米寿の誕生日の、そのあとに

里場むすび

米寿の誕生日の、そのあとに


 静かな夜のことだった。


「ねえ、来月で88歳の誕生日でしょ? なにかほしいものある?」

「酒」

「…………ごめん。それはちょっと用意できない」

「なんだ。できんのかい」


 老婆は溜息をついた。

 畳敷きの部屋。その白い壁には薄茶けたしみがあちこちにあり、歴史と住まいとしての息遣いを感じさせる。


「それじゃ、なにが用意できるってんだい。まさか肩叩き券なんて言い出さないだろうね」

「ええと……」

 セーラー服の少女はおし黙る。老婆は溜息をひとつ。

「まあ、いいさ。からかって悪かった。あんたに会えりゃ、それが何よりの誕生日プレゼントだよ」

「そんな言葉で誤魔化したくない」

 悔しさからか、少女はスカートのすそをぎゅっと掴んだ。

 老婆は困ったように眉尻を下げる。

「頑固だね。まったく、誰に似たんだか」


 結局、なにも言えぬまま少女は部屋を出る。老婆のその背を見て、また溜息をついた。


 明くる日の朝。老婆は庭の掃除をしていた。

 すると挨拶が飛んでくる。見れば、犬の散歩をしている若い男性が一人。近所に住む近井という男だ。妻が妊娠したという話を、最近嬉しそうに語っていたのを老婆は思い出した。

 老婆は彼に挨拶を返し、少しばかりの世間話に興じる。

 他愛のない話の途中、近井は老婆の持つ箒に目をやって、慎重に言葉を選びつつ言った。

「……しかし、お一人でこの家を維持するのは大変でしょう。そろそろ、意地を張るのをおやめになるべきではありませんか?」

「あたしが居なくなったらこの家は誰が残すってんだ。この家がなくなったら、娘はどこに帰りゃいい。一時は酒蔵やって栄えた、この家を、誰が守ってくれる?」

「…………すみません。出過ぎた真似を」

「いいよ。町内会長だろ。あのジジイ、あたしが若い時分からあれこれ口出ししてくるんだ。迷惑かけたね」

「いえ。……でも僕は言われたから言ったのではなく、心からそうした方がいいと思ったから言ったんです。娘さんがいなくなったのだって、もう何十年も昔のことでしょう」


***


「——それで? 誕生日の贈り物は決まったのかい?」

 夜。老婆は昨晩の続きとばかりに話を切り出した。

 セーラー服の少女は首を横に振って、

「まだ」

 とだけ言った。

「そうかい」

 だが、少女の顔に昨晩のような悔しさはもう、ないようだった。

 なにかやるべきことを見付けた顔であった。


***


「最近。孫のとこに幽霊が出るって電話がかかってきたよ」

 それから数日後、老婆は酒を飲みながら言った。

「あんただろ。家を守れとかなんとか……枕元に立って言ってるそうじゃないか」

「…………あーあ。誕生日まで秘密にしておきたかったのに」

 足のないセーラー服の少女は、宙にふわふわと浮遊したまま、肩をすくめた。

「おかげで最近寝不足で仕事にも支障が出てるとさ」

「う。それは……まあ、悪いことしたと思うけど」

「まったく。55年前に消えて姉を不安がらせたと思ったら、今度は化けて出て姉の子供を不安がらせるとはね」

「いやあ、お母さんは全然怖がらなかったから、お姉ちゃんの子供たちとも普通に話せたりしないかなーと」

「こっちは棺桶に半分足突っ込んでんだ。幽霊なんざ怖くないよ。それに娘のことを忘れるような薄情な親になったつもりもないモンでね。……だが、あの子らは知らんだろ」

「……うん。もうやめにする。悪くないと思ったんだけどなあ」

「余計なお世話だってんだよ。まったく、世話焼きが多くて困るね」

 老婆は日本酒を一口飲む。そして、意志の強い瞳で行方不明になった当時の姿のまま、現れた娘の幽霊を睨む。

「前から言ってるだろ。あんたに会えるのが、なによりの誕生日プレゼントだって」

「……でも、だからってなにもしないなんて…………」

「わかった。それならあたしと将棋をさしておくれ。今日から毎日だ」

「将棋? そんなことでいいの?」

「ああ。昔はよくやったろ? 毎日のように」

「う、うん」


 老婆が部屋の隅から将棋盤を出す。幽霊の少女は物質に干渉できないので、口頭で自分の指す手を告げる。そうして、時間は流れた。

「うん。詰みだ。あたしの負けだね、これは」

「やった」

 老婆が盤面を見て言い、少女は小さく笑った。

 それから毎日、老婆に言われた通りに少女は将棋を指した。少女の腕前は圧倒的なもので、老婆が勝つことは一度としてなかった。


 そうして老婆の誕生日が来た。


「……今日もあたしの負けだね」

「ふふ、将棋は得意だもん」

「そうかい。それじゃ、ついでにせっかくの誕生日だ。あたしの望みをもう一つ聞いておくれ」

「……? いいけど、なに?」

「あんたの正体を教えておくれ。あたしの娘は、将棋なんか得意じゃなかった。平気で二歩をするようなやつだった…………いや、それは語弊があるね。と言うべきかな」

 老婆の鋭い眼光に射竦められ、少女はうつむく。

「行方不明の妹のフリして、一体なにがしたかったんだい、葵。今、あんたは闘病のために入院してるはずだろ。どこで生霊の飛ばし方なんて覚えた? ええ?」

「お、お母さん……こわい……」


 老婆に詰問され、少女は怯える。


「それに随分と若作りをしているようだね」

「いや、これは生霊出したらなんかこうなったっていうか……でも、なんで分かったの?」

「あたしも、はじめはすっかり騙されたよ。女優になっただけのことはある。だけど、孫の枕元に立ったなんて話から奇妙に思ってねえ。なんで50年も昔に消えた奴が自分の、見ず知らずの甥や姪の枕元に立てるのか。なんで場所を知ってるのか……というわけで、少し試させてもらったよ」

「……そう、だったんだ。いやあ、当分は認知症の心配がなさそうで良かった」

「誤魔化してるんじゃあないよ。なんだってこんな真似をした。そしてなんで酒を寄越さない。買えるだろ、生きてるんだから」

「そりゃあ買えるけど……」


 少女は溜息をつくと、訥々と話しはじめた。


「……1ヶ月前、妹に会った。私が闘病していることを、インスタライブで知ったみたい」

「あんたまさか、病院の場所を公開してるんじゃあないだろうね」

「突っ込むところそこじゃないと思うんだけど」

「それで、妹は? 元気にやってたかい?」

「……私と同じ病院に、入院してたよ。余命宣告も受けてるって」

「…………まあ、生きてただけ良いさ」

「色々あったみたいだけど、それについては教えてくれなかった。……で、私がお母さんが生きてるって言ったら、米寿のお祝いをしたいけど自分じゃ会いに行けないから、代わりになんとかしてほしいって。なにか、願いごとを叶えてあげてほしいって」

「それだけかい?」

「それだけ」

「なんで生霊を飛ばせる」

「……才能?だと思う。ていうか、昔から何度か飛ばしてたよ。お母さんが『夜中、葵が家の中をうろついてた』って騒いでからは誰にも見られないように注意してたけど」

「そうかい。まあ、あたしのばあさんは神社の娘だったっていうし、そういうこともあるのかもしれんね」

 老婆は酒を飲む。そして、言った。

「明日。あんたら二人に会いに行く。待ってな」

「え? いや、それはちょっとやめた方が……」

「自分の娘に会っちゃいけない理由があるのかい」

「……その、実はもう、病院にはいないの。先日亡くなって……」

「ほう? ならせめて、死に顔くらいは見たいところだねぇ」

「葬儀も、実はもう終わってて」

「なら墓参りに行こうじゃないか」

「お墓は、立ってないんだって」

「なんで知ってる」

「え?」

「墓がないと、なぜ断言できる。誰から聞いた。もしあの子が行方不明になったあと家族を持っていたってんなら、その家族に会いたいところだが」

「それは……ええと、生霊を飛ばして、お墓を探したから……日本中、いや世界中探しまわったけどそれらしいお墓は見付からなかった」

「生霊で世界一周してきたとはたまげたね。どのくらいかかった?」

「えっと、半年……かな? ——はっ」

 少女が口を滑らすと、老婆はにやりと笑った。

「そうかいそうかい。1ヶ月前に再会した妹の墓を半年も探し続けたのかい。生霊の時間の流れは普通とは違うみたいだね」

「いや……それは……」

「ま、いいさ。そうまでして隠したいなら、もうなにも聞かない。……もう、詮索はやめにするよ」

 少女は安堵したように溜息をつく。

「ごめん。お母さん」

「いいよ。何日も、娘と共に夜を過ごすのはもう久しくしてこなかったからね。あたしだって楽しかった。明日も、来とくれよ」

「…………うん」


 その翌日。老婆は庭の掃除をしている最中、突如として倒れ、意識を失った。犬の散歩をしていた男が呼んだ救急車で病院へ搬送されるも目を覚ますことはなく、老婆は搬送先の病院で息を引き取った。


 その日の朝。夜明けの少し前。

 老婆が搬送されたのとは別の病院で、一人の女性が泣いていた。

「お母さん……」

 まるで、母親が死ぬとあらかじめ分かっていたかのように、女性は涙を流していた。


(了)

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