Waiting for

悠井すみれ

第1話

 彼はずっと待っている。何を、誰を、かは分からない。彼はそのように造られた。待つために、というか──待っている、という概念を表して。


 彼が造られたばかりのころ、彼の台座の傍を汚れた犬がよく右往左往していた。座り込んだり、寝そべったり、時に棒でつつかれたり、屋台の焼き鳥を与えられたりして。その犬を指さして、人は言い交したものだ。


「あれが忠犬ハチ公か。ご主人はもう死んだのに偉いもんだ」

「犬の癖に生きてるうちから像が立つんだからなあ」

「でも、可哀想だよねえ」


 道行く人の言葉を聞きながら、彼と同じ姿をした犬を見下ろしながら、彼はなるほど、と得心したものだ。待ち続ける犬の姿を模したから、彼はずっと待つのだろう。帰らぬ主人を待つ犬と同様に、雨の日も風の日もあてどなく。


 元から年老いていたらしい犬は、やがて冷たくなって動かなくなった。犬が現れなくなってしばらくは、彼の首に花輪がかけられたり焼き鳥が供えられたりもした。無論、銅像はものを食べないから、鴉が供え物を突くのを眺めながら、彼はやはり待っていた。


 待ち続ける彼の前を、多くの人が通り過ぎて行った。赤い丸を描いた旗を振って、胸を張って意気揚々と、あるいは不安に顔を強張らせて。集団で列車に乗り込む子供たち。見送る親は目元を抑えていた。

 青い空を切り裂くサイレンを聞きながら、夜空を燃やす焼夷弾の火の粉を浴びながら──待ちながら。彼はすべてを見ていた。


 彼自身にも、日の丸の旗が掛けられる日が来た。


「お国のために、頑張ってくれよ」

「忠犬の像だから、ご利益があるだろう」

「兵隊さんのために──」


 彼が見送って来た者たちと同じく、彼も見送られる側になったのだ。


 そうして、彼は溶けた。そして──彼が再び渋谷の駅前に座った時には、街は平和になっていた。


「渋谷にはハチ公がいないとなあ」

「GHQも感動したんだとさ」


 かつてと違う金属で形造られて──けれど、同じ場所、同じ形だからか、彼はやはり待ち続けることになった。日々、発展を続ける街で。見上げるほどの建物の群れに囲まれて、蟻のように行き交う無数の人を眺めながら。


 待っている彼の周囲に、待つ人々が集まるようになった。彼を丸く取り囲んだ広場には、辺りを見渡したり手を振る人の姿が絶えない。待ち人の姿を見つけて安堵して笑い、駆け寄る──日に何十回何百回と見ていると、彼は何となく思うのだ。

 彼が何を待っているかは分からない。それでも、「待つこと」が報われる人々を見るのは良いものだ。待ち続けて逝ったあの犬を見ていればこそ。戻らなかった人々を見送っていればこそ。銅像なりに、生きて会えることの尊さが知れた。


 彼が待つようになってから、八十と八年が過ぎた。ハチ、と呼ばれる彼には縁深い数字なのかどうか。

 この一、二年ほどは、少々様子が違った気もする。やけに人通りが少なくなったり、聞こえる声も小さくなったり、顔の下半分を小さな布で覆っていたり。ともあれ、彼にしてみれば些細なことだ。これまでにも、服装や髪型や言葉遣いに流行り廃りはあった。けれども、誰かを待ち、待ち人と会うという点ではさほどの違いはないのだから。


 今日も彼は待っている。耳をぴんと立てて行儀よく座りながら。人が訪れては去っていく──待ち、そして出会う瞬間に立ち会うことを。

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