五感の先にあるセカイ

笛吹ヒサコ

五感の先にあるセカイ

 最初は、味覚だった。


 遅めのランチで食べていた好物のチーズバーガーの、最後の二口だった。

 予兆もまったくなく、あまりに突然のことだったし、二口程度だったから、(あれ?)って軽い違和感しかなかったのを、覚えている。スマホをいじっている間に、気のせいだろうと忘れそうになる程度の。残りのコーラを一気にすすった瞬間、違和感では済まされないと、本能的な恐怖に総毛立った。

『味がしない』『味覚がおかしい』『味覚異常』『味覚異常 治し方』『味覚 病院』……その日のうちにスマホで検索したワードたち。SNSにも冗談ぽく異常を上げたりもした。その時点では、まだちょっとした日常のイレギュラーでしかなかったのかもしれない。一晩では無理だったが、二、三日すれば治るだろうという、根拠ない希望にすがりたかったのかもしれない。

 おおむね平和な現代社会の一般的な日常は、『何を食べても味がしなくなる』それだけで、悪夢になってしまった。その悪夢も、全然大したことない序の口だったと、すぐに思い知ることとなった。


 次は、嗅覚だった。

 その次は、触覚。それから、聴覚。


 身体的異常ゼロで、徐々に五感を消失していく奇病。

 触覚が消失した頃から、日常生活を続けるのは困難になった。職はとっくに失っていた。


 病院ではなく研究施設と呼ぶのがふさわしい非日常的な場所でお世話になっている。治療法なんてないし、前例がなく断言はできないと前置きしつつも、治る見込みはないと言われている。

 快適とは決して言わないが、不自由なく生かされていると思う。視覚以外の五感が消失して、不自由なくというのもおかしな話だが。


 まったく笑えないのは、精神的にも健康そのものだということ。狂人になってしまえば、楽になるのではとネガティブな考えがよぎるが、よぎる程度で、ネガティブ思考に病むことすらない。

 残された視覚から得る情報のみで、淡々と生かされている。


【ご気分はいかがですか?】

 変わりありません。

【なにか困ったことはありませんか?】

 ありません。

【本日の検査ですが……】

 はい、わかりました。


 淡々と生かされている。

 どうも、五感だけでなく感情の起伏までなくなっているようだ。最後に笑ったり泣いたりしたのは、嗅覚が消失した頃だったと思う。たぶん。

 治療に一貫ということで、日々感じたことを日記にするように言われているけど、最近は何を書けばいいのかわからなくなってきた。


 残るは、視覚。

 味覚が消失して、ちょうど一年が経つ。

 視覚も消失するのだと、根拠もなく決定事項として受け入れていた自分が、なんだかおかしかった。


【明日、面会に来る妹さんから、なにか差し入れはないかと。ありますか?】

 特にありません。


 看護師の青年が端末に表示した問に、聞こえもしない声を出して答えた瞬間だった。


 視力が消失したのと同時に、弾き出されるようにして肉体から解き放たれた。五感のどれでもない感覚から知覚する。素粒子となった瞬間から、ありとあらゆる情報を知覚し理解できてしまった。

 LINEのスタンプのような他愛のない情報から、核保有国の国家機密のようなヤバい情報まで、同列に理解した。

 もちろん電子的な情報だけではない。

 いまだに解明されていない人体の仕組みから、地球上の生命体のこと、それから地球の成り立ち。ダーウィンの進化論は間違っていた。

 地球上のあらゆるブラックボックスの中身すべてを言語化し理解するなど、今の人類には到底無理というものだ。地球上のことをすべて知りつくしてから、宇宙へと飛び出した。宇宙を知覚し理解しながら、いよいよ宇宙の果てに到達する寸前で、素粒子”彼ら”に遭遇した。

 ”彼ら”は、未来の人類だ。

 五感消失の奇病は、過去に触れようとした”彼ら”と予期せぬ接触してしまったのが原因だった。ようするに、事故のようなものだったらしい。”彼ら”は丁重に謝罪し、”彼ら”の時代である未来に来ないかと誘ってくれた。

 ”彼ら”のセカイは、とても幸福で満ち足りているらしい。それはそうだろう、肉体から解放されるということは、苦痛からの解放でもあるのだから。

 とても魅力的な申し出だが、丁重にお断りし”彼ら”と別れた。”彼ら”はとても残念そうでもあった。



 そうして、肉体に還ってきた。


【明日、面会に来る妹さんから、なにか差し入れはないかと。ありますか?】


 瞬き一回分の出来事だった。


「――りません。あ、やっぱり、チーズバーガーが食べたいと伝えてください」


 突然、微笑みかけられた看護師が驚くのは当然だろう。とはいえ、今まで真面目すぎるほどに真面目に職務をこなして接してくれた彼が、初めて見せる激しく動揺する姿が、おかしくておかしくて「プッ」と吹き出してしまった。


「あ、あの……」

「いい声、してますね。……どうやら、感覚が治ったみたいです」

「そ、そうですか。……せ、先生、呼んできますね」


 ナースコールで呼べばいいものを、動揺しすぎているせいで、彼はコントのようにあたふたと病室を飛び出していった。


「やれやれ」


 起こしていた上体をベッドに沈める。

 沈みこんだ体を包むシーツの肌触りの良さに、ここはいいところのホテルではないかと勘違いしそうになるじゃないか。実際には、非合法で倫理的に問題ありまくりの人体研究施設だと、目覚めた今でははっきりと理解している。

 肉体に戻ってきても、あの感覚はなくなっていない。

 こうしている間にも、全宇宙のあらゆる情報を知覚している。干渉もできる。今この瞬間に、第三次世界大戦の引き金を引くのだって、造作もないことなのだ。


「これから、どうするかなぁ」


 一刻も早くここを出るのは、当然として。

 要領を得ない報告しかできない看護師を叱り飛ばしながら、走るギリギリ手前の速度でこちらに向かってくる医師をちょっと脅せば今日にでも出ていけるだろう。そうしなくても、人知れず出ていくこともできる。記録上どころか、記憶上からも、ここにいた自分の存在を抹消するのも簡単だ。簡単すぎてつまらないほどに。

 ありとあらゆる選択肢(人類滅亡の選択肢まで)を握っていると実感がわいてくると、声を上げて笑った。


「これから、どうするかなぁ」


 施設に世話になる前に、仕事は辞めている。

 住んでいたアパートも引き払っている。

 家族はいるが、あまり迷惑はかけたくない。


「どうするかなぁ!」


 不意に、スーパーヒーローになるのも悪くない気がしてきた。来る二〇四五年の特異点シンギュラリティに干渉しない程度に。


「とりあえず、チーズバーガーだな」


 それからだ。

 それから、選択しようじゃないか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

五感の先にあるセカイ 笛吹ヒサコ @rosemary_h

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説