時間には色がない
「先生! 手伝ってください、空いてるなら、できるだけ多くの人が助かるように、たのむから!」
ばきゃり、と音がして、格子の一つが外れた。加わった稲村先生が全体重をかけたのだった。普段なら役に立たない恰幅の良さが、いまは一際頼りになると思えた。
「今は外に出るのが優先です。消防の到着までまだ少しかかりますから」
一つ目が外れると分かれば、ほかも容易い。透たちは協力し、数人で次々と格子を外していく。
黒煙と炎の飛沫によって酸素が薄くなっていく中で、できうる限り早く。穴が人が通れるほどになったとき、透は外した棒の一つを抱えて、窓を破った。まるで洞窟から出たように、夕焼けの太陽が眩しく思えた。
「深月、早く、先に出て」
びっしょりと汗で濡らした顔を深月に向け、縁に散らばっている破片を避けてから透は言った。力なく座り込んでいる深月の手をとって、窓の向こうへと押し込む。深月は黙り込んだまま、鼻をすすり、透に従った。
◇◇◇
事件のあと、透は消防署から表彰を受けた。大火事になった体育館から率先して脱出したことで、多くの人を助けたからだった。倒れ込んだ潤は、深月の次に外に出ることができ、無事に治療を受けられた。
あの場にいた人間とモノは順番に炎の中から抜け出して、後遺症すら残らなかった。ただ一人、火事を起こした犯人である、高梨先生を除いて。
老朽化と生徒たちの心の安全を免罪符にして、体育館は建て直された。それでもショックを受けた生徒は多く、調査と復旧のために休講している期間には、一人ずつカウンセリングが行われた。
数ヶ月もすればモノ――先生たちは、まるで事件がなかったかのように元通りになった。
事件が終わっても、進路は決めなければならなかった。日々は進んでいった。深月は学校を休みがちになったが、どうにか元の生活を取り戻した。透はそんな美月の様子を見て、心配していた。
「深月、おれはやっぱり、人間のまま生きるよ。今は進学で、これからまたモノになる選択はできるけど、このまま生きていこうと思う」
学校が終わったあと、夕焼けの中に、二人は取り残されていた。いつも一緒に帰っている帰り道をとぼとぼと歩き、二つの影を落としていた。街の中は静かで、整っている。雲の形がよくわかる日だった。
「感情を持たないのはさ、人間っぽくないよ。つらくても、悲しくても、その感情こそが人間らしさだって、あの事件があってから、前よりそう思うようになったんだ」
うん、うん。と、変わらず深月は聞いている、そのはずだった。少なくとも、透はそう考えていた。変わらない意志を持っていることぐらい、分かっているだろうと。深月は今まで押さえていた何かを、透に見つけてもらったと感じていた。
けれど違う。それはまだ自分の中に隠してあるものだった。本当はずっと隠し通しているつもりだった。わなわなと震えている自分の肩を、見なくていいようにするつもりだった。言いたいと思う自分の気持ちを、認めないつもりだった。
空のずっと向こうから、暗い雲が近づいてきていた。
「透はさ、いいよね」
「なにが?」
「だって自分で考えられるから。わたしだってそうやって生きていきたいよ。自分で考えて、自分で選んで、自分で行動して。悩んでも苦しくてもやり続けて、なにかを追いかけていきたいよ。透みたいに、人間として生きていきたいよ」
「だったら」
透は深月の前に立った。立ち止まり、深月が歩いていく道を塞ぐように。
「一緒に人間として生きようよ。やり方はいくらでもあるって分かったんだ。モノみたいに効率的には生きられないけど、それでも生きていく方法はあるんだ。だったらそれを探していきたい。うまくできないかもしれないけど、不安になることないよ。一緒に生きるって……」
「わたしは透とは違うんだよ!」
目の前に立つ透に向かって、深月は叫ぶ。
「透はずっとそうだよ。付き合う前からそう。事件があってもなくても、わたしは考えてた。透みたいになりたいと思ってた。でも」
「透はわたしとは違う人間だよ。人間の、なにかわからないけど、醜さとか、幼稚なところとかわかってて、でもそう言えるんだ。わたしには自信がないよ。事件が全部じゃない。わたしが透と一緒にいて感じたんだ。最初はついていけると思ったよ。うまくできると思った。いまは違う。人間として正気を保ったまま生きられるって、いまは信じられない」
「でも」
「そう、それでも良いって言えるのが透なんだ。構わないって。わかってる」
陽が暮れようとしていた。太陽のすべてが隠れてしまうまで、残された時間はないようだった。深月が静かに横を通り過ぎていって、透はその影を、目で追いかけていた。
◇◇◇
倉石深月はよく知っていた。時間には色がない。
過ぎていった時間は決して元には戻らない。過ぎゆくさまには優しさも冷たさもない。彼女が何をしようとも、まったく何もせずとも、それが持つ大きなうねりを止めることはできない。
だから、黙って手紙を書いていた。すらすらとシャープペンシルをおどらせ、書き終わってからやっと彼女は気がついた。手紙と言えるほど文章めいたものを書いていなかったことに。彼と過ごした時間は、一枚の便箋にまとめるには長過ぎる。どれだけ言葉を綴ろうとも、感謝を書き連ねようとも、一緒にいた時間よりも大きな意味を持たせることはできなかった。
小学生の頃から使っている学習机に座り込んで悩んだ。深月がどれだけペンを叩いても、ほかの白紙に殴り書きをしようとも、いい案は浮かばなかった。束の間、喉元までそれが出かかって、左耳へ髪をかけ直す。けれどそうするたびに、こんなことを書いたら嫌われてしまうかもしれない、と考え直した。クリーム色の封筒の中に便箋を差し込む。深月が買った手紙は新品だったはずなのに、封をする頃には、くたびれたように見えた。
Case.1 モノクロの雨 同級生が感情を失くした場合 人工無知能 @NotAI
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