「あぁ……。いちおう聞くけど、暴れないよね?」


 男が頷いたのを確認してから、紅葉は両手足の拘束を解いた。

 自分を見て悲鳴まで上げたような男だ、きっと大丈夫だろう。そうは思うものの、勝手に何をされるか分からない。

 紅葉は男がトイレから出てくるまで扉の前で待ち構えていた。

 出てきた男は紅葉に驚き後ずさっていたが、やはりまだ体調が思わしくないのかぐらりとバランスを崩して壁に激突した。

 紅葉は慌てて手を伸ばし、真っ直ぐに立たせてやる。


「悪い……」

「どういたしまして」


 ベッドに寝かせてやり、ご飯を食べるか聞いたが、まだかなり疲れているようですぐに眠ってしまった。

 紅葉は男を見下ろして少し考えた後、拘束せずに毛布に横たわった。


(もし殺されたら、私の見る目がなかったってことだな……)


 そんなことを考えながら、再び眠りに落ちていった。



 結局、心配は杞憂に終わり、紅葉はのんびりと昼前に目を覚ました。

 目覚まし時計を掛けずに寝られる幸せを噛み締めながら伸びをすると、変な姿勢で寝ていたせいで固まった身体からボキボキと音がした。


 あくびをしながら男の様子を見にいくと、脂汗を滲ませながら荒い呼吸を繰り返していた。

 慌てて体温計を脇に挟むと、デジタルの数字がどんどん上がっていく。

 三十八度超えの高熱に、紅葉は固く絞ったタオルで顔や首を拭いてやってから、額に冷えピタを貼った。


 それから買い溜めてあったレトルトのタマゴ粥を温め、男を無理やり叩き起こす。

 背中の後ろに大きいクッションを挟んでやってから、冷ました粥を口元に運んだ。


「ん……うぅ……」

「頑張って食べて、薬飲まなきゃなんだから」


 数口食べてギブアップした男に市販の風邪薬を飲ませようとするが、意識が朦朧としているのか一向に飲み込んでくれない。

 紅葉は深い溜息を吐いた後、介護だからという言葉を再び自分に言い聞かせた。


 錠剤を男の口に突っ込むと、水を含み、口移しで流し込む。

 ごくりと嚥下したのを確認し、男をベッドに突き飛ばした。


(今のはファーストキスにはカウントしない! 絶対に!)


 不本意ながら初めての柔らかな唇に鼓動を高鳴らせていると、男が目を開いて上半身を起こした。

 先ほどまでの弱りきった表情から、少しばかり人間味を取り戻したような顔。

 熱を孕んだ瞳が紅葉を見つめていた。


「な、なに……?」

「…………体液、を……」

「は?」


 聞き間違えただろうか。

 眉間に皺を寄せて聞き返す紅葉に、男はまた「体液」と口にした。


「何言ってんの……?」

「たのむ……」


 そんな短い会話の中でも体力は消耗しているらしく、男は再びベッドに沈んでいく。

 紅葉は混乱しながらも、棚にしまいっぱなしになっていた裁縫箱を取り出した。


(体液って言うなら、血でもいいってことだよね)


 新品未使用のまま納められている縫い針で、左手の人差し指の先を軽く刺す。

 ちくりとした痛みの後、赤い粒が指先に顔を覗かせた。


 紅葉は指を男の唇にあてがった。

 熱い唇から、ぬるりとした男の舌が出てきて指先を舐める。

 指先の傷から血液を吸うのかと思っていれば、男は紅葉の指全体に舌を這わせ、あろうことか他の指、そして手のひらまで舐め始めた。


「ちょ、ちょっと……なにして……!」

「血は……ダメなんだ……汗の方が……それより唾液、さっきみたいに唾液をくれ……」

「はぁぁぁぁぁ⁉︎」


 一体この男は何を言っているんだろう。

 離れようとしても、手首をしっかりと男に掴まれていて逃げられない。

 どこにそんな力があったのか。紅葉は”男性”というものを意識して身体を固めた。


 無理やり何かをされるかと思ったが、男は熱に浮かされたような顔で紅葉の返事を待っているようだった。

 手を舐めることも中断し、おそらくもっと欲しいのであろう唾液の供給を心待ちにしている。


「あんた……何なの?」

「俺は……吸血鬼だ……でも改造されて……血液を飲んでも糧にならないんだ……」


(それで血液の代わりに唾液? 汗? どんな魔改造だよ!)


 荒い呼吸を繰り返す男は、また体力の限界が近いのか目がうつろになってきている。

 昨晩の自分の行動を悔やみに悔やみながら、紅葉は覚悟を決めた。

 家に死体が転がるよりはマシだろう。


(介護! 介護! 介護っ!)


 紅葉は歯を食いしばり、男の唇に自身のそれを重ねた。

 反射的に出されたらしい男の舌が、紅葉の唇を舐め上げる。


 緊張のあまり固く閉じられた紅葉の唇を、むように男の唇がやわやわと刺激し、生温かな舌がゆっくりと割り入ってくる。

 頑なに閉じられた歯列を、ゆっくりと安心させるように舌がなぞった。

 初めての感覚に、背筋がぞわりと震える。


 男の舌は、それより先には無理やり侵入しようとしなかった。

 まるで紅葉が落ち着くまで待っているかのような動きに、緊張が少しだけ解れていく。

 反射的に掴んでしまっていた男の肩には、もしかしたら爪痕が残っているかもしれない。

 きつく瞑っていた目をおそるおそる開けると、目の前にあった男の瞳が飛び込んでくる。

 深い赤色をしたその瞳に、吸い込まれてしまいそうだった。


 自然と身体から力が抜けて、緩んだ口内に男の舌が侵入する。

 歯の裏側を一本ずつ確かめるかのように舌が移動し、その後で居場所に困っていた紅葉の舌に触れた。

 舌と舌が触れる感覚。ぬるりとしたその感覚に、痺れるような疼きが全身を駆け巡った。

 

「んっ……」


 思わず漏れた自分の声に驚く。まさか自分からこんな声が出るなんて。

 今まで全く男性経験がなく、知識としては知っていても、作り話のように感じていた。

 それが今、当事者になっている。


(キスって、気持ちいいんだ)


 相手との間に恋愛感情がなかったとしても、キスというものは快楽を伴うものなのか。

 紅葉は、自分だけがおかしいのかもしれないという考えを必死に否定した。

 否定したところで正解は分からないのだけれど。


 目の前の男にとって、この行為はただの食事。

 食欲と性欲とは別々に存在するのだから、食欲を満たしている今はきっとそれ以外の感情はないのだろう。

 美味しい、美味しくない程度の感情は存在しているのかもしれないけれど。


 そんなことを考えている間にも、男の舌は紅葉の舌に絡み、吸い上げ、口内に分泌される唾液全てを飲まれてしまうのではないかと思うほどだった。

 酸素不足でクラクラする頭を必死に働かせ、鼻で呼吸をするけれど全く追い付かない。


 限界を訴えるように男の肩をべしべしと叩けば、理解してくれたのかようやく解放される。

 唾液が糸を引くのを見て、顔が沸騰したかのように熱くなった。


 男の顔色はだいぶ良くなっていて、荒かった呼吸も落ち着いている。

 恥ずかしさを誤魔化すように男の額に掴まれていない方の手のひらを当てると、熱も下がっているようだった。


「悪い……ほんとうに……すぐ、出ていく」


 男はそう言って立ち上がろうするが、バランスを崩してベッドに沈む。

 眩暈がしたのか伏し目がちに項垂れる男があまりにも不安定に見えて、紅葉はほとんど無意識に男の肩に手を置いた。


「元気になるまで、ここにいていいから。無茶、しないで」

「いや、でも……」

「放り出して死なれても嫌だし。それに、た、体液が、食事なんでしょ? 普通のご飯で生き延びられるの?」

「…………分からない。改造される前は血液だけ口にしていたし……改造された後は、繋がれた管からの供給がほとんどだった」

「じゃあ、普通のご飯も用意してあげるから、食べてみて。それで生き延びられるならいいし」


 もし、普通の食事では生きられない身体だったら?

 そんな疑問が頭に浮かぶが、今は無視することにした。


 犬猫と一緒だ。

 拾ってしまったからには、面倒を見るしかない。

 自分に都合の悪い部分を意識的に脳内から排除して、紅葉は男と向き合った。


「本当に、すまない」

「いいよ、家に入れたのは私の意志だし。買い物行ってくるから、寝てて」

「…………分かった」


 色々なものを飲み込んだのだろう間だった。

 結局のところ、この男にも選択肢などないのだ。

 どうして道路に行き倒れていたのかは分からないが、察するにやはり逃げてきたのだろう。

 逃げた先に何もなくとも。


 絆されたわけではない。

 やや責任を感じているだけ。


 紅葉は誰に言うでもなくそう呟き、Tシャツにジーンズ、パーカーというラフな格好に着替えて家を出た。


 昨日の雨はどこへやら。澄み切った青空と、ほどよい秋風が気持ちよかった。

 今まで、誰とも深く付き合ってこなかった自分が、まさか他人を、しかも男を家に置くことになるなんて。

 考えたくない要素が脳内を埋め尽くしそうになるのを必死でかき消し、ご飯の内容だけに集中する。


 財布の入った鞄を振り回し、大きく息を吐いた。


 この日を境に、紅葉の生活は一変したのだった。

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