88―ダブルエイト即ち無限の二重螺旋ダブルインフィニティ―

人生

 永遠の末広がり




 その日、老人は大宇宙(M88星雲)のパワーとしか思えない何かを感じ、長い眠りから覚醒した。


「こぉおおおおおおお――」


 老人は、ベッドから半身を起こす。


 不思議なことに、頭が冴えていた。この感覚、どれくらいぶりだろう。もう何年もこの部屋の中で寝たきりだったように思う。健常であった日々はつい昨日のことのようにも思えるし、やはり何年も前のことだったようにも感じる――


「そうか……妻が死んでから、もう――」


 老人はこれまでの全てを回想した。家族には、ずいぶんと迷惑をかけた。そのことさえ、今の今まで理解していなかった。


「お、お義父さん……?」


 気付けば、部屋の扉が開いていた。


「キヨコさん――君には、ずいぶんと世話になった。ところで唐突だが、肉が食べたい気分だ」


「に、にく……?」


「あぁ――不思議なことに、この歯も、あごも、もちろん内臓も――数十年ぶりに、肉を欲しているのだ。欲しているということはつまり、それを食せる、消化できる状態が整っているということ」


「す、すみません、お肉は買い置きが――なるべく買ったその日に食べたいものなので、お肉を買うのはお昼、そして早くてもその日の夜に食べるため……」


「なるほど、理に適っている。息子は良い嫁をもらったな――」


 その時、老人は声を聞いた。



『住宅街にクマが現れました……!』



 ――クマ肉。


「私が疎いだけかもしれないが……私の若かった頃には、こうも頻繁にクマが人里に現れることはなかったように思う。社会の、環境の変化によるものか――クマも、世知辛いな。可哀想だが――これも弱肉強食。都合がいい」


「はい?」


「ちょっと、狩ってくるよ。今なら生でいけそうだ」


「え――」


 老人は天井を見上げた。


 己の両腕、両足――四肢にエネルギーが満ちているのを感じる――体が虹色の光を発し、頭の中で絶好調な感じの音楽が鳴り響く――!


 これぞ、スーパースター! 大宇宙のエネルギー、無敵の力……!


「丁度良い機会だ。我が家をリフォームしてやってくれ」


 そう言って――じょわっ!


 老人は跳んだ。屋根を突き破り、家を飛び出していったのだ。




『住宅街に現れたクマは以前活動中で――ま、眩しい! なんでしょう、空から――危ない! 老人です! 老人がクマの前に――ああああ! クマパンチ! クマパンチを老人が受け止め――ええええ!? ワンパンです! 老人がワンパンで――わ、私は夢でも見ているのでしょうか!? か、カメラ……! 今のを撮ってたか!? すぐに見せてくれ、今のは現実なのか……!?』



 じょわっ――



『また爆発です……! 炎の勢いはいまだ収まる気配がありません! 取り残された家族がいるようですが――今! 誰か出てきました! ……ろ、老人です! 老人が現れ、女の子を――老人が炎の中に戻っていきます! ……し、信じられません! 老人が、老人にしか見えないスーパーヒーローが! 次から次へと人々を助け出していきます……!』



 じょわっ――



『い、今のはミサイルでしょうか――人質は無事なんでしょうか! い、今! 誰か建物から出てきました――人質です! 人質たちが出てきます……! 警官隊が建物に突入していきます――今! 建物から何かが飛び出しました……あれは、今一瞬見えたあれは! ろ、老人……でしょうか?』



 じょわっ――



『ビルの屋上の男性は何ごとかを叫んでおります――ここからでは聞き取れません。彼がドラッグでもやっているのか!? 今、情報が入ってきました――彼はわが国が誇る航空宇宙局SANAの研究者だった模様です! 仕事上のトラブルか? 警官が必死に彼の説得を試みて――今何か、屋上に変化がありました――!』



 若者よ、君はまだ若い。命を無駄にするのではない――老人は国も人種も異なる青年の肩に手を置き、己の想いを伝えた。


「ワタシニホンゴワカリマセーン!」


 若者は突然の出来事にひどくうろたえていたが、老人の〝声〟は届いたようだった。老人も、彼の喋るネイティブイングリッシュは聞き取れなかったが、その心の声は理解することが出来た。


『一ヶ月後、この地球に小惑星が接近する! SANAの観測によれば、あれは間違いなく地球に衝突する! しかし、SANAは……我が国は、その事実を公表しようとしない!』


 青年はそのことに悩み、苦しんでいた。


「そうか――公表すれば世界は大混乱に陥る――」


『それに、今は戦時中だ! その混乱は――隕石の直撃を免れても、世界を滅びに導きかねない!』


 だから、彼の上司である――世界を動かせる力を持つ老人たちは、沈黙を選んだ。それは、賢い選択なのかもしれない。しかし、そのためにこうして自ら命を絶とうとするほどまでに追いつめられた若者がいる――


「そうか――君は、君たちは、大変な重責を背負っていたのだな」


 老人が眠っている間に、世界情勢は大きく変化していたようだった。


(遠く離れた相手と、直接会うことなく意思の疎通が……電話が出来る時代だというのに――私が若かった頃とは、すべてが大きく異なっているというのに。人は未だ争いを止められないのか。人は変わらないのか。それとも、戦争とは――理解とは、程遠いものなのか)


 無駄に生きてきた――そんな悲哀を覚える。


(変わらなかったのではない、変えられなかったのだ――我々が。未来に重荷だけを押し付けて――明日未来はいい日になるだろうと、明日から頑張ればいいと!)


 老人は意を決する――しかし。


(人助けと戦争根絶は次元が違う。クマ肉を消化しながら腹ごなしで出来るものではない――時間がかかる)


 戦争を止め、世界が団結し、隕石に立ち向かう――共通の敵がいる時、同じ危機にさらされている時、人々は手を取り合うはずだ。


(戦争は、誰かに止められるのでは意味がない。自らの愚かさに気付き、過ちを認め、自分たちで止まるしかないのだ――そうでなければ、人はまた繰り返す――ただ、武器を手放せばいい。それだけのこと――きっと、彼らなら出来る……誰かの命令ではない、自らの意思で――)


 だが、それでももし、隕石を回避することが出来なかったら?


(こればかりは、私が、止めるしか――)


 老人は悟っていた。もうすぐ、この無敵時間は終了する。誕生日が終われば――誕生という、人生で最もエネルギッシュな出来事が起きた、生命としての最盛期――それが終われば――


(私はまた、ただの寝たきりの老人に戻るだろう。それまでには家に戻らなければ――しかし――今日知った全てを忘れ、たまに思い出してはうわ言のようにそれを繰り返すだけの――あの日々には、戻りたくない)


 恐怖があった。


(ならば、今日この日に、己の命を賭けて――せめて、未来の人々のために。それが、ここまで生き永らえてきた私の役目――)


 だが、間に合うだろうか?

 隕石の衝突は、SANAの観測では一ヶ月後――それはつまり、現状まだまだ地球からは遠く――


(私が全力でソラを目指したとして、今日が終わるまでに隕石に辿り着けるだろうか? 途中で力尽きてしまうよりはまだ、戦争根絶に動くべき――それに、大気圏は突破できるとして、果たして息が持つだろうか――)


 分からない。今の自分に成し遂げられるのか――未来の科学技術であれば、それも可能かもしれないが――そうやって、我々は問題を棚上げしてきたのだ。


(やるしかない――かつて夢に見た、宇宙旅行が出来ると思えば、最高の最期じゃないか――)


 老人はソラを仰いだ。



 ――じょーわっ――



 その後、老人の姿を見た者は、――



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