黒煙
「ねえ、なにこの匂い」
眠くなるような全校集会が終わって、深月はすぐに気がついた。透はたしかに、と言った。こぼれたオイルのような匂い。車を連想させる。
数百人が一同に集められている体育館には、ほかにも異臭を訴えている生徒がいた。扉を叩き、トイレに行きたいと騒ぎ立てている生徒もいる。空気は張り詰めていた。
「苦情は受け付けました。ただいま異臭について調べていますので、皆さんはこのまま待ってくださいね」
倫理の先生が、ほかの先生から話を聞き、並んで待っている生徒たちへ伝えた。淡々としていて、焦りはない。けれどそれは、生徒たちの不安をないがしろにした。
「なんの匂いだろう」
「変だよね。先生が話し終わるまでは、匂いは気のせいだと思ってた。ストーブかな、とか」
「まだストーブを使うほど寒くない」
「だよね。扉閉められちゃってるのかな、だれも外に出られないって――」
深月が話す途中で、きゃあ、と悲鳴が上がった。その場にいた全員が同じ方向を向いた。悲鳴は生徒だった。生徒たちの背後、倉庫から黒煙が立ち上っていた。声を皮切りに、かろうじて列を維持していた生徒たちは、一斉に外へつながる扉の方へ駆けていく。深月と透はついていくほかなかった。
「皆さん、換気はできていますから、まだ動かないでください、落ち着いて……」
担任の先生が張り上げた声で話しても、だれ一人として聞き入れない。パニックはどんどん広がり、力任せに扉を蹴破ろうとする生徒も出てきた。
深月と透も、列から抜けて扉へと駆け寄っていく。透は前へと出ていき、ガチャガチャと引き戸を揺らした。鉄でできた扉は重いが、それだけではなかった。
「鍵かかってる?」
咳き込みながら近づいてきた潤が、透に訊いた。
「いや、ドアの鍵は開いてる。でも、外から何かで留められてるらしい」
潤が同じように扉を揺さぶっても、それが開く気配はなかった。
原因や、理由が分からなくても、三人は体育館の中に閉じ込められていて、火事が起きていることは分かっていた。他の生徒たちのように取り乱したり、混乱することはなくても、外に出られなければいずれ呼吸ができなくなってしまう。先生たちは忙しなく動いていたが、背中は頼りなく思えた。
「モノになんてならなくていい。ここで、みんな人間のまま、終わるんだ」
混乱の中心から、彼は現れた。ステージの上に立っていた。締まりきっていないネクタイをつけ、ぐしゃぐしゃになったシャツを着ている。紺色のメガネをかけている彼は、先生だった。誰に言うでもなく、ぼそりと呟いていた。
深月は、その言葉を聞いた。屋根へと溜まっていく黒煙よりも、もっとおぞましいものを垣間見た。ぞくり、とした感覚と共に、背筋が凍ったように思った。今にも泣き出しそうになったが、透を見てこらえた。ここで取り乱すわけにはいかない、冷静にならなければ、そう思った。
「高梨先生。どうしたんですか、今日は出勤日ではないのに。それから、シャツを直して、ネクタイは締めた方がいいのではないでしょうか」
倫理の稲村先生が、不相応なほど冷静に訊く。視界がグレーに侵されて、あちこちから乾いた咳が聞こえた。
「おっしゃる通りです」
高梨先生は、稲村先生に言われた通り、シャツの第一ボタンを閉め、ネクタイを締め直した。ゆっくりとステージを歩き、全員に聞こえるように言う。
「どうしているのか! 稲村先生には分からないでしょうね。人間ではないですから。僕たち人間の感情は、モノには分からないんです。いいえ、分からなくていいんです。先生のせいじゃありません。私が勝手にやったことですから、あなた方はただ見ていればいいんです」
「火事の原因を、知っているのですか?」
「知っているもなにも、私がやったことです。みんな、モノになんてなりたくないでしょう。自分で選択をしていたいでしょう。でもモノにならなければ、能力を発揮することは難しい……だったら、ここで終わりにすれば良いんです。そうすれば、人間のまま生きられるということになりませんか?」
「はあ。言っている意味はよくわかりませんが、とにかく、消防と警察には連絡してますから。不満があるなら相談したり、直接、暴力に訴えるならまだ分かりますが、こんな間接的で中途半端なやり方では、誰も相手にしませんよ」
「うるさいなあ、まだこれで終わりじゃないんですよ。あなた方が人間にしていることを、もっと自覚するべきです。今までを振り返ってみてください。稲村先生は同期ですよね。でもあなたは授業を受け持っていて、学年主任を預かるまでになっている。憎らしい。私はまだスタート地点から進めていない。これがモノと人間の扱いの差なんだ。だから、もうモノは必要ない――」
爆音とともに、衝撃が体育館を襲った。また悲鳴が響いた。伝う振動は地震や風ではなく、もっと瞬間的で、強い。新しい黒煙が根本から燃え上がり、壁を伝って天井を目指していた。
煙の大元であるステージは、真っ黒な煤が、弾けたように残っている。立っていたはずの高梨先生はどこかに消えていた。舞台幕は完全に燃え落ちて、溶け出した色が煤の上へこびりついていた。中心にあったはずの校章は千切れている。
これで黒煙は二つになった。燻っている倉庫と、弾けた舞台。
「爆発したんだ、ガソリンか何か撒いてたのか」
潤が二人に言った。透には頷く余裕があったが、深月は首を振った。不安に飲み込まれていた。考えないようにしていたことが目の前で次々に起こっていたせいだった。冷静でいられるのは限界だった。
「どうしてこんなことするの! なにがしたいの! どうして、どうして」
叫び、呻いて、それから泣いていた。潤と透は目を合わせた。透が制服のポケットに手を入れると、ずっと仕舞いっぱなしになっている余り生地があった。
「大丈夫だから。とりあえずこれを口にあてて。なるべく煙を吸い込まないように」
泣いている深月に戸惑いながらも、透は静かに言った。それから、扉ではなく窓へと視線を移す。
体育館にも窓はあった。けれど、手前には割れないように格子が取り付けられている。幸いだったのはそれが木製であることだけだった。
「潤。どうしたら窓を破れる?」
「倉庫に行けば平均台とか、使えそうなものがあるけど、今から取りいくのは危ない、今ここにあるものだと……」
「それだ。この格子を外そう。それで窓を破るんだ」
透は黒煙が体育館を満たす中で、パニックになった生徒たち全員に呼びかける。
「聞いてくれ! これを外すのを手伝って欲しいんだ。ここに集まっていっせいに力をかけよう」
声は多くには届かなかった。けれど数人の男子生徒が集まった。「わかった」「手伝うよ」それを聞いて、十分だ、と透は言った。
掛け声をかけて、格子の一つに全員で力を入れる。体重を預けて、いっせいに引っ張った。木製とはいえ、中途半端なつくりではなかった。新しくなくとも、窓を守り続ける頑丈さがあった。
それでも力を入れ続ける。ぎしぎしと格子がひしめく。繋がっている部分が割れれば外れるはずだった。
透の隣にいた潤が、咳き込んで倒れた。息を吸うたびに音が鳴っていた。熱風でかいた汗を、透は制服で拭った。けれど格子は、びくともしなくなっていた。
......続く
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