@koyo-amamori

第1話

 秋であった。この呉の国にも実りと収穫の時が訪れ、黄金色に輝く稲穂を見て、どこの町でも農夫はこれは豊年だ、忙しくなるぞと腕をさすっていた。

 太湖のほとり葦の原が広がる陽羨(ようせん)の町でも、今年は豊作で、長老たちは刈り入れのために、若党を引き連れて田に出てきていた。湖沿いの堤から町の城壁までの間、一面の実りである。嬉しくなって、皆が歓声を上げた。

すると、卒然と馬蹄のとどろきを耳にして、長老たちは不安気に頬を強張らせた。遠くから土煙を立てながらこちらに向かってくる。

若い一団が馬を疾駆させていた。蹄の音も高らかに酒でも飲んでいるのか、無暗に大声で歌っている者もあり、刀や槍を空に向けて振り回す者もありで、突然の闖入者の登場に、百姓たちは凍り付いた。

こちらには、来ないでくれよ、という願いも空しく、馬首を真っ直ぐに向けて進んでくる。立ち尽くす農夫たちの目と鼻の先というところで、馬はぴたりと止まった。

「やあ、みんな元気にしているかね?」

 騎馬の一団は十人ほどで、先頭のひときわ大柄で若い男が代表して声を掛けた。柔らかな声音に対しても農夫たちは恐々と見つめるだけで、口を開かない。女子供をそっと陰に隠す者もあり、そのまま気まずい沈黙が訪れた。

「周家の若様が何の用ですかいの?」

 意を決して長老の中でも一番年かさの、でっぷりと肥えた男が言った。努めて平静を保つが、震え声は隠せない。

「若様なんか、よしてくれよ。仲良く話そうじゃないか」

 周家の若様と呼ばれた大柄な男はニコニコとそう言った。馬から降りた方が良いと思ったのか、軽やかに下馬し、後ろの者たちにも下りるように言った。酔っ払いが何人か尻もちをついた他は、皆軽やかに下馬してみせた。

「今年はいつになく豊年だな」

 田の稲穂を無造作に引き千切りながら、周家の若様はほれぼれと眺めた。

(周家の悪ガキめ……)

 皆、声には出さないが反感は隠せない。今日はいつになく穏やかだが、普段の行動を思い出すと、何か裏があると思わずにはいられない。

 不良少年の一団なのだ。夜に馬を走らせ大騒ぎをしたり、隣町のやくざ者と喧嘩をして長老たちをヤキモキさせたり、なにかと厄介な連中であった。その首領格が陽羨の豪族周氏の少年、『周家の若様』なのだ。

「何か困りごとはないか?今年は豊作なのに皆の顔は憂いに沈んでいる」

 誰のせいだと思っているのか。農夫たちの間に黒い情念が沸き上がった。それに応えるように、太った長老は重い口を開いた。

「三害が除かれんことには、とても、とても……」

 三害という言葉を聞いて農夫たちは顔を見合わせた。黒い情念は長老に思いもかけない勇気を与えたものらしい。

「三害とは何だ?俺が退治してやる」

 周家の若様は農夫の様子を見て勢い込んで言った。余程に手強い相手らしい、と思ったのか覚えず剣の柄に手を掛けた。

 老人はゆっくりとシミだらけの頬をゆがめて言った。

「この辺りの猛獣でございますよ。南山の額の白い猛虎、夜な夜な人を食いまする。これが一つ。もう一つは長橋の下の蛟(みずち)。北の川を渡る長橋の下にいつもいて、通る者や荷駄を襲うのでございます。」

「それでは、二害ではないか? 三害というからには三つあるかと思ったが」

「はい、三つめは、でございますがね、三つめはあなた様でも、とてもとても退治できません」

 楽しむようにニヤニヤと笑いながら老人は言った。他の農夫たちは青くなったり赤くなったりで、声も出ないようだ。

「言ってみよ。俺も自分の武勇を試したい」

 周家の若様を穴の開くほど見つめて、老人は意を決したように言った。

「三害の最後は、猛獣では無くて人間。周家の御曹司。つまり、あなた様でございます」

「くそ爺!」

 後ろで神妙に控えていた不良少年たちが色めき立った。長老は掴み掛ろうとするのをヒョイと避けて、老人とは思えぬ速さで走り出した。一斉に農夫たちも逃げ出す。

「止せ」

 周家の若様は手でいきり立つ若者たちを制して、遠くに逃げる農夫たちの背に向けて呼び掛けた。

「もし、三害が除かれれば、どうだ?」

「郷里どころか、郡を挙げての大慶ですわい!」

 逃げ散る農夫を前に、むしろ神妙に周家の若様はもと来た道を戻って行った。三害を除くために。



 周家の若様といつまでも呼ぶのは物語の上で、差し障りがあるので、ここいらで彼の名前と出自を述べておこう。周家の嫡男で名は處(しょ)、字は子隠(しいん)である。古来、中国では名を直接呼ぶのは非礼とされ、字(あざな)という通り名で呼ぶのが一般的であった。名を呼ぶのは主君か父母或いは敵である。

 周處の父は魴(ほう)と言い。呉の孫権に仕え鄱(は)陽(よう)郡の太守にまでなった。太守と言うのは郡を統治し、郡の下に県がいくつか付属するというのが、一般的である。大体、県は城壁で囲まれた町と周辺の農村が統治範囲であった。

 だから、長老の言った郡を挙げての大慶とは、この陽羨の町だけでなく、周りの町も全てが喜ぶスケールの大きな幸運だと言う意味になる。

 さて、周處は馬を走らせながら南山に向かっていた。もちろん、虎退治のためである。

 後ろに続く仲間たちは、みな不満顔であるが、周處一人は気味の悪いほどに穏やかでニコニコとしていた。

「子隠、なんであんな口をあいつらにきかせておいたんだ?あんたの事を害なんて言う奴、俺は許せねえよ」

 仲間の一人が周處に文句を言った。

「あんな爺、ぶちのめしてやれば良かったんだ」

 周處はぎょろりと不満顔の仲間に目を向けた。思わず黙り込む仲間にふっと笑んで、周處は自分に言い聞かせるような大声で言った。

「俺はな、良い人間になりたいんだ」

 周處の言葉に皆が笑い出した。

「良い人間ってのはどんな人間だ?あんたは俺たちの中で一番喧嘩が強い」

「知恵も働くし、美味いものも分けてくれる」

「これ以上無いくらい、良い人間じゃないか?」

 口々に不良少年たちは笑った。彼らは町の厄介者で、周處は彼らにしてみれば、神にも等しいのだ。

「俺の思う良い人間はな……、一言では言えないが……」

 周處は自分の考えをまとめるのが苦しくて堪らない、と言う顔をした。

「大帝様の様な、孔子様の様な、とにかく良い人間だ」

 大帝とは、呉の国を建国した孫権のことである。呉の国では、孫権の事を尊んで大帝と呼んでいた。孔子は誰でも知っている聖人だ。不良少年たちは、周處の突飛な発言に噴出した。

「そいつは良いや!あんたが大帝様みたいになれば、俺たちは将軍だな!」

「あはは、俺は大臣にしてもらいてえ」

 周處も一緒に笑った。自分でも何をどうすれば分からない。そういう時は笑い飛ばすのが一番だった。

「さあ、南山もそろそろだ!虎狩といこう!」

 鬱蒼と茂った南山が姿を現した。この山のどこかに人を食う虎がいるのだ。



 狩猟に関しては、周處と仲間たちは、よく心得ていた。周處は仲間を五組に分けて、一組を南山のよく開けた北側の平地に配置し、そこに自分も陣取った。弓を用意し少し盛り上がった所に場を据えた。他の四組は山を囲むように配置し、大きな音を立てて北側に獲物を追い込むのだ。

 獲物を追い込むには銅鑼や太鼓を打ち鳴らし、出来るだけ賑やかにやる。怯えて逃げる獣が多ければ多いほど、それに釣られて獲物は多くなる。動物にも心理があるならば、これは初歩的な心理戦と言えるだろう。

 周處がゆったりと伸びをした時、山の四方から鳥獣の叫び声がこだまし始めた。

「どうやら、始まったらしいな。気を引き締めていこう」

 誰に言うでも無く、そうつぶやくと、山へ目を凝らし始めた。猿や鹿が山から飛び出してくる、いつもなら一網打尽にして皆で肉を分け合うのだが、今日は大物狙いである。虎以外には目もくれない。

「子隠、虎だ」

 山の喧騒から半時間ほど経ち、虎がのっそりと姿を見せた。額に白い毛が生え例の猛虎に間違い無い。流石に人を食うと言われるだけあって、人間を見ても少しも怖気付かない。地鳴りのようにゴロゴロと喉を鳴らして、こちらにゆっくりと近付いてくる。

「これは、山の王だな。しかし、お前は少し暴君に過ぎた」

 周處は矢をつがえ、片目をつぶって狙いを付けた。虎の方も弓に気付いて、走り寄ってくる。猛獣にしては賢く、弓の何たるかを知っているらしい。

「子隠、危ない射て!」「早く射ないと、虎が来るぞ!」

 仲間たちが叫ぶのも聞こえないのか、ぎりりと弓を引き絞ったまま、動かない。虎の毛並みが見えた、目利きの毛皮商なら見事さに唾を飲んだだろう。

 まだ、周處は弦を放さない。

 虎は疾駆して近付く、黄色い怒りに燃える目が見えた。

 空気を裂く音が響いたのは、正に飛び掛かる直前であった。虎は周處の強弓をまともに受けてのけぞり、くるりと回って倒れた。どう、と音が響いた。

 仲間たちが歓声を上げて駆け寄る。虎には棍棒を手にした男たちが群がり息の根を止めた。虎は哀れにも悲鳴を上げて事切れた。

「三害の一つ白額の猛虎、この周處が仕留めたぞ!」

 流石に緊張したのか満面に朱を注いだ周處は、弓を上げて叫んだ。鳥も獣も人も、山の王を倒した武勇を誉めている様に周處には思われた。

 次は蛟を倒さなくてはならない。


 とにかく、まずは虎の肉を分けなくてはならない。公平に量も脂身も平等に分けるのが、周處たちの流儀だった。

「皮が綺麗だな、良い敷物になりそうだ」

 虎の皮は、山の王の魂を宿すかのように、きらきらと輝いて見えた。売れば、高値になるだろう。

 周處は仲間たちと虎の肉を分け始めたが、半ばくらいまで肉を分けたあたりで、そわそわとし始めた。

「どうした、子隠?」

 仲間の一人が聞いた。肉にはほとんど目もくれずに、上の空の周處を気遣っての事だった。

「うん、長橋の蛟が気がかりでな……」

 蛟と言うのは、龍が地を這うものと言われ、古来より恐れられてきた猛獣である。長江に棲む鰐の事である、と言う者もあり、長橋の蛟は鰐であっただろう。

「早く、倒してしまいたい」

 周處は仲間に不安がっている、と思われるのが嫌なのか、敢えて笑って言った。仲間も周處の様子を見て、笑った。頼もしい態度に対する、信頼から出た笑いだった。

 周處は仲間の笑いに押されるように、立ち上がった。これ以上、グズグズしていては、弱気の虫が出るかもしれない。

「肉はお前たちで分けろ。俺は蛟退治に行く。蛟を倒したら宴会だ」

 言うが早いか、周處は馬上の人となった。あわてて、仲間内で腕自慢の二人ほどが追いかける。

「俺たちも行くよ。お前たちは残って、肉の準備をしておいてくれ、今晩は宴会だ」

 周處の口振りを真似て飛び出した二人を加えて、三人は北の長橋へ向かった。

 三人は黙々と北へと馬を走らせた。たわわに実った稲穂が首を垂れ、黄金色の大地となっている。田野は豊作であった。

 周處は稲の実りを見ながら、思い起こしていた。三日ほど、前の事である。

 周家は父が太守を務めただけあって、裕福で邸宅も宏壮であった。倉には穀物と銭・布が納められ、厩には何頭もの馬が繋がれていた。壁は高く、見張り台が設けられており、盗賊や異民族の突然の襲撃にも抜かりは無い。陽羨における豪族と言えば、まずは周家が挙げられると言う名族であった。

 その邸宅の主は亡き父に代わって、家を差配する周處の母であった。母は周家の経営に忙しく、息子の面倒を充分に見てやれない、と言う負い目もあり、周處には甘かった。銭が欲しいと言われれば、銭を出し。馬が欲しいと言われれば、わざわざ馬商人が西域から持ってきたという馬を、買ってやった。

「根は良い子なのですけど……」

 我が儘放題の周處が不良の頭目になっても、母は甘かった。信じたかったのかもしれない。それでも、悪評は日に日につのるばかりで、ついに母は周處を呼び出した。

 会った途端に、わんわんと泣き始めた母に周處は面食らった。

「母上、どうしたのです?そんなに、泣いて……」

 周處は不良の仲間ではあったが、そこは名家の御曹司らしく、丁寧に聞いた。

「私が悪かったのです。お前を甘やかして、こんなに悪評が立つほど、ほっておいた、私が」

 後はもう涙と悲鳴で何を言っているかも分からない有様だった。ただ、陸氏の坊ちゃんはお前とそんなに年が変わらないのに、よく学問をして立派なのに、お前ときたら、せめて素行だけでも立派になりなさい、孔子様や大帝様の様になれなくても、せめて陸氏の坊ちゃんの半分でよろしい、書を読みなさい、と切々と訴えられた。

 陸氏と言うのは、呉に仕えてきた名族で、丞相の陸遜を輩出した一族として知られていた。陸氏の坊ちゃんと言うのは、陸遜から数えて三代目の陸機と雲の兄弟の事だった。まだ、若いのに名声が高く、世間から尊敬されていた。

 周處は陸氏と較べられた事に反発を覚えながらも、母を必死に慰めた。きっと良い人間になります。誓います。三日のうちに善人になります。と、言った。

 自分の居室に戻った周處は、考えた。良い人間とは、何か、と。これは非常に哲学的な問いなのだが、周處にあっては単純明快な答えが出された。人の害を除くのが善人である。かくして、周處は陽羨の町へ出て、百姓たちの困りごと『三害』を聞き出したのである。

 自分はもう良い人間なのだから、後は虎と蛟さえ倒せば、皆に感謝され、母も泣くことは無くなるはずである。

 思い起こしが尽きた頃合いで、長橋に到着した。

 長橋は名前の通り長い。この辺りは沼沢地帯なのだが、特にこの長橋のあたりは川が流れており、木の橋が作られていた。時々、恐々とこの橋を渡ろうと、驢馬に荷を載せた行商人や百姓が通る。蛟を恐れているのは明らかだった。

 周處が目を凝らすと、川の流れに沿うように、黒い木の様なものが動くのが見えた。

蛟であった。黄色い目を水面に出して、音もたてずにするすると動き回る。

「あれが、蛟か……。大きいな」

 蛟は虎よりも大きく、驢馬でも一呑みに出来そうなほどであった。周處たちは川面に近付き、弓で蛟を射てみた。

「全然だめだな。当たらない」

 二人の仲間と周處は顔を見合わせた。岸から川に向けて射るのは難しく、蛟の方も動き回るので当てるのは至難であった。

さて、どうしようか?と思案していると、橋に子連れの農夫が通りかかった。重そうな荷を持ち、おっかなびっくりと橋を渡ろうとしている。

 あっ、と声を出したのは三人が同時だった。蛟は農夫の方にスーッと近付いていく。

「まずいな、子供を狙っている」

「思案している暇はないな、すぐに行かねば食われてしまう」

 周處は服を脱ぎ、褌一つになって、川に飛び込んだ。二人の仲間も後に続く。三人とも口には鋭利な匕首を咥えていた。ザブザブと音を立てて泳ぐのを遠望した蛟は、大きな口吻を周處の方に向けた。水の中の獲物の方が、取り易いと思ったのであろう。

 距離を縮めた三人と蛟は川の中ほどで格闘し始めた。周處が真っ先に蛟の口に取り付いたのが、人間の側には幸いした。蛟は噛む力は何よりも強いが、口を開ける力は強くは無い。武器を奪われた蛟は、狂気のように首を振るい、身をもがかせた。

 しかし、三人にも決定打は無かった。蛟に取り付いて匕首で滅茶苦茶に刺すのだが、鉄の様に堅い鱗を通せず、ほとんど効き目が無い。もがく蛟に振り落とされるように、一人、また一人と川に流されてしまう。

 ついには、周處と蛟の二人だけになった。

(こうなれば、根競べだ。どちらが先にへばるか)

 周處は腹を決めて、根気よく蛟の堅い鱗に匕首を突き立てていく。どれ程の時間が過ぎたのか、周處と蛟は、もはや生存を掛けて争う二匹の生き物と化して格闘していた。

 遂に、蛟の側がすうっと浮かび上がった。息絶えたのだ。周處はホッとすると同時に、川に流された。薄れゆく意識で、周處は思った。俺は良い人間になれたであろうか、と。


 周處が目を覚ました時、もう日はすっかりと暮れ、天は星空であった。運良く河原に流れ着いたらしい。

(生きている。しかし、疲れたな……)

 ほとんど、死にそうなほど疲れていた周處は、それでも近くに落ちていた木の枝を杖にして立ち上がった。とにかく家に戻ろう。その事しか周處には考えられなかった。

 途中、野に生える木の実を口しては、渋さで吐き出しながら、重い身体を引きずるようにして、町に向かった。この辺りは、以前釣りで来たことがあった。記憶を頼りに一歩一歩と陽羨の町に向かった。

 陽羨の城壁が見えたころ、日は登り朝になろうとしていた。周處は体力の限界を覚え、茂みに憩うように体を丸めた。

 どれ程の時が経ったであろう、人の声で周處は目を覚ました。

「いやあ、三害が無くなって本当に良かった、おめでとう」

「おめでとう、嬉しいね。虎も蛟も周處も死んでくれるなんて」

「あいつも、たまには良いことをするね」

「死んでくれたのが、何よりの贈り物だよ」

 周處は冷水を浴びせられたような心地だった。農夫たちは自分が死んだものと思って、お祝いを言い合っているのだ。

(俺は、それ程に憎まれていたのか……)

「それは、そうだよ」

 誰かが、囁くように言った。茂みの中は狭く、自分一人のはずだが、確かに声はすぐ耳元でした。

「お前、作物を随分荒らしただろ? 農夫は作物が無いと年貢も出せない。貯えも作れない。お前のせいで、年貢が出せずに逃げ出した奴、貯えが出来なくて嫁に行けず首を括った奴。いるんだぜ……」

 声の主の方を見ると、そこには虎と蛟がいた。

「何を驚く? 俺たちは同じ三害じゃないか。仲良くしようぜ」

 幻覚が生み出した亡霊に違いなかった。しかし、亡霊の声は嫌に真に迫っていた。ここにいたら、おかしくなる……。周處は夢中で茂みから飛び出した。飛び出した先に居たのは、農夫たちであった。

「や、周家の若様、これは……」

「お、お元気そうで、何よりです……」

 死人のように青い顔をした農夫たちの間を、縫うように周處は足を引きづって、通り過ぎた。涙が頬を伝ったのを感じたが、何で自分が泣いているのかは、分からなかった。怒りか、悲しみか、悔しさか。それらが、入り混じったのか。

 その日、屋敷の門をくぐった周處は、空腹も忘れて泣いた。泣いて、泣いて、泣きぬいた後に来たのは、虚無であった。見かねた、母親が流し込むように、食事を与え、水を飲ませた。

(これ程、空しくとも死ねないのか)

 周處は次第に力を取り戻し、顔色も良くなった。但し、心は抜け殻であった。そんな周處に思い起こされるのは、自分と同い年と言う、陸氏の兄弟であった。

「陸機殿に弟子入りしたい」

 抜け殻な自分が発した声を、どこか他人事のように聞きながら、周處は母に手を引かれるようにして、陸氏の邸宅を訪ねた。

 陸氏の門の番人は親切な男で、陸機に弟子入りしたいと言う周處を、急に訪問したにも関わらず客間に上げてくれた。しばらくして、大きな足音と共に、大柄な精悍な感じのする若者が入ってきた。

 若者は周處に客人の礼を取って言った。

「兄は留守です。すみませんが、私で良ければ、お話をお聞きしますよ」

 陸機の弟、陸雲であった。周處の思う陸雲と違い、賢そうではあったが、柔和で人好きのする表情をしていた。

「周處、と申します。兄上様に弟子入りをしたく、参りました」

「そうですか、しかし見たところお若い、我らの様な若輩に弟子入りされるようなことは……」

 事は無いでしょう、と言いかけて陸雲は口をつぐんだ。周處が見捨てられた子犬の様に、目に涙を溜めているのを見たのであろう。

「いえ、分かりました。兄には私からも言っておきます」

「ありがとうございます。しかし、私はこれまで何も学問をして来ませんでした。手遅れではないでしょうか?」

 周處は縋る様に、言った。

「なぜ、手遅れなどと気にするのですか? 朝に道を聞いたなら、夕べには改めれば、それ良いのです。手遅れ、という事はありません」

 陸雲の言葉は周處の身に染みた。

 それ以来、周處は大いに学問に励み、名将と呼ばれる将軍となった。

 呉が滅んで後は晋に仕え、雍州で戦死した。残された母には、終身の薬と食料が賜与された。彼を害と呼ぶ者は、もはやいなかったのは、言うまでも無い。(完)

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