まだボケとらんわ【KAC20225・88歳】

カイ艦長

まだボケとらんわ

「なにを言うか! 俺はまだボケとらんわ!」


 うちのおじいちゃんが声を張り上げている。


 確かにこの声だけを聞いていたら、還暦と言われても疑う人は少ないだろう。

 しかし歩行器にしがみつき、ゆっくりと歩みを進めていくさまを見ては、寄る年波には勝てないのは明らかだ。

 八十歳までは元気に外で遊び歩いていたものの、八十五歳で病に倒れてからは立っていることすらままならなくなっていた。

 それでも本人は毎日外出したくて仕方がなく、入院中から歩行器を購入して院内を歩き回っていたのだ。看護師たちは安静にしてほしかったのに、当の本人が動きたがるのである。

 そんな状態が半年続き、院内を歩き回るおじいちゃんは医師から退院を告げられた。

 帰宅してからも、まだまだ歩行器に頼りながら外出を繰り返すようになった。

 元気がいいんだか悪いんだか。


 退院してからのおじいちゃんは、とにかく要求が多くなった。

 私の買い物に付き合っては、あれが欲しいこれをくれと、さまざまなものをねだるのだ。それはまるで大きな子どもそのものである。


 そんなおじいちゃんは、それまでとにかくお酒が好きだった。しかし心不全で倒れてからはいっさいのアルコールを断っている。

 その反動からか、甘いものに目がなくなったのだ。


 最初はなぜかカステラだった。とくにあのカラメルの茶色い部分が大のお気に入りとなり、おじいちゃんはそこばかり食べては、残りの黄色い部分を私に寄越してきた。

 次は大福だった。多くの種類を大量に買わせては、ひとつずつ食べて残りは私に寄越してくる。

 このままでは私が糖尿病になって入院してしまいそうだ。

 それではおじいちゃんの面倒を誰が見るのだろうか。


 おじいちゃんにそう告げると、渋々ながら甘いものも控えめになってくれた。カステラは黄色い部分まで食べるようになったし、大福も二個入りのパックをひとりで食べ切ってくれた。


 異変は八十七歳になってから起こった。

 突然怒りっぽくなったのだ。


「なにを言うか! 俺はまだボケとらんわ!」


 これがおじいちゃんの口癖になっていく。

 朝食をとった一時間後に「朝飯はまだか!」と怒鳴り、いつもどおり買い物に付き添ってきたら、さっき買い物カゴに入れたばかりのカステラが欲しいと駄々をこねる。


 さっき食べましたよ。さっき買いましたよ。


 そう言っても「俺はまだボケとらんわ! 早く用意しろ!」の一点張りである。

 そこで妥協して朝食を作り直すと、「またこんなもんを俺に食わせるのか!」と一喝される。

 こんな理不尽が延々と続くものだと思っていた。

 私はいつかは解放されるだろうからと、憤りを抑えながら心を込めて介助していたのだ。



 そんなある日、おじいちゃんは散歩に行くために、歩行器につかまって外出しようとガラガラ玄関まで歩いていく。

 私も付いていきますから。

 そう答えたのが聞こえたのか聞こえていなかったのか、おじいちゃんはひとりで外へ出ていってしまった。

 その矢先に自動車の大きなクラクションとブレーキ音が鳴り響く。

 もしかして!

 慌てて玄関を飛び出すと、そこでおじいちゃんが倒れていた。

 愛用の歩行器はタクシーに弾き飛ばされて見る影もない。

 おじいちゃんはタクシーに轢かれてはいなかったものの、仰向けになって横たわっていた。

 その日から、おじいちゃんは再び入院することになったのだ。


 そして今日、八十八歳の誕生日を迎える。


 あれほど「俺はまだボケとらんわ!」と繰り返していた威勢はどこへ行ったのか。

 今はおとなしくベッドに横たわり、点滴を受けている。

 あの事故以来、おじいちゃんは目を覚ましていなかった。


 私は眠るおじいちゃんの手を握って語って聞かせるように耳元で囁いた。

「おじいちゃん、お誕生日おめでとう。とうとう八十八歳になったね」

 目が覚める兆候などないものの、そのまま語り続ける。

「おばあちゃんが死んでからもう十年になるんだね。おじいちゃんはまだ、おばあちゃんのところへ行くには早すぎるわ。もう少しこちらの世界を楽しもうよ」


 私の頬から涙が落ちた。


 こらえようと思っていたのに、ついあふれ出てしまったのだ。

 あふれ出る涙が流れるに任せて、ただ声を押し殺す。

「おじいちゃん。もう一度でいいから、またふたりでスーパーに行ってカステラを買って食べたかったな。おじいちゃんの好きな茶色いところだけ食べるのでもかまわないから」

 脳波計が若干揺らいだ音がする。


 もしかして……。


 おじいちゃん、今の言葉を聞いていたんじゃ。

 それなら起きるように言えば起きてくれるかも。


「おじいちゃん。もうじき夕ご飯の時間だよ。なにが食べたいの?」

 かなり微弱だが、反応があるようだ。

 インターホンを鳴らして看護師さんに来てもらっている間も、問いかけていく。


「そういえばおじいちゃん、八十八歳になったら米どころの新潟に行きたいって言ってたよね。あれってどこだったっけ? 詳しい地名を思い出せないんだけど……」

 看護師さんが到着して、機器をチェックすると覚醒のチャンスかもしれないと告げられた。直ちに担当医へ連絡が発せられる。


 おじいちゃんの顔を見ているが変化はなかった。

「まあ、おじいちゃんに聞いてもわからないよね。だって、あの日も私の言葉を聞いていなかったみたいだし。もうボケちゃったんだもんね」


 するとおじいちゃんの両目がカッと見開かれた。


「なにを言うか。俺はまだボケとらんわ」



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