八十八歳の純情

λμ

八十八家の呪い

 教室に終業を告げるベルが鳴り、生徒たちが我先にと動き出す。

 そして、いつものように、言われる。


「っしゃー、終わったー……じゃ、爺ちゃん、お疲れーぃ」


 バン、と叩かれる背中。

 八十八やそはちとしは勢いよく振り向き、述べ何万回くり返したのか分からないツッコミを叫ぶ。


「だから爺ちゃんっつーなっての!」


 ドッ、と聞いていた生徒が笑った。八十八歳の鉄板ネタである。

 八十八の家では代々、祖父の名前を一字もらうというしきたりがあった。

 父は八十八の曾祖父『八十八十八とおや』から八の字を頂き『八十八八八ぱぱ』といい、それはもうイジられたという。

 だが同時に、父は『パパ』とイジられまくったがゆえに心が強くなったと自負していた。特に、母との馴れ初めは珠玉だ。

 実家にて『お父さん』呼びを強要されていた母は、思う存分パパと呼べるがために連呼し、連呼したがゆえに気づいたら結婚していたと未だにのろける。

 その二人の経験が、八十八に不幸を呼んだのだ。


「……さて、と」

 

 八十八は机に手をつき、周囲の気配を探った。感じた。期待を。

 答えてやらねばなるまい。

 八十八歳として、八十八家の心強き男として。

 祖父の『八十八千歳ちとせ』から『歳』の一字をもらった身として。

 

「――よっこらせ」


 呟くと同時に、数人の男女が吹きだすように笑った。そしてすぐに、


「歳じいちゃん! 腰悪くしちゃうよ! ゆっくり! ゆっくり!」


 誰かが合いの手を入れ、皆がゲラゲラと笑った。

 一歩間違えばいじめである。

 事実、最初はいじめであった。

 誰の手によるいじめかといえば、善意が生んだいじめであった。

 

「ちょっと! みんな!」


 凛と響く少女の声に、教室の空気が緊張を帯びた。

 来たのだ。

 善意が。

 紛うことなき正しさが。


「歳くんのことお爺ちゃん扱いするのやめなって言ってるじゃん!」


 真っ当すぎて頭を抱えたくなる善意――幼馴染の、十六夜いざよい三九楽さくらだ。

 八十八は天を仰ぎたくなるのをこらえ、三九楽に隠れて手をパタパタ振った。

 逃げろ逃げろ、さっさと帰れ、と。

 同級生は微かに頷き、ポンと八十八の肩を叩いた。


「お、おう。悪り。歳、またな」


 その声を皮切りに、残っていた面々は「八十八くんまたね」とか「歳くんまた明日」とか、分かりやすく恭順の意を示して出ていった。

 三九楽は彼らを見送ると、眉を吊り上げ、細い腰に両手を置いた。


「歳くん! ちゃんと言わなきゃダメだって言ってるよね!?」

「……ああ、うん。まあ、分かってるんだけど」

「じゃあ何で言わないの!?」


 なんか、嬉しくて――などとはもちろん、言えるはずもなく。

 八十八は両手でなだめながら言った。


「いや分かってんだけどさ。つい、ノリでさ」

「ノリって、嫌なんでしょ!?」


 いや、いい加減、慣れている。

 けれど反論はせず、いいから帰ろうぜと鞄を取った。

 

「ちょっと!? 聞いてるの!?」


 なおも追っかけてくる善意の塊。

 実のところ、八十八が爺ちゃんと呼ばれるようになったのは、三九楽が原因である。

 それは小学校の、お習字の時間だった。

 

『希望』


 光だの夢だの指定されたいくつかの文字から選んだ単語の横に並んだ、


『八十八歳』


 のパワーネーム。

 だが。

 小学校低学年には、それを老齢へと繋げられなかった。

 問題なく終わる。はずだった。

 担当教員が褒めようとして言葉につまったとき、三九楽が怒ったのだ。


『歳くんはお爺ちゃんじゃありません』


 ダメだった。

 あだ名が確定した絶望と、苦難の始まり。

 けれど同時に、顔を真っ赤にして怒ってくれる三九楽へのありがたみ。

 

 初恋だった。


「歳くん、ちゃんと聞いてる?」


 三九楽は、まだ怒っていた。

 それが自分のためであるという特別感が、八十八の頬をニヤけさせる。


「……なに笑ってんの!? そんなんじゃダメだって!」

「あ、やべ」

 

 八十八は顔を背けたが、


「逃げるな!」

 

 と三九楽が回り込んだ。ミニバスで鍛え女バスで昇華したフットワークには勝てない。

 八十八はニヤけを苦笑いの形に歪ませ、ぼつぼつ言う。


「いやさ、まあ、高校まで来ると、もうそんな嫌じゃないっていうかさ」

「もー……歳くんはさー……」

 

 はふ、と三九楽はため息をついた。


「怒るの苦手?」

「あー……まぁ、それもあるかな」

「それもって。他にもなんかあるの?」


 純真無垢に心配してくる眼差しに射抜かれ、八十八は喉を鳴らした。


「まぁ、ちょっと……」


 嬉しいというか、とは言えないし。

 どうしたものかと思っていたときだった。


「あ。歳じーじゃーん!」


 スコンと脳天に抜ける声が響いた。

 振り向くと、緩いダブルピースを決めてる少女がいた。


「あ。四十万谷しじまや先輩」

「よっすよっすー。何ー? 歳じー、三九楽と放課後デートぉ?」


 言って、四十万谷一千乃いちのは八十八と三九楽の首に腕を回した。


「混ぜて混ぜてー。私も歳じーとデートしたーい」


 もちろん、一千乃は適当に言っているだけだ。

 なぜならば。


「一千乃先輩! 怒りますよ!?」

「アハハハハハ! もう怒ってるじゃん! ごーめーんー! 三九楽の怒ってる顔かわいいんだもーん!」


 そう。一千乃は、後輩の三九楽をいたく気に入り、からかいたいだけなのだから。

 だがしかし。同時に。


「歳じーもごめんねー?」


 そう、もはや爺ちゃんという意味を失った『としじー』呼びをされると、


「あ、いえ。俺、全然、気にしてないんで」


 八十八もまたドギマギしてしまうのであった。


「歳くん!? 私、さっき言ったよね!?」


 ええ言われましたとも、と八十八は目を閉じる。

 気を使われる感じも好きだし、先輩に『としじー』呼びされるのも悪い気はしないし。

 八十八歳は、すっかり八十八家の呪いにハマりつつあった。

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八十八歳の純情 λμ @ramdomyu

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