『焼き鳥が登場する物語』

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奇書

 三月。古書の蒐集しゅうしゅう家エルドフ氏から三年ぶりの連絡をうけ、滝沢たきざわ冬也とうやはアリゾナ州の屋敷を目指し車を飛ばしていた。

 青空へ真っすぐ伸びる傷んだ道路。水平に切れる赤茶けた荒野。まばらに緑があるのが不思議なくらい乾燥した大地。遠い山は岩の塊に見え、人が暮らせる環境とは思えない。

 エルドフ氏は、なぜ財をなして辺境に住む。

 理由は一つ。

 恐怖。

 集めた本を奪われるのではないかという、恐れ。

 

「……そんなに人が怖いかね?」


 呟き、滝沢はカーナビに目をやった。曲がれといわれた座標だ。

 しかし、道はない。オフロード用のピックアップで来てよかった。


「洗車代くらいはもらえますよね?」


 荒野の果てを睨み、滝沢はハンドルを切った。

 エルドフ氏は、滝沢を本の狩人ブックハンターと呼んだ最初の人間だ。

 初めての仕事は、受けるのも迷うような、ふざけた依頼だった。

 英国は宗教改革時代に書かれたという詩人の書を、中央アフリカで探してほしい。

 言葉の通じない部族に襲われ、他のハンターとやり合い、内戦に巻き込まれ、まるで地獄のような――充実した二ヶ月間だった。

 本を手に入れたときの感動と、手渡したときの達成感は、滝沢をブックハンターとして覚醒めざめさせた。


「――プッ、クク……」


 滝沢は在りし日を思い返し、小さく吹き出す。


『いい仕事にはいい報酬を』


 そう言って読み聞かせてもらった詩集の、下世話なこと。

 こんな下らない本のためにという落差もまた、滝沢を魅了した。

 人を惹きつける熱情は、無意味性に潜んでいる。

 滝沢は、岩山の陰に突如として現れた屋敷に苦笑し、門扉に車を寄せた。インターホンに笑顔を向け、金擦れの音を立てて開いた門をくぐる。

 

「……要塞かよ」


 滝沢は屋敷の防衛設備に呆れた。

 異常な数のカメラ。警報機。殺意を溢れさせる機銃群。すべては本を守るため。狂気すら滲む熱意に胸が躍る。


「要塞だとも」


 声が、スピーカーで届けられた。集音器までついているらしい。

 滝沢は参ったと両手を挙げ、ノイズ混じりの声に導かれて本の守護所に入った。見渡す限りの本。本。本。一冊を十分で読んでも人生が三つか四つは必要だ。集めることが主題で、読みたいとは思わないのだろうか。

 応接間と呼ばれる部屋がないのか、急いでいるのか、滝沢はさっそく書斎へと通された。――もっとも、どこも書斎のようではあるが。


「やぁ、久しぶりだね」


 屋敷の一番奥の、厚さ五センチの重い扉の先に、エルドフ氏はいた。金の縁取りがなされた赤い椅子に腰掛ける、骨と皮ばかりの老人だ。


「……急に呼び出したりして、すまない。もう動くのも辛いのだよ」


 嗄れた声で言い、エルドフ氏は息苦しそうに笑い、せ、煩わしそうに酸素吸入器のマスクをつけた。


「肺を悪くされたのですか?」


 滝沢が尋ねながら近づくと、そこで止まれとばかりにエルドフ氏が手を伸ばした。


「……私のことも信用できませんか。あなたの忠実な狩人ですよ?」

「ハハハ」


 エルドフ氏は苦しげに笑い、首を振った。


「違うとも。ただ、伝染るかもしれんのでな」

「というと――流行り病ですか?」

「だったら良かったのだがね」


 エルドフ氏はマスクで息を継ぎながら、部屋の入口のテーブルを指差した。ビニール袋にくるまれたガスマスクがあった。最新型の軍用モデルだ。


「念の為それをつけてくれ。老人の欲望に若者を巻き込むわけにはいかん」

「とっくの昔に巻き込まれてますけどね」


 エルドフが咳き込んだ。笑わせないでくれと手を振っていた。

 滝沢はガスマスクをつけ、鏡で確認してから振り向く。


「しかし、ガスマスクとは……毒インクの類ですか? それとも黴?」

「……いや」


 エルドフ氏は瞑目し、顎をあげた。


「呪い、かな」


 滝沢は笑うタイミングを逸した。冗談をいう口調には思えなかったのだ。

 古書の、特に希少な本には様々な逸話がつきまとう。そのほとんどは他愛もない迷信であったり、本の価値を高めるためにかれた欺瞞であったり、古い本が抱える様々な問題だ。

 たとえば、防虫剤が人に有毒であるとか、変質したインクが剥がれて危険だとか、紙や装丁の材質、環境によっては黴も有害となる。

 しかし。


「呪い、ですか」


 ブックハンターをやっていると、本当に呪いめいたものに出くわすこともある。

 書かれている内容が次々と的中する予言書の類。

 読み上げていくと周囲で奇妙なことが起きる魔術書の類。

 そして何より、所持しているだけで人ならざる何者かの気配を感じるようになる、


 悪魔を呼ぶ書物――。


 滝沢は上着のうえから、右の腰を撫でた。拳銃が差してある。銃弾が効く相手であればいいのだが。

 過去にも、滝沢は化け物と遭遇したことがあった。

 中東の荒野で手に入れた奇書だった。確認しようと開いたがために――。

 ブルッ、と身震いし、滝沢はあらためてエルドフ氏に尋ねる。


「マスクをつけさせたということは、本はすでにあるのですね?」

「そう。読んでもらいたくてね」

「読む? 珍しいですね。中身に興味がお有りですか」

「もちろんだとも。そもそも、私があつめているのは、読みたいからだよ」


 エルドフ氏は躰が重そうに手をつき、立ち上がった。杖をついて移動式の書架に近づき、横にずらす。現れた新たな書架から一冊の本を抜き、隙間に手を差し入れた。

 カチリ、と小さな音がし、書架が内側に開いた。

 奥の壁に、鉄の金庫扉があった。


「……蒐めた本はすべて読みたい。だが時間が足りない。なら寿命を伸ばそうと」

「寿命? では魔術書か錬金術の類ですか」


 不老不死の妙薬。その製法を伝える本は無数にある。そのどれも現代の目で見れば与太話の域を出ない――が。


「私に読ませていいのですか?」

「君だから頼めるのだよ、タキザワ」


 エルドフ氏は金庫を開け、鉄の箱を取り出した。


「何しろ、私には読めんのだ」

「あなたが読めない?」


 エルドフ氏は十二ヶ国語に通じ、古語の知識も言語学者に引けをとらない。


「そんなもの、私に読めるとは思えないのですが」

「いや、文字自体は読めるのだがね。君の見解を聞きたいのだ」


 鉄の箱から現れた本は、焼け焦げたような赤銅色の装丁が施されていた。


「……見てくれんか?」


 言って、エルドフ氏は倒れ込むように椅子に戻った。


「拝見します」


 滝沢は一つ息を吸い、本を見下ろした。


「……古ヘブライ語ですね」

「そうだ」

「……が、登場する、物語」

「うん」

「前半が分からない」

「音にしてみたまえ。意味など考えず、口にするんだ」

「……銃を抜いても?」

「心配せんでも、それだけで何かが起こるということではないよ。――それで安心するというなら、好きにしたまえ」


 滝沢は拳銃を抜き、手元に置いた。緊張のせいか、ガスマスクのせいか、酷く息苦しかった。


「や、き、と、り……」


 目眩がした。やきとり。焼き鳥?

 滝沢はエルドフ氏に振り向く。


「あの、これは……」

「焼き鳥。君の国の言葉だろう?」

「……それは、そうですが」

「だが古ヘブライ語だ」

「……偶然では?」

「だとしたら、ヤキトリと発音する何かだ」

「他に何があるのですか」

「読めば分かるが、私にはレシピ本に思えた」

「では、レシピ本なのでは?」


 滝沢は苦笑しながらマスクに手をかけた。途端。


「よせ!」

 

 エルドフ氏が叫ぶように言い、咳き込んだ。マスクで呼吸を整えながら続ける。


「私が、君をからかうために呼んだと思うか?」

「……何が起きるというのです」


 尋ねると、エルドフ氏は必死に酸素を吸いながら言った。


「……それが知りたくて呼んだのだ。この老体だ。私ははじめの部分を読んだだけで恐ろしくなり、本を閉じてしまった」

「……私一人で対処しろと?」

「こんな話、君の他に誰が信じる」

「ですが、金さえ出せば……」

「傭兵に古ヘブライ語を学ばせるのかね。呪術の知識も与えろと」


 エルドフ氏の縋るような目に、滝沢は理解した。


「そんな時間は、ない」

 

 エルドフ氏は頷いた。

 滝沢は深く、長く息をついた。

 病は、書物によるものではないのかもしれない。

 しかし、だとしたらなぜ、こうも警戒する。

 分からない。

 分からないが、滝沢は、エルドフ氏に出会ったことで、に心を囚われてしまっていた。


「……焼き鳥が登場する物語」


 声にして、滝沢は本を開いた。


「東の果て。氷の大地の奥深く。天へと続く山の向こう。無限の森を越え、見果てぬ海の先……」


 そこに焼き鳥があるという。一見すると、旅行記のようでもあり、また著者を投影した小説のようであり、道すがら目にした動植物、文化、飲食にまつわる記録のようでもある。叙情的かつ詳細に綴られた文書は、エルドフ氏の睨んだ通り、レシピ本や薬学書に見えなくもない。

 しかし。

 ときおり混じる、日本語として発音したときだけ意味が通る文字列は何だ。

 焼き鳥。

 醤油。

 タレ。

 炭を置いて火をおこし、串に通した鳥の肉を並べて醤油ダレを塗る。ジリジリと炙り焦がされ、滴り落ちた脂が爆ぜる。

 読みすすめるうち鼻腔に満ちる、焦がし醤油の煙の匂い――。


 匂い?


 文書を読み続けながら、滝沢は違和感に意識の断片を向ける。

 

 なぜ匂いがする?

 

 ガスマスクに穴がある?


 いや、確認した、はず。


 ガスマスクの丸いレンズの奥に煙が紛れ込んだ。瞬間。滝沢は息を呑む。

 呑んだつもりだった。

 言葉が止まらない。

 音を消せない。目が文字列を追っていく。

 まずい、と意識の断片が叫んだ。

 

 罠だ。


 これは罠だ!


 音だけ取れば意味の通る文字列は、音だけを通して何かを喚ぼうとしている。

 気づいたときには、もう、滝沢の手は止まらなくなっていた。

 言葉を紡ぐ。

 紡がされる。

 もはや滝沢の意識は恐怖に侵され、躰は魔術書に支配されていた。


「そうして、YAKITORI、は、現れ、た」


 照明が落ち、煙が窓を覆い隠した。

 暗闇のなか微かに音がする。エルドフ氏の荒い呼吸。

 ぱた、ぱた、と団扇うちわを扇ぐに似た羽音。

 

 ずぅぅぅぅぅぅぅぅん、と、音もなく背後に立ち現れる気配。


 焼き鳥が登場する物語。


 俺は、何を登場させてしまったのだろうか。


 エルドフ氏の、息のが止まった。

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『焼き鳥が登場する物語』 λμ @ramdomyu

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