二人暮らし

真沙海

二人暮らし

終業のチャイムが鳴ると同時にカバンを手に取る。

後ろから先輩が雅紀、今日は早いな、と嫌味めいた事を言ったが、それにお疲れ様でしたと返してそそくさと会社を出る。

心なしか車のキーを握っている指先が震えているような気がした。

スイッチを押すとウィンカーが二度光って鍵が開く。隣の車にドアをぶつけないようにだけ気を付けて、乗り込んで一息吐いた。

型落ちとはいえまだ年式で言えばそう古くない軽自動車のエンジンスイッチを押してギアをドライブに入れる。

こんな大事な日に事故にだけは遭いたくない。慎重に左右を見渡し、車を発進させる。


週末の帰宅時間はやはり渋滞していた。

ここを過ぎれば裏路地に入って、そうすれば空いているはずだ。落ち着け、と自身に言い聞かせ、焦る気持ちを抑えこむ。

信号待ちで停まった隙にスマートフォンで今から帰る、と彼女にメッセージを送った。

すぐさま既読が付いて、待ってるよ、と短い文面が返ってくる。

何か返事を打とうとしたが、目の前の車のブレーキランプが消えて進みだす。

彼女と付き合って二年。今日、ようやく彼女が自分の部屋に越してきた。

いわゆる同棲だ。

本当は引っ越しも手伝いたかったけれど、彼女の仕事の都合と引っ越し業者の都合がついたのが今日だけだった。

引っ越しで疲れているだろうから夕飯はどこかに食べに行くかテイクアウトにしようと提案したが、彼女は首を縦に振らなかった。

せっかくの記念日だから私の得意料理で祝いたい。

そんな風に言われたら、それ以上は言えずに素直にお願いした。


実家を出てから十数年の間、手作りの料理なんて滅多に食べることはなかった。

若さ故に夜中にハンバーガーや牛丼、カップラーメン。勿論毎食ではなかったけれど、体にいいとは言えない食生活だった。

元カノも料理は得意ではなく、デートといえばレストランや小料理屋での外食だった。

彼女が好きだという車に乗り、値の張る外食にプレゼント。

挙句には仕事ばかりでつまらないと言って別れを切り出した元カノを恨んだこともあったけれど、今では逆に感謝をしていた。

毎日通るこの道にある小さな映画館は今日は幾分賑わっているようだ。

二年前のクリスマスの日、元カノに振られて自棄になって入ったこの映画館で、優美に出会った。

あの日観た映画は、確か外国の料理人の話だった。

大して興味はなかったけれど、上映開始間近だったその映画のチケットを買って、ホットコーヒーを片手に座った。

話の内容はあまり覚えていないが、出てくる料理が美味そうでポップコーンの一つでも買えばよかったと思ったのを覚えている。

結局エンドロールが流れ終わるまで観て、そろそろ席を立とうかと腰を上げた時だった。

斜め前に座っていた女性が、座席を手すり代わりにゆっくりと浅い階段を降りていた。

足を怪我しているのか、片足を引きずっていた。けれど、ロングスカートから覗く足には治療の形跡はない。しかも靴はヒールブーツだ。

手を貸そうか迷っているうちに、小さな悲鳴が聞こえた。

どうやら階段にヒールが引っかかったのか、バランスを崩して座席にもたれかかっている。

「大丈夫ですか」

そう言って手を貸したのが始まりだった。

劇場の外まで肩を貸し、ホールの待合スペースで休んでいる間に映画の感想を彼女と語り合った。

それは次第に彼女自身の話になり、映画を観ることが趣味だとか、読書が好きだとか、料理が好きだとか。犬を飼っていて、今日彼氏と別れた時に足を挫いたことだとか。

楽しそうに、そして少し悲しそうに彼女は語った。

それにうんうんと相槌を打って聞き、合間に自分のことを話した。

同じように映画も読書も好きで、実家では犬を飼っていたこと。そして今日彼女と別れたこと。

「ふふ、同じですね」

口元に手を当てて、優し気に微笑んだ彼女のことをもっと知りたいと思った。


だいぶ良くなったから、とタクシー乗り場に向かう彼女の横を歩いて、連絡先を聞こうかどうしようかと悩んだ。

もしかしたら、もう会うこともないだろうからと話したのかもしれない。だとしたら連絡先を聞くのは失礼だと思った。

幾分まともに歩けるようになった彼女は、冷たい風の吹き付ける中一瞬身震いをして振り返った。

「もしよかったら、連絡先を聞いてもいいですか?」

その時の彼女の赤らんだ頬は冬の風のせいか緊張のせいなのか、俺にはわからなかった。

けれどぎゅっと手を握って震えた声に、あろうことか俺は咄嗟に名刺を差し出した。

一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、受け取った彼女はとても嬉しそうに目を輝かせていた。

「あとで連絡してもいいですか?」

「もち、ろん」

やった、と彼女はまるで少女のように小さく呟いて喜び、タクシーの中からいつまでも手を振っていた。

俺もいつまでもタクシー乗り場に突っ立って、彼女を見送っていた。


それが二年前のことだ。

付き合い始めた時のことを思い出しているうちに、マンションの駐車場に着いてしまった。

エンジンを切って車を降り、エントランスへ向かう。

笑えるほど維持費の高い車から小さな軽自動車に乗り換えようと言ったのも優美だった。

彼女は気づいていた。俺が前の車が好きではないことを。本当は小さくて小回りが利いて、でもターボが付いている少し速い車が好きだという事を。

今の車は二人で話し合って決めた。最後の最後まで悩んでいる俺の後押しをしたのも彼女だった。

これは大切に乗らなきゃな、と思っていた矢先、先に傷をつけたのは彼女だった。

怒られると思ったのだろう。帰宅すると彼女は玄関先に土下座をして待っていた。

何があったのかと聞けば、車に傷をつけた原因は何てことはない理由だった。

買い物をした荷物を乗せている最中、彼女の愛犬がカートから座席に飛び移ったらしい。その拍子にカートが車を小突いて傷が入ったのだという。

彼女の愛犬はやんちゃ坊主で、たまにそういうことをする。仕方のないことだと言って笑うと、彼女は拍子抜けしたのか泣き出してしまった。

今では彼女の愛犬の鼻スタンプでさえ愛おしい。


コツコツと革靴の音が廊下に響いた。

しんと静まり返ったマンションの中ではやけに耳障りに聞こえる。

あと数部屋先というところで、小さくわふ、と低い鳴き声が聞こえた。

彼女の愛犬だ。

もう何年も暮らした自分の部屋の前に立ってふと、表札を見上げる。

どの住人もたいていは表札なんてかけていない。不用心だと言う。

俺はただ単に面倒くさくて放っておいていたけれど、今日はそこに田中、と俺のありふれた苗字と、麻生という彼女の苗字が縦に並んでいた。

本当に今日から二人で暮らしていくのだな改めて認識すると、また指先が震えてきた。

その指をスーツのポケットに突っ込み、鍵を取り出すと今度は近いところで鳴き声が聞こえた。同時にぱたぱたとスリッパの音が聞こえ、ドアが開いた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

彼女が泊まりに来た日だって何度となくこのやり取りをしたはずだった。

けれどどこかお互いに恥ずかしくて、視線が合わない。

玄関では彼女の愛犬のミニチュアダックスがお座りをして尻尾を振っていた。

床に流れるように揺れる黒い尻尾がなんとも美しい。

「寒いから、入って?」

「あ、うん」

いつまでも廊下に佇んでいた俺に痺れを切らしたのか、彼女に促されて部屋に入る。

暖かくて、いい匂いがした。

「ご飯、もうできてるから着替えてきてね」

うん、と靴を脱ぎながら返事をすると、彼女はリビングへとまた小走りで消えた。

はっはっと興奮した声に混じって鼻を鳴らす甘え声が聞こえる。ちらりと横を見ると、まだかと言わんばかりに体を揺らしているダックスフントが目に入った。

「ただいま、ラム」

黒い美しい毛並みに手を乗せると、待ってましたと飛びついて顔中を舐められた。

なんとか引きはがし、コートを脱いで洗面所へと向かう。

念入りに手を洗ってうがいをし、ついでに顔も洗う。

ほら早く行くよ、とラムがリビングへと先導した。


リビングへと続くドアを開けると、ふわっと醤油の香ばしい匂いが鼻孔を擽る。

ダイニングテーブルにはもう料理が乗っていて、優美は洗い物をしていた。

「ちょっと張り切って作っちゃったからバランス悪いんだけど」

メインは肉じゃがだ。豚肉と玉ねぎ、白滝とじゃがいも。

少し煮崩れしているが、よく味が染み込んでいるだろうことがじゃがいもの色を見ればわかる。

その隣には彼女オリジナルの豚肉入りきんぴらごぼうと、切り干し大根とささみときゅうりのゴママヨサラダ。

左奥には豆腐とわかめの味噌汁があって、手前に白米。

「俺の好物ばっかりだな」

どれもこれも、思わず唾を飲み込むほど美味しそうだ。

「今日くらいは好きなもの、作りたかったの。だって……」

記念日だから、と彼女は恥ずかしそうに小さく呟いた。

「冷蔵庫、使ったなら知ってると思うけど、俺もさ、ケーキ買ってきてたんだ。今日は早く帰りたかったし、クリスマスだから混んでると思って昨日買ったやつだけど」

「中は見てないけど知ってる。ありがと!あとで食べよう」

「ケーキまで俺、入るかな……」

どう見ても二人分以上ある料理に俺は苦笑いを零すと、彼女のくすくすとした笑い声が聞こえた。

「よし、いただきます」

まずはメインの肉じゃがに箸を伸ばす。

持っただけで崩れるじゃがいもを口に運ぶと、ねっとりとした触感と同時にじゃがいも本来の甘味と、醤油の塩分と砂糖の甘味が口いっぱいに広がった。

豚肉、白滝と口に放り込み、ゆっくりと咀嚼する。関東風の牛肉ではなく豚肉の甘味が引き立つ味付だ。

続いて豚肉入りのきんぴらごぼうに手を伸ばす。

ごぼうの土臭さは取り除かれ、ささがきにしているものの厚さも大きさもバラバラだ。けれどそれは優美が自ら下ごしらえをした証拠で、柔らかく炒めてある。

醤油と砂糖と、おそらくほんの少しの白だしが入ったメインにもなるきんぴらごぼう。

「なんや懐かしい味がするわ」

「関西の方は白だしをよく使うって聞いたから、少しアレンジしてみたの」

前に食べた時は白だしは入っていなかった。それはそれで美味しかったけれど、こっちの方がより美味い。

箸休めに切り干し大根とささみときゅうりのごまマヨネーズサラダを一口摘まむ。マヨネーズの味が濃く、ふんわりといりごまが香り、少しシャキシャキとした切り干し大根の甘さが絶妙だ。そこに入っているささみになぜか少し贅沢な感じがした。

「ほんま、どれ食べても美味いわ」

「だって関西弁になってるもんね。普段は標準語なのに」

「いやもう、家帰ってきてまで気張りたないねん。嫌か?」

「ううん。まだちょっとわかんない単語あるけど、大丈夫」

「ゆってや。うまく説明できるかわからんけど」

「うん。でもゴミを投げるが通じなかったのはびっくりしたなぁ」

「ああ。あれは俺もびっくりした。窓から投げるんかと思った」

あはは、と二人の笑い声がリビングに響く。

ラムはよく躾されていて、人が飯を食っているときにはきちんと自分のハウスにいた。

人間の食べ物は極力あげないと彼女は頑張っているが、たまにサラダのきゅうりや犬用のちょっと高いお菓子を与えているのは一人と一匹の秘密だ。

時々会話を挟みつつ食べ進めているとあっという間に皿は空になってしまった。

「おかわりする?」

「これ以上食べたら動かれへんくなるわ……食べたいねんけどな。歳やな」

「雅紀が嫌じゃなかったら明日も出せるけど、食べる?」

「食べる!なんなら弁当箱に詰めて持っていきたいわ」

俺の反応が面白かったのか、彼女はまた笑った。

こんなにも笑うようになったのは、ここ一年くらいだ。それまで彼女は人と話すことが苦手だったらしい。

人の言葉の裏表がわからず、本音かどうかを考えるのが面倒だったと以前彼女は言った。

俺も仕事では本音と建て前を使い分けるが、プライベートでは明け透けだ。

元々言いたいことは言う性格だから、それがもめ事の元になったことも一度や二度ではない。

けれどその方が優美は楽なのだという。


ゆっくりと食後のお茶を飲んでいると、優美がパタパタと忙しなく動き出した。

何回もキッチンとダイニングテーブルを往復してラップを掛けたり皿をシンクに下げたりしている。

「洗いもん、ええよ。俺やるから」

「それはなんか……悪いよ」

「ええって。引っ越しで疲れたやろ。飯も作ってくれたし」

うーん、と唸り始めた彼女にふう、と一旦息を吐いて立ち上がる。

ワイシャツの袖を捲ってスポンジを握ると彼女が隣に立った。

「あのな」

「うん?」

「俺んちはおかんが専業主婦だったから家事は全部母親がやっててんけど。小さいころおかんが熱出して動かれへんくなってん。そんとき親父が皿洗ったんやけど、まぁ……割るわシンクびちゃびちゃやわでえらいことになってん。そん時俺、親父のことかっこ悪いなぁって思ったんや。なんぼ外で仕事頑張ってきてても、おかんのちょっとした代わりもできひんねんなって。だから約束しよ」

「なにを?」

泡を流した皿を水切り籠に置くと、優美が拭いていく。俺が洗い物の手を止めると優美も手を止めた。

「しんどい時は無理しないこと。忙しくて遅くなる時も掃除とか夕飯とか適当でいい。無理して一緒に暮らしたって楽しないやん」

な、と声を掛けると優美は大きく頷いた。

「ラムの世話もな。朝は俺、弱いから散歩行かれへんけど早く帰ってきた日くらいは散歩行くし」

カチャカチャと爪がフローリングに当たる音が聞こえて音の方を見ると、呼んだ?とでも言うように首を傾げながらラムがやってきた。

簡単に手を拭いてゆっくりと持ち上げる。

「今日から一緒に住むんやで。よろしくな」

ぺろぺろ、というよりはべろべろ舐めまわすラムの頭を撫でながらちらりと優美を見ると、柔らかい笑みを浮かべていた。

「さて、残ってんなら弁当に詰めよかな」

「ほんとに持っていくの?」

彩りが、とか栄養バランスが、とか言い出す優美を無視して食器棚から弁当箱を取り出す。

「だってこんな美味いもん、持って行かな損や。それにその方が頑張れるしな」

仕切り用のカップなんてこの家にはない。そのうち買ってくるかなと考えながら詰めていく。

「ほら、美味そうやん」

適当に詰めたほぼ茶色の弁当に、優美はため息を一つ吐いて卵焼き器に手を伸ばした。

「ええって、これで」

「だめ。せめて卵焼き」

「ええのに……」

「ほら、私作るから。そこの洗い物片付けちゃって」

「おう」

こんななんて事のないやり取りが妙に楽しい。少し揶揄っているのもあるが、卵焼きは本当になくてもいいのだ。

「こんなんが毎日続くんやろな」

「え?なんか言った?」

それなら楽しくて、幸せだと思ったことまでは声に出ていなかったらしい。

「いいや。なんもゆってない」

思わず出た言葉を俺は誤魔化した。



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二人暮らし 真沙海 @masami0414

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