どろどろ

内野紅

どろどろ


 緊張でわずかに震える手で、レバーをひねる。温度は四十度。いつもと違う水圧のシャワーが、ここが家ではないことを改めて知らせてくれる。

 渋谷区円山町のホテル『コア』202号室。行き慣れないラブホテルの広い浴室で、私は一人、シャワーを浴びている。髪の毛はアメニティのヘアゴムとシャワーキャップでまとめてガードし、メイクした顔にかからぬよう、首を上に傾けた。予約の二十時まで、あと三十分ほどある。これから起こる出来事を想像し、下半身を念入りに洗う。強い洗浄力を持つボディソープのせいで、チクリとした痛みが走り、私は慌てて泡をシャワーで洗い流した。

 “彼”を出迎えるには、どんな服装がいいのだろう。もう一度洋服を着直すのもなんだか不潔な気がするし、バスローブはやる気満々のようで少し気恥ずかしい。わずかな葛藤ののち、清潔感に勝るものは無いだろうと薄っぺらいパジャマ地のバスローブを羽織った。髪の毛を整え、シャワーの湯気で崩れてしまったメイクを直す。リップグロスを塗り終わったタイミングで、バスローブにばっちりメイクという、ちぐはぐな自分と目が合った。ワクワクと緊張がシャッフルされ、いつもの自分よりハイになった顔がそこにある。私は今日、とんでもないことをしでかそうとしているのかもしれない。「今ならまだ引き返せる」わずかな迷いが生まれた瞬間、ドアのノック音が鳴り響く。

 はっと我に返って部屋の入り口に駆け寄り、ドアを開ける。

「サクラさん?はじめまして」

 周囲に聞こえないよう小声で私に挨拶をするその男は、女性用風俗セラピスト、レイだ。


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 生まれてから二十七年間、私はずっと”真っ白なサクラちゃん”であることを強いられてきた。真っ白でなくてはならないことをはっきりと意識し始めたのは小学生の時だ。当時のクラスメイトが学校に官能小説を持ち込んだ。はじめは男子の間で回し読みされ、小説内の台詞を授業中に面白おかしく叫ぶことが流行った。女子は「男子、ちょっとやめてよ」と言いながらも、放課後には私を含むクラスの半数以上の女子がトイレに集まり、こっそり読んだ。当然その小説はすぐに教師に見つかり、保護者会まで開かれるほどの大問題となってしまった。

「みんなで読んだんだよ」保護者会から帰った両親にサクラは読んだのか問われると、悪びれもなく答えた。「みんな」という免罪符を使えば、大したお咎めはないと思っていた。しかし私の予想は外れ「そんなことに興味を持つなんて、汚らわしい子ね」と母に罵られた。父は黙っていた。それ以来、母は私が買う漫画や小説、ドラマなど全て事前にチェックし、許可が下りるまで観ることを許さなかった。まだ観ていないものでもキスシーンやそれ以上の描写があろうものならひどい癇癪を起こすこともあった。

 母の検閲は、私が中高一貫の女子校を卒業するまで続いた。流行りの恋愛ドラマは全て観ることが出来なかったため、クラスメイトの会話についていくことは出来なかった。母の検閲のことを耳にしたクラスメイトの誰かが私を「箱入り娘のサクラちゃん」と揶揄したことをきっかけに、私のキャラクターが確立してしまった。だが母の癇癪を防げるのならそれも悪くないとどこかで思っていたし、わざと誇張して純粋無垢を演じることもあった。その後エスカレーター式で大学に進学するも、半数以上が内部生という環境では何も変えることは出来ない。私はより一層”真っ白”であろうと意識した。「サクラ、○○って知ってる?」とわざと卑猥な言葉を私に当て、首を傾げる姿を周囲は喜んだからだ。インターネットなどで知識を得て一通りのことを理解していたつもりだったが、純粋無垢を演じる以外で周囲との関わり方を私は知らなかった。

 社会人になって、生まれて初めての彼氏と生まれて初めてセックスをした。「サクラみたいな女性をずっと探していたんだよ」彼はそう言って私を抱いたが、つまるところ処女で、自分好みのセックスが出来るような女性を探していたのだった。大きな主張はせず、相手の主張に淡々と従う女性。決して自分から何かを要求しない女性。私が自分の手で、異性にそう思われてしまうキャラクターを作り上げてきたことに絶望した。自分で自分に呪いをかけていたのだ。そんな自分を壊してしまおうと彼との情事で思うがままに声を出し、思うがままに動いてみても、

「サクラちゃんはそんな猿みたいな真似、しなくていいんだよ」彼は笑った。動物園でライオンの交尾を見ているかのような笑いだった。

 私は一生、きっとこのままだ。真っ白なミルクのように性に染まっていない女を演じ続けていかなければならない。だけど、一生に一度でいいから、誰も知らない私を知っていてほしい。心ゆくまで声を出してみたい。背中に跡がつくほどに抱かれてみたい。こんな真っ黒な欲望がブラックコーヒーのようにミルクに溶け合い、どろどろになっていく様が見たい。それは、何色なんだろうか。それは、綺麗なんだろうか。


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 ホテルのソファに座る私の右隣に、レイはスッと腰掛けた。綺麗に染まったアッシュブラウンの髪は襟足あたりで揃えられ、丁寧にセットされている。長い前髪から覗く目は細めだが、濃いまつ毛がそれを色っぽく見せていた。黒のセットアップから伸びる少しがっちりした手は爪がツヤツヤしていて、これは職業柄なんだろうかと緊張でうまく回らない私の頭は考える。

「改めまして、レイです。今日は呼んでくれてありがとう」完璧な笑顔だった。クールな顔立ちをしていると思っていたが、笑うと子犬のように可愛らしい雰囲気を漂わせる。危険な人だ、と私は直感的に思う。笑顔と真顔の間にふと見せる少し寂しげな瞳に、取り込まれそうだった。

 カウンセリングとして色々と聞かなきゃいけないから、と添えた上でレイは私について尋ねる。どんなことをして欲しいのか、どんなことは嫌なのか。そして、どこが性感帯か。自分の欲求とは裏腹に、私は全ての質問に「えっと、お任せで」「なんか、ふつうでいいです」としか答えられなかった。して欲しいことなど山ほどあるのに、いざ彼を前にすると何も答えられない。そんな私の緊張を悟ってか、レイは「ちょっとごめんね」と言って私の肩をそっと抱き寄せた。私の額がレイの首元に当たる。「落ち着くまで、ちょっとこうしていようか」と囁いた。彼の首元は、ほんのり甘い香りがする。男性の香水は苦手だった私が、この香りならずっと嗅いでいたいと思うほどだった。いい香りですね、とレイに声をかけると、ありがとうという言葉と共に、肩を抱く腕の力が少し強まった。


 レイが浴びるシャワーの音が止まると、いよいよ”施術”が始まった。

「ガウン脱いで、うつ伏せになってくれる?」と私に促すと、レイはオイルマッサージの要領でカラダに触れていく。ふくらはぎから始まり、太ももや背中。私の身体のあちこちに触れる、レイの手はとても温かかった。背後で動く彼の表情は見えないが、「手が温かい」私はひとりごとのように呟いた。レイはすぐに、俺は筋肉質だから手が熱くなるんだ、と教えてくれた。うつ伏せのまま振り返ると、いつのまにか上裸になっていたレイと目が合う。大人しそうな顔とは対照的な、筋肉質の身体だった。照れたように笑うレイの顔が、少しずつ私に近づく。振り返る私の顎に手を添え、レイは私に優しく口付けた。

 温かい彼の手がだんだん、私の秘密を暴いていく。先ほどまでの緊張や、今日逢ったばかりであることすら嘘のように、私の心はレイに忍び込まれていた。時折私の名前を呼ぶ彼が、なぜだかとても愛おしく、自分でも聞いたことのないような声を上げてしまう。オイルなのか自分から溢れてしまったものなのかがわからなくなるほどに、そしてそれすらどうでも良くなってしまうほどに、私はどろどろに溶けてしまっていた。


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 レイは施術が終わると、汗ばんだ私の身体をシャワーで流してくれた。ぼうっとした頭のまま、シャワーの水が流れる排水溝を見つめる。私が自分にかけた”純粋なサクラちゃんの呪い”も、一緒に流れていく気がしたが、明日になればまた同じ呪いを自分にかけてしまうんだろうと自嘲した。

「どうしたの?何考えてるの?」肩周りのオイルがしっかり落ちているか確認しながら、念入りに私にシャワーを当てていたレイが尋ねる。


 レイを、また呼びたいと思った。だけど同時に、今日を超える夜はもう無いと思った。それだけ私の心の、鍵を何重にもかけた秘密の部屋に閉じ込めてしまいたいほどの特別な夜だった。

 不安そうな瞳をするレイにたまらなくなり、「なんでもない、ぎゅってして」と呟く。


時間を買う女と買われた男が抱き合う浴室には、シャワーの音だけが響き続けた。


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