女王と娼婦の悲劇と喜劇

久里 琳

女王と娼婦の悲劇と喜劇


「ない」

 たしかにテーブルの上に置いてあったはずなのだ。

 たいしてない私物が精一杯やんちゃし取っ散らかったリビングで、マカレーナは理解できないって顔してうしろへ首をまわした。

 入口に顔を出した少女はすこしいらだっているようだ。

「はやくしなよ。車、下で待ってるよ」

「いーわよ、フアンなんか待たせといてちょうどいいくらい。なにかっちゃ偉そに言っちゃってさ、あたしに指図すんじゃないってのよ」

 ぷんぷん怒ってみせる話題のフアンは、街を歩けば泣く子も黙って逃げだす、麻薬カルテルの首領だ。

「今日はフアンは来てないみたいよ」

「ありゃりゃ。仕事でも入ったかな?」と頬に指あて、「で? だれが来てるの?」

「ルカ。もお、はやく行ってやんなよ」

「でも、お金が見つかんないのよね」

「はあ?」

 呆れ声あげ、アナマリーアがずかずか部屋に入ってくると、一緒に部屋を見まわした。



 今日は子供たちの通う学校に、授業料を収めに行く予定にしていた。いまどき普通は銀行振り込みすればいいものを、マカレーナはなにをするにも現金払いを慣例ならいとしている。これは彼女の適当かつある意味潔癖な性質から出ているもので、娼館のお金は銀行管理、個人のお金は現金管理と、そんな単純な仕分けで公私の線を引いているためだ。

「間違って娼館みせのお金を流用しちゃったらいけないもんね」とマカレーナは言う。

 実際そんな間違い大いにありそうだわと、アナマリーアは思うのだ。

 それにしたって、現金の扱いも、もちょっとしっかりしないといけないんじゃない? いっつも適当で無頓着だから今みたいにお金が見つからないなんて言うんだよ。


 ためいきいていると、隣室からカタリナもやってきた。大柄な体躯に黒い肌が、透けるように白いアナマリーアの肌と好対照をなしている。

「なにやってんだ?」

「お金が見つかんないの」

 またかよ、と苦笑いしたカタリナがふと真顔になって、そういえば昨日、と言いだした。

「ベロニカがこの部屋から出てきたっけ」

「ふうん?」

 マカレーナはうわのそらで、たしかに一昨日ここに置いたはずなんだけど、そのあとどっかに動かしたんだっけ、昨日のひるにはたしか……と記憶をたどっている。

 そこへ廊下からぱたぱたスリッパの足音とともに、下着すがたのウルスラがおっとりあらわれ、

「ベロニカの部屋、空っぽになってる」と言った。はっとふり返る面々、その表情も見ないでウルスラはつづけた。「出てったみたい――あいさつもなしでさ。どこ行く気なんだか、もお。ここ出たっていいことないよって言ったげてたのに、まあったく人の言うこと聞かないんだから……ん? どしたの?」



 マカレーナは、ベロニカにはすこしばかりお金の貸しがあった。調べてみると、他の女たちからも借りていたらしい。

 それはさしてめずらしいことではない。娼婦たちがこの稼業に身を投じる事情はさまざまだ。何か目的があってお金を貯める者、借金を抱えた者、手っ取り早く稼いで贅沢したい者、ただただ日々の生活の糧を得たい者、エトセトラ、エトセトラ。それなりに実入りのいい稼業ではあるのだが、享楽に浮かれてしまえば稼ぎが追いつかないこともある。そして娼婦とは、ある種の女にとっては、目のまえの現実を享楽で忘れたくなる職業ではあるのだ。



 ルカにはいったん帰ってもらい、ああだこうだと皆かしましく情報をつきあわせたあと、マカレーナの部屋にはアナマリーアとダニエリが残った。落書きだらけのテーブルから椅子を引っぱり出して、並んで座って、ぐったりソファに溶けてしまっているマカレーナを見た。

「だから言ってんじゃん、カギかけなって。それでいったい、なに盗られたの?」

「んー……テーブルに置いてたお金と、あと何あったっけ?」

 暢気な声がソファから返ってくる。落ちこんでないようなのはなによりだが――同時にふつふつと怒りがダニエリの胸に沸きあがってくる。少女たちがなんど言っても部屋にカギをかけない杜撰さに、反省の色のひとつもないのだ。

 アナマリーアは勝手に寝室に入っていって、ドレッサーやらサイドテーブルやらを確かめだした。

「あー!」

「なに?」

「こんなとこにアクセサリー! ダイヤもルビーも、みんなぐちゃぐちゃ。あーあ、チェーンなんかからまっちゃってるよ」と超難解な知恵の輪のようになってしまったアクセサリーの塊を解きほぐせないまま持ちあげて見せ、「あんたどうせ、もらったのみんな適当に突っこんでってんでしょ?」

「それは持ってかなかったんだ」

 ダニエリがぽつんと言うと、

「そういう子よ。お金以外には手が出せなかったんだよ――物には思い出が宿るからね」とまたソファが返事した。


 ベロニカは他人に心の底を見せず、無神経な物言いをする一方で妙に憶病で、人の顔色をうかがうようなところがあった。迷信じみた怖れをときどき口にしたが、彼女がなにに怯えていたのか本当のところはだれにもわからない。

 ここで働きはじめて一年ばかり。最初に見せてもらった身分証が偽造でなければ、たしか三十六歳のはず。三十代も半ばとなると、この商売ではそろそろ下り坂だ。


「あんたもね、」と酔ってマカレーナにからむ癖があった。「今はいいけど、いつまでも売れるって保証はないのよ、こんな商売。容色きりょうは衰えるし、体こわしたりなんかしちゃあっという間に干上がるの。貯められるあいだにできるだけ貯めなきゃだめよ? 最後にあたしたちを裏切らないのはお金だけなんだから」

 女主人とはいえ十歳とおも年下のマカレーナは、説教するのにちょうどよかったのかもしれない。それにだいたい、ほかの女はベロニカがくだを巻きだすとたいていすぐ逃げだした。

「ありがと。でもねえ、いまお金が必要ってひとがいるならまずそのためにつかうのがいいと思うのよね、あたしは。その先必要になったらまた稼ぐ。そのときどきで助けられたはずのひとを助けられなかった、なんてあとで後悔したくないからさ」

「はあぁ……うらやましいわ、あんたやっぱり若いのよ。貯えのないまま稼げなくなったらね、そりゃあ悲劇よ。あたしにはそんなどん詰まりがもう目の前まで迫ってるの。必死でがんばって生きてきたってのに、こんなのってないわ……神さまはやっぱり娼婦を嫌ってるのよ」



  ***



「なんだ、元気そうじゃねえか。慰めてやろうと思ってたのに、必要ねえか」

 その夜のフアンの第一声だ。場所はフアンの隠れ家のひとつ。娼館のホールにいたところをルカに連れ出されて、用件も知らないままここまでやってきたのだった。

「なあに? ルカが喋ったのね? そんな用で呼び出したんだ、くっだんない」

「あぁ? かわいげのねえ女だな、ったく」

 互いに毒づくのはいつものことだ。だがそれとても、今日のマカレーナは精彩を欠いている。


 どうにも気分の乗らない他人行儀な情事をえて、シャワーのあとマカレーナは裸でベッドに寝っころがった。その体に白いシーツをかけてやって、フアンはベッドの縁に腰かけた。

「ひとつ、ベロニカのことで耳に挟んだ」

「よしてよ。ベロニカとは縁が切れたの。いまさら興味ないわ」

 眉をしかめるマカレーナを無視してフアンはつづけた。

「うちの縄張りシマで妙な動きをする奴がいたのさ。イシドロの野郎がとっ捕まえて絞りあげてやったら、つまンねえ借金取りだってんだ」

 マカレーナはそっぽ向いてベッドの端を指で撫でているが、聞き耳たてているのが気配でわかる。

「ベロニカが、三年前にこさえた借金だとよ」

「………………なんのための借金だったの?」

「さあな。おれもベロニカなんて野郎にゃ興味ねえから聞かなかった」

「ベロニカは『野郎』じゃないわ」

 ものうげな声の指摘を、フアンはまた無視する。

「娼婦が身を持ち崩す理由はたいてい決まってら。オトコかクスリだ。どっちにしろ、つまンねえ話さ」


「あの子の借金、あたしが返すわ。その借金取りに伝えてよ」

 フアンには背中を向けたままマカレーナが言った。

 ふん、とフアンは鼻を鳴らした。「情けをかけたところで同じことの繰り返しだぜ? その手の奴はな、いちど助けたところでもっと堕ちてくだけだ。やめとけやめとけ、縁は切れたんだろ?」

 もちろん縁が切れたなんてのがマカレーナの本心でないとはフアンも承知だ。意地を張っているだけ。その意地につけこむようで不本意だが、手を引かせるならここだ。この先へ進んで、だれにもいいことはない。

「……あの子の行先わかる?」

「追い込みかけようってんならナサニエルだな」

「よしてよ、ばか」とおもわずフアンの手をとって、にやっと笑った情人と目が合うと、やられたって表情かおになってぷいっとまたそっぽを向いた。それからしばらくすると、低い声で言った。

「どっかであの子と会うことがあったら伝えて。困ったらいつでも戻っておいでって。怒っちゃいないからなんにも気にせず戻っておいでって」

 意地を張るのは諦めたらしい。


 その夜はめずらしくベッドのなかでずっと話しこんでいるうちなんとはなしにまた肌を重ねて、息苦しかった初めの情事を償うように、あくまでやわらかく、骨も筋もなくなったかのようにフアンの導きに従順に舞と音楽を奏でた。

「あの子、放っといたら破滅しちゃうわ。悲劇だなんて言って、自分からそこに飛び込んでくの」

 お前だって似たようなもんだ、いつも自分のこと構わず他人の心配ばかりしやがって。そう思いながら、黙ってフアンはたばこに火を点けた。


「悲劇なんかじゃない、人生は喜劇なのよ。だから私は笑って過ごすの。あの子たちにも一生笑っててほしいわ」

「ふん。喜劇ってのはたいてい道化がいるもんだ」

 マカレーナは寝がえり打つと、フアンのたばこを奪って自分の唇に挿した。

「みんな道化よ。かなしくっても必死に生きてんの。それがお笑いだって気にしないわ。あたしはそれでいい」

 たばこのけむりは天井へとあがって、回転する羽根ファンがかき散らし、清浄無垢な空気のなかにゆっくりとけていった。



(了)


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