エピローグ 彼の結末
それからの話をしよう。
事態は急展開した。それも良い方へ。
彼女を連れ出した例のライブハウスが焼失した。
原因は失火。内輪のパーティーにて持ち込んだアルコール類に、どういった具合か引火して、そこから収拾が付かなくなるほど炎上したらしい。
防火設備が不完全だったのか、火はあっという間にライブハウスを舐め付くし、高価な楽器類諸共、黒く燃え尽きた。
怒り心頭に発したのはライブハウスのオーナーで、パーティー参加者全員を訴えた。
それがあの女の取り巻き連中だったのは、言わずもがなである。
オーナーもまた連中の仲間だったらしいが、度を超した振る舞いにいい加減うんざりして、縁切りを考えていた矢先の出来事だったらしい。
怒りにまかせて、連中のこれまでの所業を洗いざらいぶちまけた。その暴露が、巡り巡って己の身を滅ぼすことになるとは露とも考えなかったというのだから、お粗末な話だ。
元より曰く付きのライブハウスだったらしい。何が行われていたかは容易く想像出来る。故に詳細は伏せる。いちいちあげつらったところで、胸が悪くなるだけだ。
失火罪での逮捕だが、再逮捕の罪状は一つや二つではないだろう。そう教えてくれたのは、彼女の両親だった。
そう、連中がまとめてお縄となった同時期、長く昏睡状態にあった彼女とその弁護士が目を覚ましたのだ。
衰弱はしているものの、意識ははっきりしており、証言や証拠はこれから大量に出るだろう。
自分の無事を彼に伝えてくれと娘に頼まれ訪れた二人は、最初の見舞いの時とは打って変わって明るい表情で彼に何度も礼を言った。
疲労の後は残っているが、顔つきはすっきりとしている。今後に備えると覇気を漲らせていたので、彼も胸を撫で下ろした。
特に弁護士の方は、彼同様、背後から殴られ昏倒したらしい。相当お冠で、厳しく追求するつもりだと意気込んでいるとのことだ。
ネットでもこの話題は随分取り沙汰された。
彼女の事件は、曲の盗用に始まり、チャンネル凍結からライブハウス失火までを一連の流れとして捉えられ、正義に燃える人々の怒りを買った。
どこでどう調べたものか、あの連中の過去が、根掘り葉掘り引っこ抜かれてまとめられ、非難の集中砲火を浴びていた。
動画サイトのチャンネルがどうなっているのかを確かめようと、一度開いてみた彼は、解放されたままのコメント欄、その荒れっぷりに恐怖を覚えて、そっと閉じるほどだった。
ネットの恐ろしいところは、一度火が付くと当事者の預かり知らぬところにまで燃え広がる点だ。
収まるまでは触れない方が賢明だと、見ない振りをしておいた。
動画サイトの彼女のチャンネルは、結局取り戻すことは出来なかった。別のチャンネルを立ち上げ、保存していた動画を再度投稿して、体裁は元通り整えた。
彼女はしかし、暫く更新は見送ると決めた。
自分の短絡的な行動が事態を悪化させたのは間違いない。
文面にて事の次第をつまびらかにすると、当面は活動を自粛すると正式に告知した。
彼女のファンは残念がったが、復帰は約束したので、それまで待つと、好意的に受け止められた。
彼女の回りが整いつつあるのを、遠巻きに、少々寂しく眺めていた彼にも味方が現れた。
彼が寒空の下から帰還した翌日、見舞客が現れた。
誰だろうと首を捻りながら迎えた相手に、彼はさらに困惑した。
畳んだコートを手にかけ、折り目正しく頭を下げるワンピース姿の女性が誰なのか、最初はまるで分からなかった。
軽く会釈を返しながら訝しく顔を見て、ようやく義姉だと気付いた。仕事で手が離せない兄に代わって見舞いに来た彼女の隣には、本当に見知らぬ初老の男性が立っていた。
控えめながら貫禄を漂わせるスーツ姿の男性は、兄が雇った弁護士という。
ネットで彼の状況を知った兄は、急ぎ両親に問い合わせ、その返答に静かに激怒したらしい。弟の助けに乗り出したのだった。
正直なところ、戸惑った。
年が離れているせいもあるが、兄とはそれほど親しくない。仲は悪くはないが、良くもないといった、互いに無関心な間柄だ。結婚を機に兄が家を出てからは疎遠で、ここ数年、顔も合わせていない。
何故と疑問に思ったが、単純に、彼と兄では、お互いへの見方が違っただけらしい。
――親元に残していくのは不安だった。
数日後、休みを利用して見舞いに来た兄は、淡々と告げた。要約すると、陰ながらずっと弟のことを心配していたらしい。
随分奇妙な感じがして、狼狽え、曖昧に頷くしか出来なかった。
兄の雇った弁護士が、訴訟は全て請け負うと明言してくれたので、その言葉を信じて一任することにした。
警察が事情を聞きにやってきた。
今度は私服の二人組だ。ドラマや映画以外で初めて目にする私服警官、刑事という存在に気後れしつつも、受け答えは淀みなくおこなえた。
前回訪れた時は、彼の調子が万全でないと判断して、必要最低限の質問のみにとどめたらしい。医者にも口酸っぱく釘を刺されていたらしく、長居は出来なかったそうだ。
今回は、ライブハウスでの出来事を事細かに聞かれた。
時間は経っているが、記憶は鮮明だ。
室内にて、テーブルの下に潜んでいた人物の特徴を、殊の外求められた。
話し終えると刑事たちは、少々困った顔つきをしていた。
その人物が彼を殴ったとみて間違いないだろうが、目撃者の証言が一致しないのだという。
誰もいなかった、見ていない、いきなり転倒したと証言する派と、大きな頭をした泥だらけの露出狂が暴れていた、あれは何だと訴える派の二つに分かれていると言う。
ただの見間違いにしては奇妙な話だと、刑事達もかなり弱り切った様子だったが、彼の後頭部には殴打の痕跡がはっきり残っている。
医者も裏付けしているので、露出狂の線で話は進む見込みらしいが、恐らく実行犯は検挙出来ないだろうと、彼は密かに考えた。
アレが人間、強いて言えば、既存の生き物とは別次元の存在だと、間近に接して直感したからだ。
何にせよ、あの連中がまとめて制裁されたのは結構なことだ。
連中の被害者は数多くいると刑事達は話した。被害届は警察が肩代わりすることになる、実刑は免れないと締めくくり、帰っていった。
会社の人事担当と上司が見舞いに来た。
懲戒解雇を覚悟していた彼は、半ば開き直る気持ちで迎えたが、知らない間に状況は変転したらしい、上役達は、ひどく気まずそうに彼を労った。
呆気にとられていると、以前は、事情も鑑みず厳しいことを言ってしまったと謝罪まで受けてしまった。
会社で何が起きたのか知るよしもなかったが、職を失わずに済んだのは素直にありがたい。
見舞いとしてまた菓子折を手渡すと、復帰前には連絡を入れるよう言い置いて帰った。
上役を見送り、そう言えば、最初に貰った菓子折もまだ手つかずだったと思い出し、ベッド横のチェストから取り出した。同じ包装紙の中身はそれぞれ焼き菓子とゼリーだった。賞味期限は過ぎていない。退院まで間食として頂くことにした。
時々義姉が、日用品を持って見舞いに来る。
面倒をかけて申し訳ない気持ちと、何やら気恥ずかしさで、いちいち狼狽えてしまったが、義姉は控えめに笑うばかりだった。身内の世話を焼くのが楽しいらしい。
兄が家を出た原因は、両親が義姉との結婚に反対したせいだった。
兄は両親が持ち込んだ縁談を突っぱね義姉を選んだ。見合いの相手の写真を遠目に見た彼は、今になって、兄の選択が正しかったと思い知る。
すまし顔で晴れ着をまとう見合い相手の顔は、あの女に似ていた。
どこからもってきた縁談かは知らないが、両親との折り合いだけは良さそうだったと、笑う義姉の横顔を眺めながら考えるのだった。
大学時代のサークル仲間から連絡が来た。
ネットであれだけ拡散された彼の情報だ。すぐに気付いたそうだが、いきなり連絡を入れても迷惑だ、ただでさえ忙しい年末年始、どのタイミングで連絡を入れたものかと、考えあぐねていたらしい。仲間内で連絡を取り合い、年が明け、暫く経ってからにしようかということでまとまったと話してくれた。
兄のこともそうだったが、こちらにも驚いた。
サークル仲間とは、卒業してから一度も連絡を取っていない。学生時代の付き合いを社会人になっってまで持ち越す気はなかったのだ。
薄情な話かもしれないが、皆、それぞれ自分の進路へと進んだ。連絡を入れるにしても、口実にすべき共通点がない。
こういった思考は俗に言う、コミュ障というヤツだろうかと彼は考えるが、連絡を貰えれば話は弾む。気持ちが暖められていく。
身内以外との会話が、やけに気楽に感じた。
見舞いの言葉もそこそこに、退院後に快気祝いと称して飲み会を企画したいと持ちかけられた。野次馬的な思惑が感ぜられたが、何があったのか誰かに話したい気分だ。
彼は快諾した。
体調はすっかり良くなった。
医者は、彼の回復に目を見張り、入院当初の衰弱と比較しながら、真実何があったのかを図りかねているようだった。
病院での養生が効いたのだと、彼が愛想良く笑うと、医者は、下らないおべっかはいらんとばかりに、ギロリと睨んできた。
何となくこの病院とは相性が悪いかもしれないと、彼は気まずく目を泳がせた。
何もかもが、すっきりと片付いていく。
ただ一つ、あの女を除いては。
あの夜を境に、女の存在が消えた。
消息を絶った、失踪したといった類いの話ではない。存在そのものが本当に消えたのだ。
逮捕された連中の、恐らく中心人物であったはずの女の話題がまるで出ない。
動画サイトに未だ残る連中のチャンネルには、あの女の姿は確かに残っている。舞台中央にて熱唱する女について、しかし誰一人として触れない。動画のコメント欄の、目を背けたくなるような単語が羅列するその中にも、女にまつわる書き込みはない。
無視では済まされない徹底ぶりだ。
誰からも認識されず、そこには誰もいないことにされている。いるのに、いない。
背が冷たく粟立った。
彼もまた、女の名前を覚えていないのだ。
思い出そうとしても、ざらついた不快な感覚が脳を撫で、記憶を辿ることを拒絶する。乾いた泥が剥がれるように、女の記憶が抜け落ちる。
女のブログを見ているとその感覚はより顕著になる。文字を追う目が滑り、文章が意味を結ばない。何が書かれているのか分からなくなる。
それでもなお画面を見続けていると、自分が何をしているのか、すっと溶けるように消えてしまう。
記憶障害かと焦ったのは最初だけで、その内、気にとめなくなり、やがて彼も女について興味を失っていった。
それでも頑固に覚えていたのは、別の違和感があったからだ。
最初にあの女のブログを見た時、そのプロフィール欄の出身大学名に彼は眉をひそめていた。母校としてあげられているのは、お嬢様学校として有名な女子大学だった。見栄を張るにはもってこいの大学名だ。
その時は、単に身を飾る嘘を書き立てているのだと気にもとめなかったが、本来の出身大学、彼の母校だが、そちらとて見劣りはしないはず。情報社会のこの時代、下手な嘘などすぐにバレてしまうだろう。歌手として名を上げるつもりなら、経歴詐称は後々の火種となりうる。
その程度は頭は回るはずだ。
そこまで考えて、もっと別の、驚くべき相違点を発見した。
記憶の中の女は小柄だった。貧相と言っても過言ではない、なよなよと頼りない体つきだった。背丈も、男達の肩にギリギリ届く程度だったはずだ。
それがどうだ。映像の中で歌う女の体躯は堂々と見栄えがする。演奏する男達とを比較すると、身長が近しいことも見て取れる。
どういうことだ。もしや人違い、自分の勘違いだったのか。
だが、あの顔は、目鼻立ちの判別が出来ないほどに濁った顔に見間違いはない
あの女とて、彼女を追い詰める手段として、遠回しに大学時代の彼と親しかったと囁いたではないか。
混乱しながら彼は考え、しかし頭痛を覚えて彼はそれ以上の思考を放棄した。
もう忘れた方が良い
頭の隅に引っかかりを残すのは忍びないが、いくら考えても骨を折るだけだ。答えは出ないと、頭ではなく心がそう結論づけている。
彼は端末を閉じた。
ベッドに腰掛け、窓の外を見ると、向かいの病棟に区切られた空が見える。澄んだ青空に、薄く千切れた雲が高い。
退院は近い。
それからどれくらい経ったかは置いておく。
季節は春。場所は郊外のショッピングセンター、五階シネマフロア。彼女と映画を見る約束をした。
彼女のたっての希望で、アニメ映画を鑑賞することになったのはいいが、超が付くほどの人気作品、しかも公開された間もないとあって、ロビーは混雑の極みだった。
しかも肝心の彼女が来ない。
寝坊したと慌てた様子で連絡が入ってから、待ち合わせ時間を十五分ほど過ぎている。時間に余裕は保たせているが、キャンセルの効かない予約席だ。落ち着かない。
気を紛らわせるために、壁に飾られたポスターを見るともなく眺める。
あれから彼は家を出た。
仕事が落ち着いたら一人暮らしを始めようと、予め立てていた予定を繰り上げ、郊外のマンションに落ち着いた。
両親は不服そうだったが、一緒に暮らす理由はもうない。彼らは彼らでやっていくだろう。
彼女との同棲は、おいおいということで何となく濁してしまったが、どう見積もっても結婚の方が先に思えた。
まだはっきりとしないその時を思い、上映時間が迫っていることと相まって、やけにソワソワと気持ちが浮き足立つ。
こういう気持ちを予感と呼ぶ。
ポスターを背に、所在なく端末を弄っていると、ふと見られている気配がして顔を上げた。
視線の先に、黒い人物が歩み来るのが見えた。
休日のシネマフロアにあって、その人物の風体は異様だった。服装は黒ずくめ、髪はオレンジの蛍光色に揺れ、目元を覆い隠している。周囲の客たちは誰もその人物に注意を向けない。
客の一人が、時間を気にしながら彼の前を横切る。あわやぶつかると思いきや、その体を通り抜けた。見間違いではない。
目を見張って、ギクリと体が強張った。その人物の体越しに、向こうの景色が見えたのだ。
窓ガラスに映った人影のようだった。時折波打つように揺れ、像の一部が千切れるように崩れるが、全体の輪郭は一定に保たれている。幽霊にしては、希薄さは感じない。不気味や嫌悪と言った、負の感情もなかった。
暮れなずむ夕日、その逆光の中に、古馴染みの顔を見つけたような懐かしさがこみ上げる。
実際、周囲は昼日中の陽光のように明るい。客の話し声やアナウンスといった雑音は遠くくぐもって聞こえる。
歩み繰る彼が誰かを知っている。
ゆっくり近づく彼を目にしながら、今日、この日だったのかと、気持ちがストンと収まった。
一直線に彼の元へとやってきた人物が、目の前で立ち止まる。
ネオンサインの髪を揺らめかせ、垣間見える目が訴える音無き声を聞いた。
彼が右手を突き出した。受け取るために、彼もまた手を差し出す。指が開き、握られていた物が手の平に落ちた。
固く冷たい感触だ。特に冷たさは、直前まで外気に晒されていたかのように、湿り気までもを含んでいる。
握るとそれは、カッターナイフだった。
あの日、手渡し失ったそれが、再び彼の手に戻ってきた。
確かめるように、親指の腹で凹凸を撫で、顔を上げると、もうそこに、あの日の彼はいなかった。
どっと一気に周囲の音が戻る。眼前には薄暗いロビーの混雑が広がり、ポップコーンの香ばしく脂っこい匂いが鼻についた。
白昼夢のような時間を体験したのは彼だけらしい。
だが、手に握ったカッターナイフは本物だ。確かにここにある。
彼は息を吐いた。
この不思議をどう表現したら良いのか、まだ分からない。
だが、際立って異質という気持ちはなかった。
あるべきものが、そこへ収まるために戻ってきたようにしか感ぜない。片付け忘れた欠片が、ピタリとはまった気さえする。
暫くカッターナイフを眺めていると、小気味よく機械音がした。エレベーターの扉が開き、他の客と共に、彼女が早足で歩み出てきた。真横で待つ彼には気付いていない様子で、周囲を見回す彼女の焦った横顔を後ろから眺め、彼はカッターナイフを無造作に鞄に仕舞った。
絵は今も描いている。これは鉛筆削りとして使おう。
わざとらしく咳払いをして、彼は自分の居場所をアピールしてみせるが、失敗に終わった。彼女は気付かず、ロビー内へ進もうとする。
失笑しながら彼は彼女を追いかけた。
やけに気持ちが浮かれていた。
胸が熱く、頬が緩む。目が潤んでいる気がして、これはきっと休日のデートだからに違いない。
そう思って彼は、笑いながら彼女の名前を呼んだ。
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