お笑い失格

緋糸 椎

🎙

 自分には、普通の生活というものが、見当つかないのです。ドサ回りで客にいびられ、師匠からは理不尽にドヤされ、後輩芸人には先を越され、クレジットカードは審査を通らず、いつもへこへこと他人の顔色をうかがう……それでも将来見えるかも知れない一条の光にしがみついて生きてきました。


 自分の家には、子供の頃から、絶えず争いがありました。父と母は、おもてでは仲良くふるまっておりましたが、ひとたび家に入ると、ささいなことから喧嘩をおっばじめるのです。そうなると争いの飛び火は自分のような子供たちにも降りかかり、怒鳴られ、殴られ、下手をすればおまんまの食い上げということもありました。

 自分は、なんとかこの紛争を食い止める術はないものかと、いつも頭をひねっておりました。


 そこで考え出したのは、お笑いでした。


 きっかけはある日の夕食でした。いつものように犬も食わない夫婦喧嘩が始まりそうになりました。咄嗟に自分は、

「なんでやねん」

 と、まるで関西芸人のように父親の頭を軽くはたいたのです。すると両親は一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったようにきょとんとしました。それから、どっと爆笑したのです。自分も彼らに吊られるように大声で笑いました。その日、寝るまで両親は喧嘩をすることなく、自分は安らかにいることが出来ました。


 何でもいいから笑わせておけばいいのだ。その日、自分はそう悟りました。お笑いこそが、自分を取り巻く小さな世界平和を維持するための、唯一の手段となったのです。



 中学生の時に、両親が離婚すると、自分は大阪の親戚の家に預けられました。新しい環境になっても自分にとってお笑いは一番頼りになる処世術でした。

 ところが、大阪という町はお笑いのレベルが高く、また評価もシビアだということに気づきました。後に知り合った東京の芸人が「大阪でやるのは怖い」と言ったのがうなずけます。

 なにしろ、ただ関西弁をしゃべっているだけで面白いのです。大阪でお笑いを通用させるには、関西弁のマスターは必須でした。それで自分は必死に関西弁を勉強しました。

 その努力が実って、自分は生粋の関西人とほぼ区別のつかないほどネイティブな関西弁を話すことが出来、二年生になるとクラスでお笑いネタを披露し、「おもろいやつ」という評判で人気者となることが出来ました。

 そんなある日、自分はクラスの女子に恋をしました。芳美という子で、自分にとってそれは初恋でした。友達に相談すると「お前みたいにおもろいやつは絶対大丈夫や」と背中を押され、ついに愛を告白することになったのです。ところが芳美は突き放すようにこう答えたのです。


「あんたとは、笑いがちゃうねん」


 。その言葉は自分の胸に突き刺さりました。決定的な価値観の違いを突きつけられ、「あなたと私は水と油」だと宣言されたのです。まだ、、と言われる方が随分楽だったことでしょう。

 しかし自分は諦められませんでした。もし自分か油なら水になりたい。そこで、芳美の笑いのツボは何か、じっと観察しました。見てみると、彼女はよく笑う人でした。友達のさり気ない会話にも、笑って返すのです。しかし、それは心からの笑いでないことに気づきました。それは自分がお笑いを処世術としているように、彼女は愛想笑いを処世術としているに過ぎなかったのです。

 ところがある日、芳美がスマホをみながらケタケタ笑うのを目撃しました。そっと彼女の背後にまわってみると、それはパイポ長介というお笑い芸人の動画でした。

 家に帰ってから、パイポ長介の動画を片っ端から見てみました。それは、今まで経験したことのない、斬新なでした。真似しようとして出来るものではないとわかった自分は、パイポ長介に弟子入りする決意をしました。しかし……

「ワシ、弟子取る気ないんや」

 当のパイポ長介はまともに取り合ってくれません。

「そこを何とか、お願いします!」

 粘りに粘った結果、中学を卒業してから一旦出直してこいと言ってもらえました。


 卒業式が終わると、自分は芳美を体育館裏に呼び出しました。

「パイポ長介に弟子入りするんや。ごっつ修行して、いつかおまえを笑わせたるわ!」

「寝言は寝てゆうて。私があんたのギャグで笑うわけないやろ」

「ゆうたな。もし笑ろたら……俺と付き合ってくれや」

 芳美は「アホちゃう」と言い捨てて去って行きました。


 中学を出た自分は、パイポ長介の住み込み弟子となりました。しかし、弟子とは名ばかりで、実際には身の回りの世話係でした。弟子は取らないと言っていたはずなのに、パイポ長介の自宅には、同じような世話係がたくさんいたのです。

 パイポ長介自身は家事には一切手を付けることはありませんでしたが、料理、掃除から整理整頓まで細かくこだわりがありました。しかもそれらにあらかじめ指示が出されることはなく、それでもパイポ長介の思い通りにやらないとこっぴどくどやされました。それで、あらゆることを兄弟子から聞いて学んでおかなければなりません。つまり、師匠だけでなく、兄弟子に気に入られる必要もあったのです。


 そうして何年も、地を這いまわり泥水を飲むような下積み生活を続けたある日、とある芸能プロダクションから誘いがありました。同プロダクションの芸人とお笑いコンビを組まないかというのです。師匠のパイポ長介はもともと自分にさほど目をかけていなかったこともあって、すんなり行かせてもらいました。

 そしてクウネルところという芸名をもらい、相方のスム所と組んでメジャーデビューしました。なかなか順調な駆け出しで、テレビの出演も増え、町を歩けばサインを求められるほどになっていきました。

 自分はいよいよお笑い芸人として大成していく……そう思った矢先のことです。


 相方のスム所が轢き逃げ事件を起こし、逮捕されてしまったのです。自分は事故とは無関係だったにもかかわらず、マスコミからしつこく追いかけられました。予定されていたテレビ出演、CM撮影は全てキャンセル。お笑いコンビ「クウネル所・スム所」は完全に檜舞台から干され、世間様の恥さらしとなりました。


 お笑い、失格。

 もはや、自分は、お笑いで稼げなくなりました。


 事務所もクビになり、師匠のもとに帰るわけにもいかず、自分はフリーのピン芸人として地道にやり直すことにしました。

 フリーになって最初のライブ。案の定閑古鳥が鳴いている。わかってはいたけどガッカリする。それが芸に出ないよう、気持ちを引き締めていると、一人の客が席を立ち、ステージに近づいてきました。よく見るとそれは……

「芳美!?」

 そうです、初恋相手の芳美でした。

「そや。あんた、中学卒業ン時の約束、忘れてないやろな」

 その時、心の中の何かが弾けました。

「忘れるわけないやろ。この日のために頑張ってきたんや。死ぬほど笑わせたるから、覚悟せぇや!」


 芳美は「アホちゃう」と言い捨てて、客席に戻って行きました。

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