偽笑の病室

かさごさか

第1話

 青年は束ねた雑誌をゴミ捨て場に置いたところで、後ろから声を掛けられた。振り返るとそこには警官が帽子の鍔を上げながら立っていたので、心当たりもないのに身構えてしまった。一瞬、動きを止めた青年を落ち着かせるように警官は一枚の写真を差し出してきた。

「この顔を見たことはありませんか?」

「いや・・・ちょっと、ない・・・ですね」

「そうですか。ご協力ありがとうございます」

 目線を合わせられず、歯切れの悪い回答をする青年に警官は爽やかな声色で感謝を述べた。少なくとも青年にはそう聞こえた。

 その後「宮山ぁ」と別の警官に呼ばれた彼に会釈をし、青年は足早に自宅へと戻った。


 青年は研修医である。目の前にはベッドを起こしテレビを見る老女がいた。彼女は病棟内でも有名な癒やし枠だそうで、ナースコールを押して「これはどう使えばいいんですか?」と聞いてきた話は看護師たちから何度も聞かされた。そうでなくとも、礼儀正しく少し天然な所がある老女が日々、嫌みや怒号その他さまざまなプレッシャーと闘っている青年の癒やしとなっていた。

 老女が見ている画面は大抵、お笑い番組を映していた。以前、「お笑い好きなんですか?」と聞いたことがあった。老女は困ったような照れているような笑みを浮かべ、

「孫がねぇ、芸人さんになりたいんですって」

と、掌をそっと合わせた。

「そ、うなんですか。お孫さん頑張ってるんですね」

「もう何年も会ってないんですけどねぇ。昔はよく一緒にテレビを見てたんです」

 ゆったりとした口調で老女は思い出話を始める。孫がいつかテレビに映るかもしれない日を見逃さないように今日も彼女はテレビ画面と向き合っていた。


 そんな老女には申し訳ないが、青年はお笑いそのものを軽視していた。確実ではない未来に手を伸ばす彼らを見て、自分より下がいる安心するための存在でしかなかった。

 しかし、それを表に出すわけにもいかず、老女が楽しそうに話す様子になけなしの良心が痛み始めた頃、青年は自分と同い年くらいの男から声を掛けられた。


 彼は老女の孫だと名乗った。

 芸人を目指ししていたが、夢半ばに敗れ、実家に戻った際に祖母が今も自分のデビューを心待ちにしているという話を聞き様子を見に来たという。様子を見に来たと行っても声を掛けられず遠くから顔を見るだけになってしまったが、と男は溜め息を吐いた。

 青年はそうですか、と言いその場を後にしようとした時、男が提案をしてきた。

「俺と漫才をしてくれないか」

「は?」

 全ては貴方の自業自得でしょう、と思ったが青年は言うことが出来なかった。院内で最も人が集まる総合案内所があるフロアで男が土下座をし始めたため、提案を承諾せざるを得なくなってしまったからだ。


「ばーちゃんに自分が漫才してるとこ一回で良いから、見せたいんですよ。でも相方だった奴は『オレのお笑いはボランティアじゃねぇ』って連絡が取れなくなっちゃって・・・」

「そうなんですか」

 そう言って、男は項垂れる。青年は今もボランティアじゃない、など言いたいことは山ほど浮かんだがアイスコーヒーでそれらを流し込んだ。話し合う場所を院内の喫茶コーナーに移したところで人の視線は途切れないものだ。


 男からの提案を不本意ながら承諾してしまった日から青年は普段の業務に加え漫才の台本を覚えなくてはならなくなった。これがなかなか頭に入らない。元々、興味が無い上に嫌々やっているため、男が漫才の練習をしに尋ねてくるまで台本の存在を忘れていることもしばしばあった。

 男の方も青年がお笑いへの興味が薄いことを感じ取っていたのだろう。時に『お笑い論』と書かれた雑誌を数冊持ってきては青年に渡していた。青年がそれに目を通すことはなかった。


 この日も男が尋ねてきた。今日の青年は白衣ではなくジャケットに袖を通し、老女の病室にはガートル台を少し弄って作ったセンターマイク擬きが置かれていた。

 嫌々ながらも頭に叩き込んだ台詞は棒読みで、恥ずかしさが抜けないままのツッコミは尻すぼみになってしまった。それでも老女は口元に手を当てて肩を震わせていた。

 最後に二人揃って「ありがとうございました」と一礼すれば一人分の拍手が室内に響く。

「とってもよかったわぁ。二人とも、ありがとう」

 いつものようにのんびりした声で老女はベッドに座りながらお辞儀をした。そのまま会話が途切れること数秒、青年はガートル台を掴んで病室を出た。

「それじゃぁ、あの、あとはご家族水入らずで、どうぞ」

 何度も頭を下げながら老女と目線を合わせられず、急いで撤退したので自分でも何を言っているのかわからないが、双方の願いを叶えることが出来たのではないだろうか。


 病室を出た直後、もう二度と男と関わるまいと青年は固く誓った。帰宅し、男から貰った台本や雑誌をまとめて束ねる。このまま縁ごと捨てる勢いで翌朝、ゴミ捨て場に向かうと背後から警官が話しかけてきた。目の前に差し出されたのは詐欺師だという男の顔写真であった。非常に見覚えのある顔だった。


 出勤し、老女の病室へと向かうと今日もテレビにはお笑い番組が流れていた。

「こんにちは。今日はご飯を残されたと聞きましたが調子悪いですか?」

「先生、」

 老女が布団を握りしめる。

「昨日はごめんなさいね」

「はい?」

「本当はお笑いというものがよくわからないの・・・昨日は先生達があまりにも一生懸命だったから失礼の無いようにと思って笑おうとしたんだけど・・・だめねぇ、作り笑いなんて器用なこと出来なかったの」

「あ・・・面白くなかったですか・・・・・・?」

「そういうわけじゃなくてね、何て言うのかしら。その・・・何が面白いのかわからなくてねぇ。本当にごめんなさいね」

「はぁ。いや、別に構いませんよ。お孫さんの、彼の希望でもあったので」

 後頭部を掻きむしりながら青年は床を見続けることしか出来なかった。可能であれば喉が裂けるほど叫び、今すぐここから走り去りたかった。

 俯いてしまった青年に老女はきょとんと首を傾げた。


「孫? 私の孫は女の子ですよ、先生」

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偽笑の病室 かさごさか @kasago210

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