『焼き鳥が登場する物語』
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奇書
三月。古書の
青空へ真っすぐ伸びる傷んだ道路。水平に切れる赤茶けた荒野。まばらに緑があるのが不思議なくらい乾燥した大地。遠い山は岩の塊に見え、人が暮らせる環境とは思えない。
エルドフ氏は、なぜ財をなして辺境に住む。
理由は一つ。
恐怖。
集めた本を奪われるのではないかという、恐れ。
「……そんなに人が怖いかね?」
呟き、滝沢はカーナビに目をやった。曲がれといわれた座標だ。
しかし、道はない。オフロード用のピックアップで来てよかった。
「洗車代くらいはもらえますよね?」
荒野の果てを睨み、滝沢はハンドルを切った。
エルドフ氏は、滝沢を
初めての仕事は、受けるのも迷うような、ふざけた依頼だった。
英国は宗教改革時代に書かれたという詩人の書を、中央アフリカで探してほしい。
言葉の通じない部族に襲われ、他のハンターとやり合い、内戦に巻き込まれ、まるで地獄のような――充実した二ヶ月間だった。
本を手に入れたときの感動と、手渡したときの達成感は、滝沢をブックハンターとして
「――プッ、クク……」
滝沢は在りし日を思い返し、小さく吹き出す。
『いい仕事にはいい報酬を』
そう言って読み聞かせてもらった詩集の、下世話なこと。
こんな下らない本のためにという落差もまた、滝沢を魅了した。
人を惹きつける熱情は、無意味性に潜んでいる。
滝沢は、岩山の陰に突如として現れた屋敷に苦笑し、門扉に車を寄せた。インターホンに笑顔を向け、金擦れの音を立てて開いた門をくぐる。
「……要塞かよ」
滝沢は屋敷の防衛設備に呆れた。
異常な数のカメラ。警報機。殺意を溢れさせる機銃群。すべては本を守るため。狂気すら滲む熱意に胸が躍る。
「要塞だとも」
声が、スピーカーで届けられた。集音器までついているらしい。
滝沢は参ったと両手を挙げ、ノイズ混じりの声に導かれて本の守護所に入った。見渡す限りの本。本。本。一冊を十分で読んでも人生が三つか四つは必要だ。集めることが主題で、読みたいとは思わないのだろうか。
応接間と呼ばれる部屋がないのか、急いでいるのか、滝沢はさっそく書斎へと通された。――もっとも、どこも書斎のようではあるが。
「やぁ、久しぶりだね」
屋敷の一番奥の、厚さ五センチの重い扉の先に、エルドフ氏はいた。金の縁取りがなされた赤い椅子に腰掛ける、骨と皮ばかりの老人だ。
「……急に呼び出したりして、すまない。もう動くのも辛いのだよ」
嗄れた声で言い、エルドフ氏は息苦しそうに笑い、
「肺を悪くされたのですか?」
滝沢が尋ねながら近づくと、そこで止まれとばかりにエルドフ氏が手を伸ばした。
「……私のことも信用できませんか。あなたの忠実な狩人ですよ?」
「ハハハ」
エルドフ氏は苦しげに笑い、首を振った。
「違うとも。ただ、伝染るかもしれんのでな」
「というと――流行り病ですか?」
「だったら良かったのだがね」
エルドフ氏はマスクで息を継ぎながら、部屋の入口のテーブルを指差した。ビニール袋にくるまれたガスマスクがあった。最新型の軍用モデルだ。
「念の為それをつけてくれ。老人の欲望に若者を巻き込むわけにはいかん」
「とっくの昔に巻き込まれてますけどね」
エルドフが咳き込んだ。笑わせないでくれと手を振っていた。
滝沢はガスマスクをつけ、鏡で確認してから振り向く。
「しかし、ガスマスクとは……毒インクの類ですか? それとも黴?」
「……いや」
エルドフ氏は瞑目し、顎をあげた。
「呪い、かな」
滝沢は笑うタイミングを逸した。冗談をいう口調には思えなかったのだ。
古書の、特に希少な本には様々な逸話がつきまとう。そのほとんどは他愛もない迷信であったり、本の価値を高めるために
たとえば、防虫剤が人に有毒であるとか、変質したインクが剥がれて危険だとか、紙や装丁の材質、環境によっては黴も有害となる。
しかし。
「呪い、ですか」
ブックハンターをやっていると、本当に呪いめいたものに出くわすこともある。
書かれている内容が次々と的中する予言書の類。
読み上げていくと周囲で奇妙なことが起きる魔術書の類。
そして何より、所持しているだけで人ならざる何者かの気配を感じるようになる、
悪魔を呼ぶ書物――。
滝沢は上着のうえから、右の腰を撫でた。拳銃が差してある。銃弾が効く相手であればいいのだが。
過去にも、滝沢は化け物と遭遇したことがあった。
中東の荒野で手に入れた奇書だった。確認しようと開いたがために――。
ブルッ、と身震いし、滝沢はあらためてエルドフ氏に尋ねる。
「マスクをつけさせたということは、本はすでにあるのですね?」
「そう。読んでもらいたくてね」
「読む? 珍しいですね。中身に興味がお有りですか」
「もちろんだとも。そもそも、私が
エルドフ氏は躰が重そうに手をつき、立ち上がった。杖をついて移動式の書架に近づき、横にずらす。現れた新たな書架から一冊の本を抜き、隙間に手を差し入れた。
カチリ、と小さな音がし、書架が内側に開いた。
奥の壁に、鉄の金庫扉があった。
「……蒐めた本はすべて読みたい。だが時間が足りない。なら寿命を伸ばそうと」
「寿命? では魔術書か錬金術の類ですか」
不老不死の妙薬。その製法を伝える本は無数にある。そのどれも現代の目で見れば与太話の域を出ない――が。
「私に読ませていいのですか?」
「君だから頼めるのだよ、タキザワ」
エルドフ氏は金庫を開け、鉄の箱を取り出した。
「何しろ、私には読めんのだ」
「あなたが読めない?」
エルドフ氏は十二ヶ国語に通じ、古語の知識も言語学者に引けをとらない。
「そんなもの、私に読めるとは思えないのですが」
「いや、文字自体は読めるのだがね。君の見解を聞きたいのだ」
鉄の箱から現れた本は、焼け焦げたような赤銅色の装丁が施されていた。
「……見てくれんか?」
言って、エルドフ氏は倒れ込むように椅子に戻った。
「拝見します」
滝沢は一つ息を吸い、本を見下ろした。
「……古ヘブライ語ですね」
「そうだ」
「……が、登場する、物語」
「うん」
「前半が分からない」
「音にしてみたまえ。意味など考えず、口にするんだ」
「……銃を抜いても?」
「心配せんでも、それだけで何かが起こるということではないよ。――それで安心するというなら、好きにしたまえ」
滝沢は拳銃を抜き、手元に置いた。緊張のせいか、ガスマスクのせいか、酷く息苦しかった。
「や、き、と、り……」
目眩がした。やきとり。焼き鳥?
滝沢はエルドフ氏に振り向く。
「あの、これは……」
「焼き鳥。君の国の言葉だろう?」
「……それは、そうですが」
「だが古ヘブライ語だ」
「……偶然では?」
「だとしたら、ヤキトリと発音する何かだ」
「他に何があるのですか」
「読めば分かるが、私にはレシピ本に思えた」
「では、レシピ本なのでは?」
滝沢は苦笑しながらマスクに手をかけた。途端。
「よせ!」
エルドフ氏が叫ぶように言い、咳き込んだ。マスクで呼吸を整えながら続ける。
「私が、君をからかうために呼んだと思うか?」
「……何が起きるというのです」
尋ねると、エルドフ氏は必死に酸素を吸いながら言った。
「……それが知りたくて呼んだのだ。この老体だ。私ははじめの部分を読んだだけで恐ろしくなり、本を閉じてしまった」
「……私一人で対処しろと?」
「こんな話、君の他に誰が信じる」
「ですが、金さえ出せば……」
「傭兵に古ヘブライ語を学ばせるのかね。呪術の知識も与えろと」
エルドフ氏の縋るような目に、滝沢は理解した。
「そんな時間は、ない」
エルドフ氏は頷いた。
滝沢は深く、長く息をついた。
病は、書物によるものではないのかもしれない。
しかし、だとしたらなぜ、こうも警戒する。
分からない。
分からないが、滝沢は、エルドフ氏に出会ったことで、そういうことに心を囚われてしまっていた。
「……焼き鳥が登場する物語」
声にして、滝沢は本を開いた。
「東の果て。氷の大地の奥深く。天へと続く山の向こう。無限の森を越え、見果てぬ海の先……」
そこに焼き鳥があるという。一見すると、旅行記のようでもあり、また著者を投影した小説のようであり、道すがら目にした動植物、文化、飲食にまつわる記録のようでもある。叙情的かつ詳細に綴られた文書は、エルドフ氏の睨んだ通り、レシピ本や薬学書に見えなくもない。
しかし。
ときおり混じる、日本語として発音したときだけ意味が通る文字列は何だ。
焼き鳥。
醤油。
タレ。
炭を置いて火を
読みすすめるうち鼻腔に満ちる、焦がし醤油の煙の匂い――。
匂い?
文書を読み続けながら、滝沢は違和感に意識の断片を向ける。
なぜ匂いがする?
ガスマスクに穴がある?
いや、確認した、はず。
ガスマスクの丸いレンズの奥に煙が紛れ込んだ。瞬間。滝沢は息を呑む。
呑んだつもりだった。
言葉が止まらない。
音を消せない。目が文字列を追っていく。
まずい、と意識の断片が叫んだ。
罠だ。
これは罠だ!
音だけ取れば意味の通る文字列は、音だけを通して何かを喚ぼうとしている。
気づいたときには、もう、滝沢の手は止まらなくなっていた。
言葉を紡ぐ。
紡がされる。
もはや滝沢の意識は恐怖に侵され、躰は魔術書に支配されていた。
「そうして、YAKITORI、は、現れ、た」
照明が落ち、煙が窓を覆い隠した。
暗闇のなか微かに音がする。エルドフ氏の荒い呼吸。
ぱた、ぱた、と
ずぅぅぅぅぅぅぅぅん、と、音もなく背後に立ち現れる気配。
焼き鳥が登場する物語。
俺は、何を登場させてしまったのだろうか。
エルドフ氏の、息の
『焼き鳥が登場する物語』 λμ @ramdomyu
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