エピローグ 彼女の結末

 軽快に靴音を響かせ彼女は歩く。

 空は青く高い。凍えるような冬の早朝だ。

 身を切るような冷たい空気に、彼女の頬とやる気が引き締められる。

 普段なら、あれこれと一日の業務を勘定する通勤路だ。憂鬱になって、とんぼ返りをしたくなりながら渋々会社の門をくぐり、そこでようやく諦めて仕事へと気持ちを切り替えるいつもの朝が、今日はやけに爽快だ。

 一日休んだせいだろうかと彼女は考える。

 一昨日、体調不良を理由に、忙しい月締めであるにも関わらず定時で退社した彼女は、翌朝には全快した。

 だが、たちの悪い季節の風邪かもしれない。

 念のため病院を受診したが、問題ないとのお墨付きを貰い、ならばと、午後からの出勤を会社へ連絡すると、ずっと休んでいた他の同僚達が揃って戻ったと言うではないか。

 仕事の手は足りているから、今日は養生した方が良いと言われ、遠慮なく彼女は従った。

 一日空けて、体調は万全、気分も上々、意気揚々と出勤である。

 休み開けの後ろめたさも何のその、職場に入ると、笑顔で挨拶をしながら席へ着く。

 既に出勤していた同僚達に一日抜けた詫びを入れると、手を振りながら、逆に長く空けたことを謝罪された。軽く言葉を交わしつつパソコンを立ち上げていると、一昨日、彼女が退社した後の話題が小話に振られた。何でも夜半過ぎ、会社の前で人が倒れたらしい。

 その人物、男性は、ずっとこの会社を見張るように立ち尽くしていたので、不審に思った社員が警察へ通報したそうだ。窓から様子を窺っていると、男性は、警官と話している最中に、急にふらついた。

 すぐに救急車が呼ばれて搬送されたが、警官の話によると、病院に入院中の患者だったらしい。

 外出許可をもらい、買い物に出かけたはいいが、途中で具合を悪くして立ち往生していたとのことだ。

 何ともお騒がせな話だが、大事に至らず何よりだ。呆れ半分にそこまで聞いて、彼女は眉をひそめた。そんなに夜遅くまで残業していたのかと尋ねると、会議が長引いたのだという。

 仕事で何か問題が起きたのかと、むしろそちらを気にすると、話を振った相手も、具体的な内容は分からないと言う。取り急ぎ対策が必要な問題が発生したわけでもないのに、上役が揃って居残り、議題も上げられないまま顔を突き合わせていたらしい。

 巻き添えで居残りを食らったとぼやく相手に、何だそれは、と彼女が顔をしかめていると、突然不機嫌な声が上がった。

 無駄話に花を咲かせているのを咎められたのかとビクリとしたが、就業時間前だ。

 振り向くと、声の主が怒りを向けているのは机だった。

 ――ちょっと、コレは何っ!

 憤然と声を上げたは彼女の主任だ。長い養生期間を経て、ようやく今日、業務に戻った主任は、眦をつり上げ戦慄いている。

 何事かと立ち上がり、近づいた彼女は、机の上を見て目を剥いた。

 机上中央、堂々とファッション誌が開かれていたその横に、ゴチャゴチャと散らばるカラフルな小瓶はマニキュアだ。アイメイクがご丁寧に三種類揃って転がっており、口紅の隣の丸ケースは、練り香だろうか。伏せられた背面にモザイク模様が刻まれた手鏡を含めて、全て有名ブランドの化粧品だ。

 物品にふさわしく、机の周辺には、百貨店の化粧品売り場の臭いが漂っている。

 他にもデスクスタンドには、別銘柄のファッション誌が書類ファイルと一緒に行儀良く並び、モニタ下の空きスペースには、個包装されたお菓子が無造作に突っ込まれ、仕事机にあるまじきレイアウトだった。

 口の端を引きつらせドン引きする彼女は、ふと、フラットケースの一番上に置かれた書類の提出期限が切れていることに気付いてしまった。

 まさかと思ってめくってみると、下にも手つかずのまま放置された書類が重なっている。パラパラめくって、わあ……、と眩暈がする思いをしていると、周囲に人が集まってきた。

 果敢にも引き出しを開けたのは彼女の同僚だったが、中身を見た途端、ギョッと顔を引きつらせると、そっと引き出しを戻し、すーっと机から後ずさった。中はカオスだと告げるその顔に、表情はなかった。

 一体誰の席だと騒然となったが、誰もが首を捻り、分からないと答える。

 ――なら、全て処分します。

 主任は、怒りを通り越した無表情で宣言した。

 期限切れの書類は、内容を確認すれば、それほど重要な案件ではない。見つけた手前、処理を請け負った彼女だったが、午前の早い時間に片付ける事が出来た。

 机の整理も、引き出しの物品を取り出してみれば、何のことはない、ゴミ捨てだけで済んだらしい。引き受けた主任はテキパキと分別していた。

 使用済みのハンドタオルが出てきたときには、さすがにゴム手袋をはめていたが、ガラス製品以外の全てゴミを袋に突っ込んで、ゴミ捨て場へと運んでいった。

 片付け自体はあっという間に済んだ。

 ……問題は主任の機嫌が直らない。

 長期にわたって休養している間に、一体何があったのだと相当頭にきている様子で、声を掛けるのにも気を遣って一苦労だ。

 だから昼休みを挟んで態度が一変したのには驚いた。

 打って変わって機嫌良く笑うのを何事かと問うと、主任はニコニコ笑いながら、上役が皆の快気祝いに差し入れを持ってきてくれたと、部署内に触れて回った。

 甘い物好きの主任とはいえ、ここまでコロッといくからには、一体どんな凄い物が差し入れされたのか。

 トイレに行く振りをしながら、同僚と一緒に給湯室の冷蔵庫を開け、揃って目を丸くした。

 有名菓子店の焼き菓子か何かだろうと当たりは付けていたが、蓋を開けた白い紙ケースの中に美しく並ぶのはチョコレートの生ケーキだった。

 全体を艶のあるチョコレートで隙なくコーティングされた物や、クリームとチョコレートプレートで飾られた物、蜜漬けの果実が添えられた物など、種類は様々、一目で高級品と分かるそれらに、思わず感嘆のため息が漏れる。使い捨ての紙皿やプラフォークまでもが、ご丁寧に用意されていた。

 上役が何を思ってこんな高級品を差し入れてきたのかを同僚と話し込み、恐らく部署内で流行った風邪を、最初に持ち込んだのではないかと推測した。その上役も、昨年末から体調不良で長期休暇を取っていたのだ。

 事実かどうかはともかく、上役は気にしたのだろう。詫びを入れるつもりで差し入れを持ってきたのだ。

 病気など、どこで貰うかわからない、どうしようもないものだ。気を使う必要はないのにと、逆に申し訳ない気持ちになるが、こうして心を配ってくれるのは、部下として素直に嬉しい。

 お茶かコーヒーか、飲み物は何にしようかと楽しく会話をしながら、彼女は職場へと引き返す。


 ――給湯室の端に、ゴミの分別から外されたであろう、中身を処分されたマニキュアの小瓶がまとめて置かれていたが、彼女がそれに気を取られることは、最後までなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水底のネオンサイン アオシノ @potekiti

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ