舌に宿る愛

Norrköping

舌に宿る愛

 その日の朝の違和感、あーって歯医者に臨む表情で洗面台の鏡と向き合うと、ありえない光景を目の当たりにしたから、私は歯ブラシでツンツンと歪にふくらんだ舌を。

 ブラシで軽くこすられた形になったものだからそいつ、


「やめて、くすぐったいよユウちゃん」


 あははって脳天気な笑い声をあげる。

 まあそうだろう。私がおんなじ立場、顔面を極細カットになった毛先でワサワサと撫でられようものなら、やはり朗笑を禁じえないにきまっている。

 いやいや、そんなことよりもなによりも、あきらかに現実離れした事象に首をひねる。なぜ私の舌が人の形に。しかもそいつはまるで生命を宿しているかのごとく舌に寄生し、自分の意思でもって筋組織を変形させて肉体を作り出す始末。


「おはよう、ユウちゃん。ひさしぶりだね」

「って、もしかしてアイ?」


 ああ、そうだ。この愛くるしい小悪魔的なノリは、友人であり同僚でもある佐藤アイにちがいない。もはやニンゲンとは異形の奇怪奇妙な腫瘍めいたルックスに変貌してはいたけど、その反応や言動は職場やプライベートで幾度となく見られた彼女の特徴を有している。いったいなにゆえ私の舌に寄生し、自己を形成しているのか。


「おはようじゃないでしょ? そんなところでなにしてるのよ」

「なにって、ユウちゃんに会いにきたんだよ。うれしくないの?」

「うれしいとかの前にびっくりよ。こんな再会、思いもよらないでしょ」

「私もびっくりだよ。まさか本当にユウちゃんの舌に宿ることができるなんて」

「まったく、なにがどうなってるわけ?」


 私は歯でアイを攻撃しないように、口をヘンな形にしてしゃべる。


「話せば長くなるから簡潔に告白すると、ユウちゃんが好きだからだよ」

「意味がわからない。長くなってもいいからちゃんと話してよ」


 鏡に映る私の舌はいっちょ前に腕組みし、偉そうにうーんと唸っている。その表情は深く考察しているというより、ちょっと状況をたのしんでいるように見える。

 そんな現実にヤキモキしつつ、私は先週の出来事を思い浮かべた。

 土曜日のこと。小雨パラつく肌寒い日の正午。フォーマルな喪服に身を包み、慣れぬ会食の場に居心地の悪さをおぼえつつ茶をくんでいた。四十九日の法要。知らせを受けた私は首尾よくアルバイト先に希望休を宣言し、その日に備えた。故・佐藤アイが閻魔様の裁きを耐え忍び、無事に極楽浄土へと旅立てるよう冥福を祈るという、まごうことなき神聖な儀式を執り行ったのだ。

 そう、佐藤アイは死んだ。二ヶ月前、職場であるファミレスでの仕事を終えて、帰宅途中のことだった。アイの小柄で華奢な肉体は配達を急ぐ商用バンによって八十メートルも吹き飛ばされ、二十年の短い生涯に幕を下ろした。つい数時間前まで一緒に汗水たらしていたアイからは想像もできない現実。私はいまだ、アイがこの世からいなくなったという真実を心のどこかで受け入れられないでいる。それはアイというかけがえのない存在が自分のそばから消えてなくなってしまった喪失感によるものなどではけっしてなくって、ひとえにアイという唯一無二の希有な女性が持つ突拍子もない人間性、あるいはどこか常識外れで予測不能な行動力によって培われた個性がためだった。つまりアイは死をも乗り越え、またひょっこりと物陰から愛くるしい瞳でもってジーッと熱量こもった視線をぶつけてくるのではないかという、あられもない可能性によるのが本音だった。

 なのでこうして起き抜けに、まるで口内炎のように私の舌を〈巣窟〉に復活したとしても、なんらおかしなことには思えないのだった。


「やだあ、ひとを病原菌みたいに」

「病気のほうがまだマシよ。ほとんどバケモノじゃないの」


 改めて、私は鏡を凝視する。舌に根づいたアイは全長約三センチほど。上半身のみが私の舌からきのこみたいにニョッキリ生えていて、その様子はさながら人の顔がついたシメジのよう。普段は私の生活の邪魔にならぬよう筋組織と同化して、通常の舌としての役割を担うことができるらしい。


「それで、どうしてこんな状況になってるか説明してくれる?」

「そうだったね。えーっと、ユウちゃん昨日バレンタインのチョコレート食べたでしょ?」

「チョコレート? ええ、食べたわよ」


 リビングのテーブルに視線を送る。そこにはアイの云うように、昨夜食べた包みの残骸があった。バレンタインの日にアイがくれたチョコレート。マゼンダのラッピングシートに白のリボン、ハーシーズのシールまで貼ってあって凝った出来映えの。


「軽バンに瞬殺されたとき、とってもくやしかった。あー、私もこれで終わりなんだなーって思って、すっごくかなしかった。ユウちゃんに私の気持ちを伝えきれないまんま死んじゃうのが耐えられなかった。それどころか、これでもう一生ユウちゃんに会えないんだーって思ったら涙があふれてきちゃってね。だから、なんとかしてユウちゃんにもう一度会えないかなーって、せめて私のこの気持ちを伝えられないかなーって悩んでたら、思い出したんだよね」

「なにを」

「チョコレートだよ。私がバレンタインの日に精魂込めて作ったチョコ。そのチョコを作ってるとき、私はありったけのユウちゃんに対する思いを練り込んだの。それを頼りにすれば、うまく意識をこの世に残すことができるんじゃないかってひらめいたんだよね。意識をチョコに忍ばせて、ユウちゃんが食べてくれるのをひたすら待つことにしたの。うまくユウちゃんが食べて、ユウちゃんの身体に同化できるチャンスをうかがってたんだ」

「私が食べずに捨てたらどうするつもりだったのよ」

「でも食べたじゃん。ユウちゃんならきっと食べてくれるって信じてたよ。二ヶ月もかかったけど、ちゃんと」


 そうだ。アイが死んだ日は二月十四日だった。退勤時、更衣室でチョコレートをくれたその日の帰りにアイは事故にあったのだ。訃報を聞いた私はチョコレートを食べることも捨てることもできず、ずっと冷蔵庫に入れっぱなしにしていたのだった。それが自分でもよくわからぬ心境の変化で、昨日の夜に食べてみた。決心というほどの大げさなものではなかったけど、なんとなく食べてみようと思った。二ヶ月前製造だったけど、まあ大丈夫だろうと思って。


「すごい! やっぱ私の執念の賜だね」


 執念。確かに、それはまさに執念だろう。並々ならぬアイの執念によってそうはならないだろうという超常的現象が、実際になっているのだから。

 いやはやまったく、とんでもない話だ。寒気すらおぼえる。さすが明朗快活にして予測不能、行動万能少女・佐藤アイだ。こんな事態、誰が予見できるもんか。


「だけど、どうしてそれで舌に宿るわけ?」


 えっへんと腰に手をやり、アイはしたり顔をのぞかせる。


「最初は迷ったんだよね、身体のなかに入っちゃおうかって。でもほら、いきなりなんの前触れもなくなかに入っちゃうのはさー、やばいじゃん?」

「なにがやばいのよ」

「だってえ、それってもうエッチじゃん?」

「なるほど……って、なんでやねん」

「それに、なかに入るより舌がいいなって思った。だって舌は一番そのひとの人間性が出るからね」

「どんな理屈よ」

「その人間を知るにはどんなものを食べ、飲み、育ったかをさぐるのが一番だって海原雄山も云ってたし。それに言葉の表現力や発言内容など、ニンゲンの舌が有する能力はその持ち主の人間性に関係すると思うんだ」

「うーん、いまいちわからん」

「ようするに、ユウちゃんのことをもっとよく知るためにはユウちゃんの舌になるのが一番ってこと」


 ようするにと云われてもねえ。

 まあとにかく、アイがそういうならそうなのだろう。そこは考えても頭が痛くなるだけ、あまりツッコまないようにしておこう。


「さすがユウちゃん、舌わかりがいいね」

「はあ、まあいいわ。そこまで云うなら私の舌としてこき使ってやる。耐えられるかしら?」

「わあ、うれしいなー。お手柔らかにね」


 なにがうれしいんだか、満面の笑みを残してアイは舌に同化していった。

 さて。

 私とアイの共同生活がはじまった。

 わかっていたことだけど、アイがおとなしく私の舌に舌として座すにとどまるなんて、あるわけない。無邪気で多動質なアイは思ったとおり事あるごとに自身を突出させ、接客時や電話中でも自分を認識させようとする。私を困らせてたのしもうという寸法なのだろう。寝ているときなど顕著で、固くした筋組織で口蓋をカリカリひっかくしぐさをするのだから容赦がない。


「ちょっとちょっと、そこを爪でこすらないでよ」

「知ってる? 上顎って『パラダイン喉腺』って云ってね、性感帯の一種なんだって。くすぐったいでしょ?」


 これってもうエッチしちゃってるじゃん! はしゃぐアイを置き去りにし、眠りにつくのが日課となってしまった。

 しかし私もやられっぱなしというわけでもなく。というか、私自身は特に意識したことではないのだけど、アイに云わせると〈予想外〉というか、私の印象とはかけ離れた行動に辟易するらしい。

 その悩みは本日も、晩酌を嗜む私に向かって吐露された。


「ねえねえユウちゃん。今日のお昼、なに食べたかおぼえてる?」


 グラスを傾け、唇のひらいた隙間にアイが上半身をねじ込んできた。


「ポモドーロのパスタでしょ。それがどうしたの」

「にんにくマシマシにしたでしょ? あれすごいよ。私、まだ匂いとれない」


 とアイが自分の腕やわきをクンクンするしぐさをする。


「好きなのよ。しょうがないでしょ」

「おとといは焼肉にキムチ、夜はこれまたにんにくたっぷりのタッカンマリ。おまけにキビヤックとエピキュアーチーズで芋焼酎の『伊佐美』をキメたでしょ」


 おとといを思い浮かべ、思わず口角がゆるんだ。


「ほんと、おいしかったわね」

「あのね、云っちゃあ悪いけど、めっちゃくさいよ。ユウちゃん、くさいくさい」

「知ってるわよ。けど好きなんだもん、匂いのキツい食べ物。くさいはうまい。『美味しんぼ』でもそう言及してるじゃない」

「私までくさくなっちゃうじゃん。ていうか、ユウちゃんがみんなにくさいって笑われるんじゃないかって考えると涙が出るよ」


 そんな大げさな。アイは本当に泣いているのか、口中のだ液量が急に上昇してしまい、私ははしたなく唾をすすった。


「ユウちゃんって、もっとどんぐりとかひまわりの種とか食べてるイメージだったのに」

「そんなげっ歯類みたいなか弱い人間じゃあないのよ、私は」


 肩を落としたのか、アイは口のなかでまるまる。まったく、自分のなかの理想を私に押しつけないでもらいたい。


「わかった? 私はね、アイの思ってるような女じゃあないのよ。これに懲りたら、もう私の舌として生きようなんて考えないことね」


 まるで小屋のなかでおびえる子犬のようにうなだれるアイ。そんな友人の姿に、すこし心に引っかかりをおぼえる私。

 意外。アイってけっこう繊細な性格してたんだ。見た目からはちょっと想像できない、仕事中での物怖じしない態度。どこに遊びに行っても陰りを知らないあかるい笑顔。声。こうして舌として復活するあたり、こまかいことを気にするようなタイプじゃないと思っていたけど……。

 イメージを押しつけてるのは私かもね。


「まあでも、匂いのキツいものばかり食べてるわけじゃないし、たまにはさ、アイの好きなものも食べてあげないこともないわよ?」


 沈黙がつづく。私の言葉はひとりの部屋へ吸い込まれていき。たまらず、スタンドミラーにおもいっきり舌を突き出してみた。

 アイはあいかわらずヒザを抱えて眉尻をさげている……と思ったら、大きくした目で鏡のなかの私を見据え、ポンッとシメジの手を打つ。


「そっかあ、そうだよね、それがユウちゃんなんだよね。くさい食べ物が大好きで、くさいのがほんとのユウちゃんなんだ」

「なにその語弊ある云い方」

「舌になればユウちゃんを知れるって自分で云っといて、なにショック受けてたんだろうね私は」

「ショックを受けてたことは受けてたのね」

「それももう終わり。これからはくさいユウちゃんを容認して、私もくさくなる。これがほんとのクサい仲だよ!」


 なんのこっちゃ。

 まあアイがそれでいいならいいんだけど、結局ふり回されるのは私なわけだ。

 これはますます面倒くさくなりそうだわ。

 ……なんてね。

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舌に宿る愛 Norrköping @rokaisogai

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