【5】八十八年の皮算用

池田春哉

八十八年の皮算用

「試験お疲れ様」

「ありがとう」

 僕は透明なグラスに満ちたブラッドオレンジジュースを持ち上げて、彼女の持つカフェラテのマグカップに軽く当てた。

「にしても、ほんと洒落てんねえ。さすが東京って感じ」

「ほんと落ち着かないよな」

「どこなら落ち着くの」

「家から徒歩八分圏内」

「学校大丈夫?」

 楠谷くすたにさんは笑いながら湯気のやわらかく立ち上るマグカップを口元に近づける。そのまま一口啜って、ほう、と白い息を漏らした。冬の幸せ、というタイトルが頭に浮かぶ。

 僕もホットドリンクを注文すればよかったかな、と一瞬思ったが、注文時の僕にそれを求めるのはあまりに酷というものだ。

 僕は今までカフェに入ったことがない。ましてやこんなに洗練された空間は初めてだった。扉を開けるだけでも、緊張でどきどきと鼓動が速まったくらいだ。

 そんな僕がメニューを見たときの衝撃が伝わるだろうか。カフェラテだかカフェオレだかカフェモカだか、なにがなんだかさっぱりわからない。

 結果、かろうじて推測できるメニューを注文したのだが、まさかこんなに毒々しい赤色の飲み物が出てくるとは思わなかった。

 おそるおそる口を近づける。……おいしい、注文してよかった。

「春から、ここに住むかもしれないんだよね」

 マグカップで両手を温めながら楠谷さんは辺りを見回す。かもしれない、というのは彼女の入学がまだ決まっていないからだろう。


 ――昨日、彼女は『壱西いっせい高校』の入学試験を終えた。


 試験終了時刻が遅かったこともあり、その日はそのままホテルへと戻り、今日朝イチで地元へと帰る予定だった。しかし。

『ねえ佐伯さえきくん、最後にちょっと遊んで帰ろうよ』

 昨夜まで疲れ果てていた彼女はどうやら一晩のうちに全快したらしく、きらきらした目でそんな提案をしてきた。東京の案内役として彼女のお供をしている身としては放って帰るわけにもいかない。それに僕も、都会というものにちょっとだけ興味があった。

 そんなわけで、僕たちはいかにも東京っぽいお洒落なカフェに入り『入試打ち上げ』をしているわけである。

「でもほんと東京まで一緒に来てくれてありがとう。一人だったら会場に辿り着けなかったよ」

「いえいえ。……で、肝心の試験はどうだった? 僕と同級生になれそうかい」

「うわあ推薦組は余裕だねえ」

 まあ大丈夫でしょ、と彼女は僕と目を合わせずに言う。呟くようなそれは、自分に向けて言い聞かせているようにも思えた。

「珍しく弱気だね」

「手応えがないわけじゃないけど、勝負は何が起こるかわからないからね」

 楠谷さんはまた一口カフェラテを啜った。

 入試は勝負。その通りだ。何点以上取れたらいいわけじゃない。

 たとえ彼女が全教科99点取れたとしても、他の受験生たちが100点取っていたら落とされる。そんな世界。

 けれどどこか不安そうな彼女とは違い、僕は何の心配もしていなかった。

「まあ大丈夫だろ」

「なんで本人より自信満々に言い切れるの」

「だって楠谷さん東京似合うし」

「意味わかんないんだけど」

 それから少しの間があって、ふっ、と力が抜けたように彼女は笑った。その吐息で白い湯気が千切れる。

「……でもありがとう。なんかいける気がしてきた」

 微笑む彼女を僕は見る。さっきの台詞は嘘ではなかった。

 いつもの制服姿ではなく、大人っぽいシンプルな私服姿でマグカップを持ち上げる楠谷さんは違和感なく東京の景色に溶け込んでいる。それは少し、憧れてしまうくらいに。

 僕がその光景に目を奪われていると、不意に彼女は「よしっ」と元気よく言った。


「じゃあ皮算用しよっか」

「そんな不吉な」


 皮算用って、結局叶わないやつじゃなかったっけ?

 しかし僕の忠告は彼女の耳には届かなかったようで「もし私たちが東京に来たとして」と鼻歌すら聞こえそうなほど楽しげに楠谷さんは皮算用を始めた。

「ねえ佐伯くん、日本人の平均寿命って知ってる?」

「え、知らない」

「調べてみよ」

 彼女は鞄からスマートフォンを取り出して検索を始めた。そのスマホケースには『最強成就』という文字が縫い付けられた小さなお守りがぶら下がっている。

「女性の平均寿命は八七・七四歳だって。ほとんど八十八歳だね」

「男はもう少し短いだろうけど」

「そこは根性見せてよ」

 楠谷さんはそう笑いながらマグカップを持ち上げる。もうそこに湯気は見えない。

「今の私たちは十五歳。私たちは春から東京に住むことになる、とします」

 もしもの話を彼女は続ける。ふと見ればグラスの氷が溶けて、ブラッドオレンジの赤みが薄くなっていた。

「それから高校を卒業して、大学に進んで、会社に就職して、順調に人生を重ねます」

「順調に人生が重なるなんてあり得るのかな」

「度重なる苦難も含めて、順調な人生なんじゃない?」

 まあ皮算用だし、と彼女は笑った。

 なるほど、と僕も苦笑する。

「もしそうなったとしたら、七十三年も東京にいることになるよね」

 指折り数えながら彼女は微笑む。まるで夢でも見ているかのように。

「そしたら八十八歳になった私たちは、東京ここが家だとか言っちゃうんだよ」

 からりと鈴の鳴るような音が聞こえて目を遣ると、カフェの扉が開いてベージュのロングコートを着た大人の女性が入ってきた。そしてその後ろにはスーツを着た男性が続く。

 彼らはこのカフェの常連客なのか、親し気に店員と会話をしながら注文している。

 いつか僕たちも、ああなれるのだろうか。緊張せずにカフェの扉を開けて、書いてあるメニューは全部わかって、雑談交じりに注文するような大人になるのだろうか。なってしまうのだろうか。

「楽しい気もするし、少し寂しい気もするね。今の町を忘れるみたいで」

「まあでも度重なる別れも含めて、順調な人生なんじゃないか?」

「そうかもねえ」

 呟いて、彼女はマグカップを大きく傾けた。そして底に薄く泡だけ残ったカップをテーブルに置く。こん、と軽い音がした。


「――でも私、この一年は忘れたくないよ」


 手元の赤色が波立つ。彼女の穏やかな声は、しかし力強く響いた。

「ずっと忘れたくない。高校を卒業しても、大学に進んでも、会社に就職しても、八十八歳になっても。それを忘れるくらいなら、私の人生は皮算用でいい」

 彼女はそんな言葉で、順調な人生に抵抗の意を示す。

 たった一年。高校三年生の一年間。

 僕と彼女が過ごした、八十八分の一のために。

「そのくらい大切な時間で、――大切な出会いだ」

 そして、楠谷さんは僕の名前を呼ぶ。

 何度呼ばれたかわからないその声を。

 僕は、一生忘れることはないだろう。


「私、佐伯くんのことが好きなの」



(了)

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