天鳳 二十六年 雨水
石濱ウミ
・・・
……眼を開けたら、闇が落ちてきた。
闇夜と見紛うほど暗い穴の中で、我に却った
ようやっと右腕を動かし、掌を眼の前に
闇に溶け込む
生きている。
暗闇に眼が慣れてくると同時に、強烈な腐敗臭が鼻についた。
同時に胸から下、その身体が動かないことにひやりとするが落ち着いてみれば、感覚はある。動かないのは、身体の上にある何やら重いものの所為だと気づき安堵した。
伸し掛かる物は何だろうと、首を巡らせ目を凝らしてみれば、
その眼玉が動いたような気がした。
……蛆虫だ。
たくさんの
そう、己の身体は、屍体に埋もれていたのだった。
何とかして身を起こそうと、その場で
左の肘がぬるりとした何かを突き抜け、酷い臭いがいっそう鼻につく。肘に
立ち上がり手を、足を、確かめる。
微かな痺れはあるものの、ありがたいことに身体は動く。
この場に投げ入れられてから、それほど時は経っていないようだった。
夜が明けたのだろう。
遥か頭上に小さな光が見える。
歪な月に似たものが、
かなり深い縦穴だった。
意識の無いまま落とされた衝撃で、手足が折れていたかもしれない。
最悪の場合は、頸が。
ぞくり、と背中が粟立つ。
己の運の良さを、
……運が良い?
果たして、運とは何であろう。
肩が揺れ、くつくつと忍び笑いが漏れた。
重なる夥しい屍体。
暗闇に蠢く
鼻につく強烈な腐敗臭。
あの男の不思議な力によって無残に殺された者たちが、闇に紛れるようにして無造作に投げ捨てられる場所。
俺もまた、同じように殺されたはず。
なれどこうして生きているのは……。
奇妙なことに、死にぞこなったか。
指で探り、足を掛け、腕の力で身体を持ち上げ足場を探し爪先で踏ん張る。
何度それを、繰り返したのだろう。
強張る指先からは血が滲み、腕が攣る。
汗が眼に入るが、拭うことなど叶わない。
機はこれ一度、逃せば次はないと分かっていた。
やがて歪な月は形を変え、光が少しずつ大きくなってくる。
逸る気持ちを抑え、流れてきた甘く冷たい清浄な空気を鼻腔いっぱいに吸い込んだ。
あと、僅か。
その気の緩みが、脆くなった岩を剥がす。
均整を崩しあわや一寸、岩肌から身体が宙に浮くのをかろうじて防ぐ。
喘ぐような呼吸を整え、生唾を飲み込み乾いた口腔内を湿らせた。
心を落ち着け、再び登り始める。
指先が、とうとう
両腕で地面を掻き抱くようにして上半身は俯せ、顔を横に荒い呼吸を繰り返し、穴から抜け出た安堵に固く両眼を瞑る。
奥歯を噛み締めると、口の中に入り込んでいた砂の軋む嫌な味がした。
そのうち、何かがぱらぱらと枯れ草に当たる音が聞こえ、身体に細かな石礫のような物が当たるのを感じて眼を開けた。
……
穴の外は透明な塊の氷の雨が降っていた。
軋む身体に鞭を打つように、ようやっと起き上がる。
『……
平伏す
髪を振り乱し仁王立ちになり肩で息を弾ませ、
「……何の収穫もなく、よくもおめおめと戻って来れたものだな? 道に迷うた? それゆえ姿を確認することもできなかった? はッよく言ったものよ! かようなことが
癇癪を起こした主には抗わず、やり過ごすのが常であったが、此度ばかりは
――主と同じ
その話がまことしやかに囁かれるようになったのは主の元服が済み、表へ出るようになったことから始まる。
類稀な主の美しさは、他の者の興味と
誰かが主の姿を見て「かような美しい御仁は見たことがない」と触れ回れば、また別の者が「おなじくらい美しい者を知っている」だのと
そのような話が巡り巡って、いつの間にか、誰がいちばんの美しい御仁を知っているかとの競い合いになり、美しい者を探し出す競争へと相なる。
そこでいつからか『同じ
こんなものが二つとあってたまるか。
胸の内で毒吐く、そんな
美しさなぞ、なんの価値もない。
当初は戯言と相手にしていなかった主であったが、騒ぎが大きくなるにつれ噂の実を確かめようと動き出す。
……親王任国のとある島に、神のように美しい者がいる。
どうやら主と関わりがあるようだ。
使い人が探り当てたのは、主にとって非常に都合の悪い話であった。
隠されていたのは、確かな血縁関係にあるというその事実。
「姿を確認したら、その者を殺せ」
しかし、
あの人は、決して殺してはならない。
知ってしまった。
出会うべくして出会った。
主が陰であるなら、あの人は陽だ。
俺も、最早これまでかもしれぬ。
怒鳴り声はいつの間にか止み、静まりかえった居室に主の粗い息遣いが響く。
主の握りしめた両の拳、その片方が白く鈍い光を放ち始める。
……主の左の掌にある痣の意味を知らぬ者は居なかった。
主の気に入らないことがあれば、その掌でもって一掴みするだけで、生命はちり屑のごとく消失する。瞬きをする間に魂は黄泉に渡り肉体は砂の詰まった袋のごとく、なす術もなくその場に崩れ落ちるのだ。
些末な事由で殺された者は
やれ衣に汚れが付いた。声が気に入らない。おなじ顔ばかり見るのが不快だ。
艶めかしくも見える紅潮し歪んだ
そして、ひとを殺めるたびに、朱く薄い唇を歪めて笑いを噛み締めるその様は、ぞくっとするほど醜悪で美しい。
主の真の美しさを知る者は、側に侍る者と殺される者だけだ。
側に侍り、
裏の仕事は、表だっては出来きぬことであり、それはどれひとつをとっても汚れ仕事ばかりだった。
当主の座を狙い、争い合う異腹の兄弟を
その素養を身につけるには幼き頃より鍛錬が必要とあり、裏の仕事をする者はそう多くない。
替えがあまりない為、これまでも鳥の名の使い人に対しての主の癇癪は
されど此度ばかりは……。
噂となった
……音が消えていた。
いつの折だろう。
凍った雨が雪に変わったのだ。
さらさらと地面に細かな雪が落ちるごとに音が消えてゆく。
薄鼠色の空に重なるように暗く黒い雲が頭上を覆い、景色が少しずつ白く霞む。
これからもっと雪が積もる。
積もれば
踏み出してはみたものの、分かっていた寒さに怯む。
細かな雪が顔に当たり、鼻や頬が痺れる。耳は千切れてしまいそうなほど痛い。
けれど歩みを止めるわけにはいかなかった。立ち止まれば骨まで寒さが滲み、身体を前に進める力もすぐに消えるだろう。
数歩のところで振り返り足元を見れば、枯れ草や土泥の上にくっきりと残った這い出た穴から続く足跡を、降る雪がじわりじわりと静かに浸食していくのが見える。
みるみると白くなる視界の先に
獣のように身体全体を研ぎ澄まし、ひたすら前へ進む。絶え間なく白く吐き出される息と、雪の積もりはじめた地面を踏み締める足元の音でさえ、膜が張ったようにしか感知できず無音に押し潰されそうになる。
時折振り返り、足跡が消されてゆくのを確かめ、また進む。
足跡の消える速度が増したようだ。
霧雪が灰のように舞う雪に変わったのだ。
一羽の鳥が何処かへ飛び行くのが見えた。
あの鳥は、帰るところがあるのだろう。
腹が減っていることに気づく。
俺は生きているのだ、と自嘲気味に笑う。
帰る場所は無くともまだ、死ぬわけにはいかない。
ならば鳥でも見つけて、焼いて食おうかとまた独り、笑った。
天鳳 二十六年 雨水 石濱ウミ @ashika21
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