八十八回目の「藍の月」と
有澤いつき
八十八回目の「藍の月」と
閑静なはずのエルフの隠れ里が、その日は何故かざわついていた。不穏な囁き声が里中に伝播していくような、足元から冷気が這い上がってくるような、そんな気味の悪い異変だった。
太陽は南を過ぎ、西に傾き始めた頃合いだった。悠久に近い時を生きる長命のエルフ族は、劇的な速度で変化を遂げるヒトの国をよしとしなかった。保守的で変化を厭う種族。薬学に長け生き字引とも呼ばれる種族。ヒトのエルフ族への認識はおおむねそんなところだが、エルフ族自体は異種族であるヒトとの交流も、変質する世界も受け入れなかったのである。
この隠れ里がエルフの国だ。彼らはここ以外の世界を知らない。時折、「変わらない」この里に嫌気がさして里を出ていくエルフもいるが、どんな末路を辿ったのかはここにいてはまったくわからない。
そんな、不変こそが至上と考えるエルフの里が困惑している。それだけで大きな異変が起きているとピエリスは悟った。たった一人のエルフに何ができるというわけでもないけれど、知の一族として知らないふりはできない。ざわめきが広がっているのも、そう考えたエルフが外に出ているからだろう。
事件は里の入り口で起こっているようだった。エルフたちの隙間を縫うように進み、ピエリスはその現場に到着する。
そこにいたのは一人の青年だった。
黒い短髪、藍の瞳。厚手のジャケットやパンツはところどころ汚れていた。泥まみれのブーツは相当酷使されたのか、ソールが大分すり減っている。
何より、耳が丸みを帯びている。この特徴を持つのは
「異端なる者め、早急に立ち去れ。我らは同族の他を受け入れぬ」
「長居するつもりはないんです。一晩だけ、宿に泊まらせてもらえませんか。それ以外は何もしないし、何も喋らない。俺はあなたたちの文化を壊しに来たわけじゃないんだ」
青年の声は思ったよりも高かった。柔和な口調で、けれどはっきりと聞き取れる。
「俺は
「それは汝の都合であろう。我らには関係のないことだ」
「ええ、それはわかっています。だからどうか、人助けということでお願いできませんか。あいにく最低限の路銀しか持っていませんが、肉体労働ならお役に立ちますので」
「何度言おうが無意味である。我らはヒトを受け入れぬ」
ピエリスは事の成り行きを見守っていたが、次第にある思いがふつふつとわいてきた。不満、そして不承である。
ピエリスは民衆の輪から一歩前に踏み出した。
「門番様。その者、私の方で一晩預かりましょう」
「ピエリス……⁉ 貴様、正気か⁉」
ざわめきがどよめきに変わり、咎めるような視線がピエリスに集まる。しかしピエリスはそれらを気に留めなかった。
「ならぬ、ヒトを里に招き入れるなど! 我らエルフの土地を踏み荒らすこと能わず!」
「しかし門番様。その者を森の中に置くことは我らにとって非常に危険かと」
「なんだと?」
「森には凶暴な獣がおります。そやつが彼を食した時、ヒトの血と肉の味を知るでしょう。ヒトの血肉は獣たちの好物です。その味を知ったとき、次に狙われるのは……我らの里ではございませんか」
「獣ならば我らで射ればよい」
「一体どれほどの獣の群れが押し寄せることでしょう? それに、事を起こす前に防ぐことこそ、我ら知の一族の誇りと言えませんか」
門番はしばらく唸っていた。人間を招き入れる「変化」と獣が押し寄せる「変化」を天秤にかけているのだろう。
「しかし、だな。長老様の御意向も伺わなくては――」
「構わぬ」
エルフの輪の後方から嗄れ声が聴こえた。民衆の波が一斉にかき分けられ、長老が現れる。容姿こそ若々しいが声に「老い」を見せ始めた長老は、他を寄せ付けぬ威厳を放っている。
「双方の意見は理解した。その者を一晩だけ、我らの里で迎え入れよう」
「ありがとうございます!」
「ただし、明朝までピエリスの家より外に出すことを認めぬ。よいな、ピエリスよ」
「はい、長老様」
ありがとう、と青年がピエリスに小さく囁いた。
***
「俺はさ、『藍の月』の晩に生まれたらしいんだ」
藍の月、とピエリスは反芻する。月は本来淡い白の輝きを返す。それが反射する光と陸から見る角度で年に二回、異なる色を映すことがある。「紅の月」と「藍の月」。月がそう見えるからそう呼ばれる。単純明快な名称だ。
「だから、藍の月が来るたびに生まれたことに感謝してる。一年の、この日に生まれたこと。それはきっと素敵なめぐりあわせだったんだって」
「……あなたは生誕した日を毎年思い返しているの?」
「ああ、そうだよ。誕生日は特別だから」
「誕生日……」
そんなもの、考えたこともない。エルフは長命、よほどの事由がない限り死を迎えるのは遥か未来の出来事だ。一年単位という短すぎるスパンのなかに特別を見出すなど、発想の埒外だった。
「人間は短命だからね。あんたたちが生きて死ぬまでの間、何人の人間が世代交代していることやら」
「数えることも忘れてしまうと思うわ」
「違いない。あんたたちが生きているのはそれだけ長い時間なんだ」
青年は水差しから注がれた水を静かにあおった。
「なあピエリス。俺はあんたに出会えてよかったと思ってるよ」
「なぜ?」
「見ず知らずの俺を助けてくれただろ。そして俺に宿を与えてくれた。他のエルフも言ってたけど、正直、突っぱねられると思ってたんだ。俺は余所の人間だし、エルフが他種族に対して警戒心が強いってのは知ってたから。……なあ、どうしてだ? どうして俺を助けてくれたんだ」
ピエリスは言葉に詰まった。胸の奥にいる形のないもやもやが原因のような気がするけれど、それをうまく言葉にする自信がない。けれど青年の藍の瞳は真剣だったから、曖昧にしてはいけないと思った。
「……論理的でないと、思ってしまったから」
「……へえ?」
青年の声に喜色が混じった。興味深そうに瞳が細められる。
「私たちエルフは変化を求めない。それは正直……私自身もそう。あなたを受け入れたことで私たちの生活が脅かされるなら、それは歓迎すべきでない。けれど、あなたはたった一晩の宿を求めただけ。ここまで険しい旅路を越えてきたことは服装からわかるし、エルフの里を襲撃するための斥候ならもっと巧い嘘をつく。あとは……」
ピエリスは逡巡したが、青年の瞳は最後まで言わないと解放してくれそうになかった。
「人間という存在を知る、貴重な機会だと思って」
「ははっ」
青年は大きく口を開けて笑った。
「いいねえ、すごくいい! 同情だけじゃないのがいいと思うぜ、俺は。エルフは保守的な知の一族だって聞いてたけど、俺が思ってた以上に知的好奇心旺盛じゃないか」
それからひとしきり笑ったのち、青年は諭すように言った。
「ピエリス、あんた絶対旅に出た方がいい。人間を知りたいならこんな小さい里で一生を終えるのは勿体ないぜ。あんたは俺の想像を絶するほどの寿命を持ってるんだ。なら、その途方もない時間をかけて人間の研究をするってのも……知的好奇心をこの上なく満たせると思えないか?」
「……里の、外に……?」
「ああ。外には善意も悪意ものさばってるが、きっと世界が変わる。それはあんたにプラスに働くと信じてるよ。そして、もし俺の生きているうちに旅立つことがあるのなら」
青年は拳をピエリスの前に突き出して笑った。里では見たことのない、豪胆な笑みだった。
「また会おうぜ。絶対だ」
***
ピエリスは夜空を見上げる。輝いているのは藍の月。宵の色と似ているから紅の月よりは見つけにくいけど、淡い光は変わらずに大地を照らしている。
今日で八十八回目。ピエリスと「彼」が出会ってから、八十八回目の誕生日だ。
「Happy birthday to you...」
教わった歌を口ずさむ。人間は誕生日に祝いの歌を歌うのだと。それも「彼」が教えてくれた。たった一晩で世界が変わった特別な魔法だ。
揺らめく炎は穏やかなオレンジ色。細くした薪を数本その中に入れる。ぱち、ぱちと弾けるような音がして、焚火は灯り続ける。
青年との出会いからしばらくして、ピエリスは里を出た。
また会おうと言ってくれた「彼」の言葉を信じたい――それだけでは足りないと悟った。「彼」に会うには里の外にでなければならない。自分の世界観をまるごと変えてくれた、外の世界への興味をピエリスに植え付けた、「彼」の存在はピエリスにとって大きなものとなっていたのだ。
ただ、「彼」には会えていない。広大な世界からたった一人の人間を探すのは至難の業だろう。そして、人間は短命だ。あの日から数えて八十八回目の誕生日を迎えた今日、彼はいったいいくつになったのだろう。
ピエリスの年齢は、結局もうわからない。はじまりがわからないのだから正確な年数なんて里の誰も把握していなかっただろう。けれど、里の外に出て、まったく違う土地、角度から夜空を見上げて、色んなヒトと交流して……やはり、エルフは物珍しいらしい。閉鎖的で保守的な種族だから仕方ないだろう。ヒトに会うと年齢はよく聞かれる。
そのとき、藍の月に思いを馳せながら、ピエリスはこう答えることにしている。
「八十八歳。誕生日は『藍の月』で、そこから八十八回目を数えたわ」
八十八回目の「藍の月」と 有澤いつき @kz_ordeal
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます