今日もヤツがやってくる……
テケリ・リ
それは、決して負けられない戦い
「……いらっしゃい」
「……どうも」
また〝ヤツ〟が来た。壁に掛けた時計を見れば、またしても二十一時十五分。ヤツは決まってこの時間に、たった一人で俺の目の前のカウンター席に座る。
「……モモタレ一本、皮タレ一本、ぼんじりタレ一本、それと男前ビール」
「……あいよ」
まただ。ルーティーンなのか、ヤツは最初に必ずこのラインナップを注文する。
土曜日の夜だというのに連れも居らず、いつも通りのジャージ姿で、栗色に染めた長い髪をハーフアップに
名前も知らない、今週の頭の日曜日から毎晩ここに来ているその女。
見た目は良い。小柄だが出る所は出ている男好きのするプロポーションに、小さな顔に整然と配置された、まつ毛の長い切れ長の吊り目。正直俺のどストライクだ。口は小さいが適度に唇に厚みがあるのもグッドだ。
だがしかし――――
「男前ビールお待ちどお」
一リットルの大ジョッキに、キッチリ七対三の割合で注いだ生ビールをカウンター越しに渡す。ヤツはそれを両手で重たそうに持ち上げると、豪快にというわけではないがそれでもクピクピと、結構なペースで飲み始める。
いや、別に酒飲みの女がどうこうってわけじゃない。俺もビール党であるからして、女ながらにビールを愛飲するヤツにはむしろ好感すら覚えるところだ。
問題は、そのヤツの視線にある。
仕込んでおいた串を取り出し炭火に掛けた瞬間、ヤツの目付きが変わる。
まずは軽く素焼きをするのだが、その挙動を。それだけでなく一度火から上げタレに浸して火に乗せる時も、火力を調節するために
大ジョッキを傾けながらも、その鋭い視線は俺の一挙手一投足を捉え、決して逸らさないのだ。
仕事終わりなのかそうでないのか。
ほとんど化粧気も無いが気にならないのか。
家はここの近所なのか。
一週間毎日外食をしていて、お金は大丈夫なのか。
そもそも何故ジャージなのか。
ヤツの鋭い視線に、俺の集中が掻き乱される。しかし長年の修行の末身に付けた〝焼き〟の技術は、俺の身体を正確に動かし串を炙っていく。
そして――――
「モモ、皮、ぼんじり、お待ちどお」
ヤツの注文の品が焼き上がる。タレの少し焦げた香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、毎日嗅いでいる俺自身でさえも食欲を刺激される。
皿に盛ったその焼き鳥達をカウンター越しに差し出すと、ヤツは両手でそれを受け取り、まずは香りを確かめ始めた。
品定めのつもりか?
俺のミスを是が非でも見付け出す心積もりなのだろうが、俺の完成された技術はちょっとやそっとでは破綻などしない。残念だったな。
ヤツは
そう、皮だ。
自慢ではないが……いや自慢ではあるが、ウチで扱う
当然ながらその皮ですら、弾力のある食感としかししつこくない歯切れ感、そして皮に含まれた旨味など、申し分の付けようもない程の品だ。ましてやソレを焼いているのは、他でもないこの俺なのだ。
そんな自慢の皮の串を口に運んだヤツは、一瞬。
ほんの一瞬だが、その人によってはキツイと評しそうな目付きを
――――まずは一勝。
思わずカウンターの下の、客からは見えない場所で拳を握り込む。
だがそれで終わりではない。ヤツはいつの間にか皮の一本目を平らげており、口の中をビールで洗い味をリセットしている。
次の串へと移行するつもりなのだ。
ジョッキを置いたヤツが次なる串へと手を伸ばす。皮に続いてヤツが選び取った串は……ぼんじりだ。
まあこの一週間ずっと決まったルーティーンであったから、予想はしていたしその通りだったのだが。
ぼんじりとは、鶏の尻周辺の非常に筋肉の発達した部分の肉だ。しかし一羽から採れる量が少ない希少部位であり、その食感はプリッとして旨味が濃く、かく言う俺も好きな部位でもある。
分かってるじゃないか、と。ヤツと俺の嗜好の共通性に、思わず頬が緩みそうになるのを理性で抑え込む。
しかしそんな俺をほくそ笑むかのように、ぼんじりはヤツの口へと運び込まれ、そして――――
「……おいし」
ぐぅおッ!?
先程の皮の時以上に表情を柔らかくし、そして予想だにしていなかったその呟きに。俺は思わず、胸中が鷲掴みにされたかのような錯覚を覚えた。
美味いと言わせた。その結果から判断すれば俺の勝ちに見えるかもしれない。だがこの一週間での初めてのその変化に、俺は情けなくも
――――これで一勝一敗。
予想外の攻め手に不覚を取りはしたが、次はいよいよ鶏モモの串である。
当然ながら、モモ肉こそが焼き鳥の定番であるし王道だ。そしてヤツはその王道を存分に味わうためだろうが、ネギマではなくモモオンリーをいつも頼む。
いいだろう、受けて立つ――――ッ!!
そうして身構える俺だったが、だがその前にヤツのジョッキが
「生中追加で。あとアスパラベーコンとトマトベーコン。それとハツとヤゲン」
くっ……!? ここで追加注文されるのはいつもの通りだが、相変わらず人が変わったかのようだ……!
ヤツは二回目の注文時は、初回の注文時とは打って変わって自由に串を選ぶのだ。参考までに、昨日はつくねと砂肝。その前の日はネギマと手羽、そしてフリソデだった。
そのようにして。ありとあらゆる、鶏の全ての部位を食い尽くさんとでもするかのように、新たな串を注文してきたヤツだったのだが……何を思ったか、今日はなんと鶏以外で攻めてきたのだ。
ベーコン串もある意味では焼き鳥屋の定番であり、その例に漏れず俺の店でも提供はしてはいるが……まさかヤツの口からそのオーダーが飛び出してくるとは思ってもみなかった。
その完全なる不意打ちに、俺の精神が乱される。
待て、落ち着け。まだ慌てる時間じゃない――――
「やっぱりおいしい」
ぐはぁッ!!?
みっともなく
完璧に油断していた。まさかここまで計算した上でこの攻勢だとすれば、ヤツはとんでもない策士だ。只者ではないと把握し警戒していたというのに、まさかその上を行かれるとは……っ!
……だが、俺にだって意地というものがある。
「生一丁、お待ちどお」
ビールは良い。その湧き立つ炭酸の気泡に、白と
――――現在は一勝二敗。しかし勝負はまだこの後も続くのだ。
俺は折れかけていた闘志を奮い立たせると、注文されたハツ、ヤゲン、そしてベーコン串を二種類取り出して、炭火の上に置く。
ヤツはどうやらタレ派らしいが、ハツとヤゲンは塩のみ、そして同じくベーコン串も塩焼き。
俺は今までと全く勝手の違うフィールドに突然立たされた心持ちであったが、それはヤツも同じだろう。
恐らくは、今回のこの塩焼きメニューが勝負の分かれ目だ。
素焼きで表面を軽く焼いてから、最大限に集中して慎重に塩を振るう。特にベーコンは元の塩気があるため、繊細な塩加減が求められる。
細心の注意を払っての作業に精神力が削れる。
まだだ。俺はまだやれる……!
そう己を鼓舞し、一摘みほどの黒胡椒をアクセントとして全体に
その間も、決して俺から逸らされることのないヤツの鋭い視線を感じながら。伝う汗を
ふっ……。いつぶりだろうか、ここまで追い詰められるのは。
思い出されるのは、辛く苦しい修行時代の日々。
あの時もこうして、親方の厳しい視線に晒されながら串と向かい合っていた。
俺はいつの間にか慢心していたのかもしれない。
まるであの時の親方のようなその視線に、忘れかけていた俺の串への想いが呼び起こされる。
指先の一本一本に心臓があるかのように、己の全身を巡る熱い鼓動を感じ取れるほどに。俺の心は今、目の前の串と一体化していた。
火の通りが早いベーコン串を遠火に移し、ハツとヤゲンを繰り返し、余計な焼き色を付けないために炭火の上でひっくり返す。
そして全ての串へ持ち得る全ての力を注ぎ込み、最高の火入れを施した俺は。
「ハツ、ヤゲン、アスパラベーコン、トマトベーコンお待ちどお!」
好みで付けられるよう我が店自慢の自家製マヨネーズを添えて、俺の全てをヤツに
ヤツは一皿目の時と同じようにまずは香りを堪能してから、ハツ、ヤゲンの順に口に運ぶ。
きっとビールの残量も抜け目なく調節しているんだろう。串を一本食べ終える
そしていよいよ運命の
先に選ばれたのは、アスパラガスをベーコンで巻いた方であった。見た目を堪能してから、ゆっくりとヤツはソレを口の中へと運び――――
「……めっちゃおいしぃ……」
がっはぁッッ!!!???
ヤツの目には先程までの鋭さは最早どこにも無く、頬張ったベーコンロールの味に
いやダメだろその笑顔は!? ズルいだろッ!?
胸を貫く余りの衝撃に俺は意識を失いかけ、気付いたらヤツは……あの女性は会計を済ませて俺の前の席から姿を消していた。
もうダメだ……。
俺はまた明日彼女が来たら、その時は交際を申し込もうと、固く誓ったのであった。
今日もヤツがやってくる…… テケリ・リ @teke-ri-ri
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