【KAC20225】本革の鞄と祖父と88歳と
朝霧 陽月
本文
それは高校生の夏休みのこと、祖父の家を訪ねた時のその出来事を自分は妙に覚えている。
部屋にいる祖父に一人で挨拶しにいったところ、ふとその部屋の壁に立て掛けてあった鞄が目に付いた。
「ねぇ、じいちゃんコレは?」
「ああ、これは本革の鞄だよ。ちょうど手入れをしようと思って出したんだ」
「本革……って本物の革ってことだよな」
「ああ、そうだ。それなら牛革……牛の革が使われている」
「へぇー」
祖父の言葉に、自分はますます鞄を興味深く見つめた。
「そんなに気になるなら、少し触ってみるか?」
「いいの?」
「ああ、ただし丁重に頼むぞ」
そんな言葉とともに鞄を渡されたため、自分はほんの少し恐る恐るという風に鞄を受け取ることになった。
受け取った鞄はずっしりとした重みだった。触った感触は冷たく、しっとりなめらかで……それだけで、祖父が丁重にと言った意味が分かるような気がした。
そして鞄の色は今まで見たことのない、味のある深い深い茶色で自分は思わず呟いた。
「綺麗な色……」
「おお、その良さが分かるか!? それだけの色は長年使い込まないと出ないものなんだ」
祖父はどこか自慢げにそう口にする。
確かに祖父の言葉通り、鞄の見た目からは長年丁寧に使い込まれてきたのだろうことが見て取れた。
「一体、何年くらい使い込んだらこの色になるの?」
「えーっと、確かそいつは88年だったかな」
「88年!?」
驚きのあまり大きな声を出してしまった私に、祖父は一切動じずに「ああ、だからそいつは88歳だな」などとのんきに言った。
「鞄ってそんなに持つものなの」
「ああ、丁寧に手入れをして使えば100年以上でも持つ」
「……そもそも、88年っておじいちゃんの年齢より上じゃない?」
「わしも父から貰い受けたものだからな」
それぞれの答えを聞いてようやく納得できた自分は「なるほど」としみじみ頷いた。
そんな私に祖父は、にやりと笑ってこう語ったのだ。
「いいか、本革は使い込むほど味が出る。年月とともにまるで持ち主と一緒に生きているかのように、風合いが変わって唯一無二の色味が生まれるんだ。例えば今から20年後、わしも今のこの鞄と同じ88歳になる……その頃になれば鞄は100歳を超えて、きっと今とは違う色味を作り出していることだろう、それを見るのがわしは楽しみで仕方ないんだ」
その時の祖父は、本当に心の底から楽しそうな顔をしていて……きっと自分は、これから先もその姿を忘れることがないのだろうと、なんとなしに思った。
あれから20年。今日はめでたいことに、その祖父も無事88歳になり米寿祝だ。
祖父の顔を見れることももちろんだが、当時祖父が自慢してくれたあの本革の鞄が、一体どんな色になっているのか……ひそかにそれも楽しみであったりする。
【KAC20225】本革の鞄と祖父と88歳と 朝霧 陽月 @asagiri-tuyu
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