【4】君のための青天

池田春哉

君のための青天

 登ったばかりの太陽がビルの隙間に広がる真っ青な空を照らしていた。雲ひとつない空には、彼女の赤らんだ頬と白い息がよく映える。

「調子はどう?」

「余裕だよ。壱西いっせい高校くらい」

 その言葉通り、彼女は余裕たっぷりの笑みを浮かべた。しかしその目の下には青黒いクマができている。

 無理もない、入試前夜だ。最後の追い込みをかけていたのだろう。

 さくさくと音が鳴る。薄く霜の降りたコンクリートの道を僕たちは並んで歩いていた。

「でも助かったよ。一人じゃ絶対辿り着けなかったと思う」

「東京って初見殺しだからね」

 楠谷さんの言葉に僕は頷く。

 入試会場でもある壱西高校は東京の中心部にある高校で、僕たちの町からそこに行くには新幹線で東京駅まで行ってから数種類の地下鉄を乗り継ぐ必要がある。しかし蜘蛛の巣のような路線図の中から目的の路線を見つけるのは至難の業だ。

 ただ僕は一度、壱西高校に来たことがあった。スポーツ推薦で入学を決まった僕は、事前に一度形ばかりの面接が行われたのだ。

 その際も随分と迷ったものだが、そのおかげで大体の路線図を理解でき、今こうして案内ができるまでになったので結果的には良かったと言える。

「ほんと送ってくれてありがとね」

楠谷くすたにさんの頑張りを見てたら応援したくなってね。こんなことしかできないけど」

「やってる本人が一番その効果に気付けないのが応援だよね」

 にっ、と楠谷さんは先程の笑顔とは違い、心底嬉しそうに笑う。

 今日の晴天は彼女のために用意されたんじゃないかと思うくらい、青空の下の彼女は眩しかった。

「ま、もしこの入試が駄目でもそのときは来年後輩として入学するからさ。そのときはよろしくね、佐伯先輩」

「いやそれ笑えないよ」

「えー笑ってよ」

 あはは、と彼女の笑い声が空に抜ける。その声を掻っ攫うかのように北風が吹いて、僕は少しだけ肩を縮めた。

「もうちょっとで着くのかな」

 ふとした彼女の言葉に辺りを見回すと、周囲には色々な形の制服を着た学生がちらほらと見て取れた。ここにいる皆も受験生かもしれない。歩きながらもノートを開いたり、単語カードを捲ったりしている。

 そういえば楠谷さんは勉強しなくて大丈夫なんだろうか。ふとそんなことが頭をよぎった。

 もしかして僕と話をしているせいで彼女の勉強時間を奪ってるんじゃないか。

僕が案内役を買って出たせいで彼女のラストスパートを妨害してしまってるんじゃないだろうか。

 そうだとしたら、なんて空回りな応援だろう。

「人生がコメディなら最強だと思わない?」

 後悔の念に沈みそうになった僕を、彼女の声が引き上げた。いつの間にか俯いていた顔を上げる。

「コメディ?」

「そう。いつも笑ってたいんだよね、私」

「いつもって?」

「いつもはいつもだよ。嬉しいときも悲しいときも病めるときも健やかなるときも、だよ」

 十字路を曲がると、唐突に見覚えのある光景が見えてきた。半年前に訪れた壱西高校の正門だ。


「成功も失敗も努力も挑戦も青春も恋愛も何もかも全部まとめて笑い飛ばせたら、それって最高に幸せでしょ?」


 彼女の言葉を乗せて、北風がひとつ吹く。けれど先程よりも冷たさは感じなかった。

「……そりゃ最強だ」

「でしょ。だから笑おうよ。何があってもさ」

 言いながら、彼女はにっと笑った。

 思い返せば彼女はいつも笑っていた気がする。嬉しいときも、悲しいときも、病めるときも、健やかなるときも。

 そしてその笑顔の裏には、死に物狂いの努力と目が眩むほどの想いがあることを僕は知っている。

 だからこそ僕は、今ここにいるんだ。 

「――じゃあ、これも笑ってくれる?」

 正門の石柱の前で僕は鞄から小さな袋を取り出して彼女に手渡す。小袋を受け取った彼女はその中身を取り出して目を丸くした。

「え、これ」

「お守りだよ」

 楠谷さんの白い手の平の上には『最強成就』と書かれた小さなお守りがあった。僕が家庭科室のミシンを借りて作ったものだ。学業成就とか、必勝祈願とか、そんなのより彼女に相応しい言葉を選んだつもりだった。

 彼女はいつだって僕の中では最強に眩しい。

「……こんなの、笑うよ」

 彼女は手の平に乗せたお守りを優しく握り締める。その言葉とは対照的に、その声は湿り気を帯びていた。

「――よし」

 短い言葉とともに楠谷さんは顔を上げた。寒さのせいか少し赤みのある両眼がこちらを見る。

 そして『壱西高校』と彫られた灰色の石柱に軽く触れた。

「春になったらこの校門の前で一緒に写真を撮ろう」

 心地よく響く声が僕に届く。こちらを真っ直ぐに見据える瞳の奥に、いつか見たが燃えていた。

「二人で並んで、とびっきりの笑顔で」

 彼女は満面の笑みを浮かべる。

 やっぱり最強だ、と僕は目を細めた。

「うん。約束する」

 僕の返事を聞いた楠谷さんは満足そうに頷く。そしてお守りを握っていないほうの手を開いて、ひらひらと手を振った。

「じゃあいってくるね」

「いってらっしゃい」

 彼女はくるりと僕に背を向けて正門を抜け、そのまま他の受験生と混じって真っ直ぐに校舎へと歩いていく。

 不思議だな、と僕は思う。

 冬晴れの空は広いのに、彼女の小さな背中ばかりを照らしているように見えた。



(了)

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