失敗する物語
一 雅
失敗する物語 〜仕事編〜
「吉原。この資料、六時までに頼むわ」
「あ、はい」
課長から渡された資料の束を、気のない返事で受け取る。
「今日の六時、ですか?」
「そりゃそうだろ。よろしく」
何を当たり前のことを言っているんだ。
そんな尾ひれが付いていそうな課長の態度が気に食わなかった。
馬みたいな顔しやがって。奥さんに夜逃げされたという噂が広がっているが、この男が相手では無理もない話だ。
「……わかりました」
唇を尖らせたのはせめてもの抗議。しかし課長は俺の顔になど見向きもせず、
「古賀ちゃーん、今日は五時で上がっていいよ。ついでに一緒にご飯、どう?」
同部署の女性社員のもとへ席を立った。チッ、俺より後輩社員のクセに、チヤホヤされやがって。
壁掛けの時計を眺めると、また舌打ちが漏れた。夕方の四時半。今からこの資料作成に取り掛かかれば六時には何とか間に合う。
が、今日中に片付けなければいけない仕事が他にも残っている。残業は免れない。
「飯行く暇あるなら、お前がやれよ」
空になった課長のデスクをひと睨みして、自分のデスクへ足取り重く戻った。
溜まった資料の束と、まだ片付かないパソコン画面に映った入力途中のデータ。それらを眺めながら座り心地の悪い椅子に腰掛けて、ため息が落ちる。
この会社に入社して三年目の冬。社会人って何なのかを考えることも増えた。
仕事って? 会社に勤めることってどういうことだ? もっと他に楽な仕事は無いものか?
ふと二日前の飲みの席に、先輩から受けた言葉を思い出す。
「仕事なんてこんなもんだ。我慢して頭下げて嫌なことをしていく。それで給料貰って食えてる。結婚して子供産まれても養ってはいける。そのために俺たちは我慢して働くんだよ。それが社会人だ」
酔った先輩はいつもより饒舌で、感情的だった。
俺もそうだと深く頷いていた。仕事なんてそんなもん。会社なんてこんなもん。それが当たり前だ。愚痴が絶えないのは社会人のサガなのだ。
国は働き方改革を推奨しているのに、この会社はその波に乗れていない。時代遅れの商業会社である。早く時代に追いついてくれと切に願うばかりだ。
「田辺、今日何時まで残れる?」
「え、残業っスか?」
三つ隣のデスクから、怪訝そうな声が返ってくる。今年の春に入社した新入社員で、小太りな後輩。俺は田辺の、社会を舐めたような目つきが気に食わない。
「練習と思って資料作り手伝え」
「今夜、予定あるんスよ」
「時間ずらすかキャンセルすればいいだろ。とにかく、八時までは覚悟しておけよ」
どうせ最近できたという彼女との約束に違いない。新社会人のクセにフワフワしやがって。俺がお前くらいの頃はもっと仕事に身を投じたもんだ。
ブツブツと言う田辺の声は、俺がキーボードを叩きだしてしばらくすると、諦めたかのように聞こえなくなった。
けっきょく、仕事が全部片付いたときには夜の九時を回ろうとしていた。
約束をキャンセルしたらしい田辺を連れて、残業の労いがてら近くの居酒屋で一杯ひっかけることにした。
ビールをジョッキ一杯空けると、俺も田辺もずいぶん早く酔い始めた。
「だからな、社会人ってのは我慢なの。課長からの面倒事は、ハイって二つ返事で受けとる。そういう奴が出世したり、上手く世の中渡っていけるんだよ。だからお前も、俺の言うことには二つ返事、な?」
「俺、そんな器用にできないっスよ。課長の態度ムカつくし」
「あー、だからお前はダメなんだ。器用にできるとかできないとかじゃないの。やるしかないの」
「……先輩って、転職とか考えなかったんスか? ウチの会社、どう見てもブラックじゃないスか」
「考えたよ? でももっとよーく考えたらさ、転職したって上手くいくか分からないだろ。また一から始める労力とか考えたらさ、とりあえず今の会社で職歴積んだ方が無難なんだよ」
「そうっスかねぇ」
「お前はまだ、社会人が何なのか分かってないだけだ」
ジョッキを一気にあおって、二杯目のビールも空になった。
「すいませーん、ハイボール!」
今日は酒がよく進む。残業しただけ美味い酒が飲めている。これも我慢したやつにしか味わえない最高のご褒美なのだ。
「あの、先輩」
「んー?」
枝豆を食う。塩気が強いな、早く新しい酒が欲しい。
「実は俺、会社辞めようと思ってるんです」
「……え、なんで?」
口の中の塩気が一気に引く。
後輩の改まった態度を見ていると、さっきまで美味いと感じていた酒の味が薄れていく。
「ていうか、もう辞表も書いていて。週明けに会社に出そうと思ってるんス」
「いや、だからなんで?」
「俺やりたいことがあるんスよ。最近それが見つかって、本気で目指したいって言うか。もちろん上手くいく保証は無いっスけど、でもたった一度きりの人生だし、そこに挑戦しない方が後悔する気がして」
「でもそれ、仕事しながらでもできるんじゃないの?」
田辺はすぐに首を横にふる。
「ここを離れないといけないので」
「いやー、もう少し社会人の経験積んでからの方がいいんじゃないか? そんな簡単にうまく行く保証も無いんだろ?」
「それも承知してます。でも、今しかないと思ってて。人生いつ死ぬか分からないし、思い立った時に行動しないと手遅れになる気もするし」
「人生? ちょっと壮大に考えすぎだろ〜」
思わず苦笑が漏れる。人生いつ死ぬかなんて、そんな途方もないこと俺は考えたこともない。
どうせ会社が辛くなって逃げたいだけだろう。
「少し頭冷やせよ。確かにうちの会社は残業多いし、上司はクソだし、給料も安いが、どこの会社もそんなもんだぞ。俺もお前くらいの頃にはそういう時期はあったもんだが、三年続けて良かったと思っている。ここで辞めるのはもったいないぞ」
良いタイミングでハイボールが運ばれてくる。乾く喉を潤すために酒を飲む。やっぱり少しも美味くない。
「でも、もう決めたんで」
まっすぐな目。世間知らずの若者の目。社会を舐めている目。
人生、そんなに甘くねーんだよ。
「ちょっと考え直せ。それこそ人生棒に振るぞ。いいか、社会人ってのはな」
話を説教にすり替えて、三十分もしないうちに俺たちは飲み屋を後にした。
田辺の話は忘れたふりをした。翌日はいつも通りに仕事をし、田辺ともいつも通りに喋った。たまに退職の話を掘り起こされそうになったら、別の話題に逸らして耳を傾けないようにした。
しかし週末が過ぎ、月曜日の午後に退職する旨を課長に伝えたことを、田辺本人から聞かされた。
田辺は清々しい表情でお礼の言葉を一方的に伝えてきたが、俺は始終気分が冷めていた。愚かなやつ。そんな言葉を言わないようにするのに必死だった。
「そうか。今までお疲れさま」
他にかける言葉は無かった。
あるのは後輩の愚かさに感じる不快感と、無理に作った先輩らしい表情の中に潜む失笑だけだ。
彼が数年後、今この時の自分を振り返り後悔の思いに打ちひしがれたとき、助けてやっても良いと思う優しさだけは僅かに残っていた。
***
三年後の冬。
「吉原。この資料、今日までに頼むな」
「え、今日、ですか?」
「そう言ってるだろ。じゃ、よろしく」
「……わかりました」
気に食わない課長の馬面を横目で睨み、自分のデスクへ戻る。
社内の時計はあと三十分で定時になりかけていた。今からこの資料に手をつければ、確実に残業コースだ。
軋む椅子に腰掛けて、三つ隣のデスクへ視線を投げる。
「田辺、今日何時まで残れる?」
「あ、はい。えっと……あ、すみません、今日はこの後用事がありまして」
「キャンセルしろ。こっちの仕事手伝え」
「ええ? でも、彼女の誕生日でして」
「誕生日は来年もくるだろ。この仕事は今しかないんだ。八時まで残れ」
「そ、そんな……」
タラタラ文句を垂れる後輩の弱々しい細い体と、はっきりしない態度を見ていると苛立ちが込み上がる。
仕事に対するやる気が感じられない。三年前に会社を辞めたアイツと同じ苗字なだけに、嫌悪感は二倍増しかもしれない。
まったく、文句を言いたいのは俺の方だ。課長から仕事を押し付けられ、その上後輩に先に上がられたらたまったもんじゃない。彼女がいるだけ幸せだろうが。最近の新人は先輩を労うということを知らなさすぎる。
やってられねえ。
バッグから財布を取り出し、缶コーヒーを買うべく席を立った。
「田辺から連絡きたか?」
「うん、来たよ。すごいよね、本当に夢叶えて」
「すげえよな。マジで羨ましいぜ」
「私も何か始めてみようかなぁ」
「俺も。なんか勇気もらった気がするな。あ、お疲れ様っス」
「お疲れさん」
自販機の前で二人の後輩社員が話をしていた。目は合わせずてきとうに返し、コーヒーを買って引き返す。
話題に上がっていた名前が、今の俺の後輩のことではないことはすぐに分かった。彼らは三年前の春に入社したやつらで、その同期の田辺と言えば俺の中では一人だけだ。
本当に夢を叶えたらしい。そういえばどんな夢かを聞いていなかった。特別気にもならないが。
まだ自販機の前で喋る後輩たちを一瞥し、ふと浮上した自分の感情が信じられずに首を振る。社会人は我慢して働くもの。先輩からの言葉を思い出して、どうにか落ち着かせる。
が、どうしても抑えきれず、感情が滲みだす。
夢を叶えた田辺のことも、まだ若い彼らのような後輩のことも、羨ましくて仕方がない自分がいてしまうのだ。
この会社を続けて六年。我慢に我慢を重ねて、仕事に時間も労力も捧げてやってきたのに、自分の人生に目を向けると虚しい気持ちにしかならない。
「今から始めたって、もう遅いだろ」
後輩たちに吐き捨てた言葉。自分にも言い聞かせている言葉。
同時に襲う違和感。あの頃自分が言っていた言葉と矛盾が生じていることに気付いてしまう。
三年前は、もう少し社会人の経験積んでからの方がいいんじゃないかと言い、三年後の今は、今から始めるには遅いと思ってしまう。
だとしたら、一体いつからがそのタイミングなんだ?
自分はいつからなら、何かを始められると思っているんだ?
何もかもが分からなくなった。分からなすぎて、デスクに戻る頃には考えることを放棄した。
「田辺」
椅子に座りながら、隣の後輩に向けて勝手に口が開いた。
「あ、はい」
「仕事は我慢だ。我慢してやり続ければ、いつか報われる。肝に銘じとけ」
「……はい」
一瞥も視線を向けることなく、仕事へ戻る。
魔が差して自分で人生をめちゃくちゃにしない為に、キーボードを叩きながら何度も何度も、先輩からの言葉を頭の中で反芻させていた。
完
失敗する物語 一 雅 @itiiti
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