そのときに彼は、歯軋りをしていた
深月は体育館から段ボールの山を眺めながら、早くも自分が実行委員を選んだことを後悔していた。
「うるせーな、自分でやるって言ったじゃん、しかも分かってるじゃん。おれは楽しいから最高な気分だ」
実行委員が決まり、文化祭の一ヶ月前になると、授業が終わってから、毎日のように駆り出されるようになっていた。クラスごとの出し物の発表、会議、荷物運び。その忙しさは、誰も手を挙げなかった理由そのものだった。この状態になってしまえば、やるべきことは順番待ちの列をなして、文化祭が終わるまで減らない。差し迫った日程によって、時間が圧縮されるように目まぐるしくなる。
「絵描くって言ってたのに、一つも描いてない。潤、あいつわたしのこと騙したよね?」
「たしかにな、おれもそう思う。部活のほうをやりたかったんだろうな。おれの秘書は頭がいいから、処世術に長けてる」
「はいはい。透の秘書は頭がいいねー。わかったからこれ持って」
深月は、飾りつけのための小道具が入った段ボールを、透の両手に持たせる。人の気も知らないで、と言葉も込めて。どさり、と音がした。意外な重さに彼はぎょっとして、しかしなんとか持ち堪える。段ボールの角にある大きなシワが一つ増えた。
「あぶね、これでお化け屋敷をつくるのか。もうすでに怖い」
負の原動力によって荷物を運ぶ深月の横で、透は無邪気に笑っていた。両手が塞がったまま、傾けて器用に荷物が入った箱の蓋を開けている。彼は楽しくて仕方がないという顔をしていた。鼻歌が聞こえてくるように朗らかで、大変さすら楽しさの内側にあるようだった。
深月がため息をつくたびに、透の活動的な表情が目に入ってきた。羨ましくてたまらず、憎くて仕方がなかった。二人でいることが当たり前になっていった。数週間のエネルギーに満ちた毎日は、瞬く間に過ぎていく。
文化祭の前日になると、小道具の製作が追いつかないことが分かった。壁のなるはずの段ボールに色を塗らなければならなかった。透は両手で顔尾を覆うほど不安がった。それから数人のクラスメイトと、潤に泣きついた。潤だけが断らなかった。
「やっぱ秘書は頼りになるなあ」
潤が近くにいると、透は打って変わっていつもの自信家になっていた。
「いいからちゃんと作って。透はさあ、潤を見習ってよ。部活切り上げて来てくれてるのに」
深月は彼をみてすぐに反応した。三人とも、違う段ボールにそれぞれの色を塗っている。すでに色は決まっていて、文字があるところはシャープペンシルで下書きが済んでいた。
「いやおれだって暇じゃないし。そもそも、深月は潤に騙されたって話してたじゃん」
「それはそれ、これはこれ。下書きができて、ぜんぶ嘘ってわけじゃなかったからいいの。透こそ、結局手伝ってもらってるのに」
「いや、僕も楽しいから良いよ。でも二人ともさ、ずいぶん仲良くなったね」
「「いやいや」」当の二人はそう否定した。それがまったく同じ声色だったように潤は思った。話しながら塗り進めていけば、二人にとってあれだけ重荷に思えていた準備は、みるみる進んでいった。
文化祭当日になると欠席者が出た。間の悪いことに二人同時で、布を被って驚かすお化け役のペアだった。空いた穴を補うために、実行委員はより多くの時間を屋敷の中で過ごすことになった。
お化け屋敷はさほど盛況にはならず、どちらかと言えば待機時間の方が長かった。それもそのはずだった。モノ化した人たちはほとんど娯楽に興じることはない。当然のように、来場者も少なかった。誰のせいでもない。楽しんで過ごしたくて来るというより、子供の姿が見られれば良いと考える親ばかりだった。
「深月はさ、なんで実行委員やるって言ってくれたの?」
布を被ったまま、透は深月に訊いた。お化けの顔が書いてある面が、彼女へ向く。黒い画用紙でできた口は裂けていて、不気味に笑っている。薄暗くても、懐中電灯のわずかな光でそれが分かった。
真っ先に思い浮かんだ答えは「透が訊いてくれたから」だった。けれどそれを口にすることはなかった。深月は自分が考えていることに赤面して、ふるふると頭を振った。透が布を被っていなければ、見られていたかも知れなかった。
「自分から行動すること、今までなかったし。委員会とか部長とかもさ、興味あったけど怖かった。でも、やってみたら意外と楽しいね」
「え、そうなの? おれは深月は自分で決めて生きてきたんだと思ってたのに」
自分で決めているのは透自身の生き方だと、深月はそう思った。こういうところで二人が分かり合えることはなかった。静かで、暗くなった教室の中で、声と、足音がした。次にやってくる人を脅かす準備をする。透が布越しに、もぞもぞと動いているのが分かった。
◇◇◇
気づけば、深月はことあるごとに彼を目で追うようになっていた。冗談だと思えるほど、透のことばかり考えるようになっていた。
初めのうち、深月の中にあった気持ちを否定しまったせいもあった。透が気になるなんてあり得ない、そもそも生きている世界が違う、あんな無鉄砲な人間とは付き合いきれないに決まっている。そう考えるたびに、彼女は透を気にする時間が増えた。
透が快活すぎるせいもあった。彼は学校に来れば、まっさきに深月に挨拶をしてから席に着き、昼休みには必ず話しかけにくる。それは文化祭が終わっても変わらなかった。また透と潤は、ちょうどいい距離感をお互いに保っていて、三人でいることも多くなった。
機嫌がわるく冷たい態度を取っても、反対に前のめりに身の回りの話をすべて話し尽くしてしまっても、彼はめげなかった。一度だけ、深月は昼休みに弁当を食べる場所を変え、透に黙って屋上へ向かったことがあった。けれど、彼女の居場所はものの数日で見つかった。むしろ透のほうが、深月に好意を持っているのではないかとすら思えた。
深月は、彼女はいないの? とできる限り自然に聞いたこともあった。秘密、と言われただけだった。楽しそうに笑っている顔だけが印象に残った。文化祭実行委員をやってから、潤を交えて、一緒に出かけることも増えていた。
「付き合ってください……!」
深月は身体の中に心臓が入っていることを認めた。昼休みの屋上だった。雲が流れていて、風が強い。気を抜けば何もかも飛んでいってしまいそうな日に、深月は心の中を打ち明けている。
だってこんなにバクバクしている。だってこんなにもドキドキしている。言葉にし、口にしている途中で、自分が何を言っているのか理解できずに、頭の中で繰り返してからまた口にした。一息で言えなかったせいで、吐いたはずの言葉は、ふたたび頭の中に戻ってきた。
「うん」
透はすぐに答えた。どうしてか、わるいことをしたときのような顔をしていた。彼は自分から告白したかったのに、ずっと言い出せずにいたのだった。その間も時間は経っていた。彼にとっては、深月に言わせてしまったように思えていた。
「えっと」
彼女は彼女で、彼の二つ返事をうまく理解できずにいた。それが本当だったのかどうか、確かめたくなった。
「付き合ってくれるってこと?」
「だから、うん、だってば。おれだってばかじゃないから分かる。でも本当は自分から言いたかったんだ。それなのに先越されたから、なんか、格好わるくないかな」
「いや、いやいやいや。そんなことないよ」
「ぜったい格好わるいって。くっそー、なんで言えなかったんだ」
透は頭をかいて、照れ臭そうに話す。深月は自分の番が終わったとばかりに、落ち着きを取り戻しつつあった。
「じゃあ言ってよ、いま。わたしも、透と同じように答えるから」
「え」
不意を突かれた透は、うつむいて、言葉にならない音を出した。深月は聞き返した。半分、ばかにしていた。いつも引っ張られている仕返しでもあった。迫られると透は快活でなくなることを、彼女は知った。もう一度、今度はちゃんと口を開く。
「付き合ってください」
透は顔をあげ、深月を正面から見て言う。彼女は何も言わない、答えられるほどの余裕はない。先に目を逸らしたのは、深月の方だった。びゅう、と音が鳴り、風が二人の髪の毛を揺らした。
◇◇◇
非日常だったものが、日々の中に収まっていく。倉石深月と笠原透が付き合い始めてから、二年が経った。当たり前のように時間が過ぎていったようにも、噛み合わない歯車が回り続けているようにも見えた。けれどそのどちらも、二人にとっては同じことだった。三年生になり、進路選択の時期がやってくる。
「一年のとき、倫理の授業でやったと思います。高校を卒業すると、ほとんどの人がモノになることを選びます。モノ化すると、仕事が割り当てられますから、それ自体が進路になるわけです。だからモノが進路でない人たちは、自分がどうなりたいかを決めてください。進学したい人たちもいるとは思います。モノになれば勉強をする必要はもうありませんから、大学を卒業してからモノになることもできます」
担任の女性教諭が、プリントを配りながら声を張り上げる。深月は先生が好きではなかった。声を張り上げなければ誰も聞いてくれない、と考えているような話し方をするからだった。
教室中に声を響かせるために、いちいち大きな声で喋る。しかも声色は甲高く、教室の外からでも聞こえるような声だった。モノ化の影響なのか、それを年中無休で変化なくやるのだから、深月はいまだに慣れない。
担任が声を張るたびに、たしかにクラスは静かにはなるのだが、反対に、声を張ってないときの言葉は誰も聞いてない。それが先生にとっても、クラスにとっても癖になっている。
「なんで西谷先生って、いつも耳がキンキンするような声で話すんだろうね」
深月は隣に座っている透に訊いた。クラスは三年とも運良く同じで、しかも奇跡的に隣り合った席にいた。
「声、小さいと聞いてもらえなかったのかな。モノになる前はもっと物静かなひとだったとかさ」
深月は頷いた。卒業が近づいてきても、透はいまだにモノにはなりたくないらしかった。担任へ進路相談したとき、「いま決めなくても良いですから。自分の人生です。慎重に検討しましょう」と言われた。
一年のときほどの破天荒さを発揮しなくなった透は、「いまは進学したいので、モノ化したいとは考えてません」と押し通して、その場をやり過ごした。もちろん前半は半分嘘、後半が言いたかったことだ。
担任の先生はモノの例に漏れず大人な対応をしてくれ、進路アンケートには、進学と記入して、事なきを得た。
「本当に進学する気なの? 進学する人なんてほとんどいないのに」
「うん。勉強したいとかあんまり思ってないけど、色んなこと知りたいなあって考えてる。でもやっぱり、そのあとでもモノになりたくはない。おれはそうやって生きていきたい。深月は?」
透が聞き返してきても、深月ははっきりと答えられなかった。進学かなあ、と曖昧な答え方をした。進路アンケートは白紙で提出し、担任の先生には「まだ時間はありますが、どちらを選ぶかは決めてください」と言われていた。進む道はかぎりなく不透明で、どちらを選んでもいいとすら思えた。
深月の頭の中には、透の喜怒哀楽がある。なんてことののない公園で見たまぶしい笑顔、風邪を看病しに来てくれたときの眉をひそめた心配の顔、集合時間に遅れたときの怒った顔。深月はそのすべてがあきれるほど愛おしく、脳裏から離れないことはよくわかっている。過ごした時間と、その思い出を消し去ることはできない。
「わたしがモノになったら、透はどうする?」
自分が彼の反応を試していることに、深月は透に言ってから気がついた。答えはすぐに返ってきた。
「深月がモノになっても、おれは自分の生き方は変えないよ。モノだから、深月と離れるってこともない。だけど、うまく話せなくなっちゃうときが来るのかもしれない」
「わかった、わたしもモノにはならないよ。進学する。透と同じ大学に行く」
「いいの? 僕も一緒に勉強できたほうが嬉しいし、楽しいだろうけど、自分で決めるべきだと思う」
「いい。わたしが、自分で、こうするって決めた」
深月の決意を確認した透は、ぱあ、と明るくなった。「やっぱりそのうち会社をつくれるようにならないとなあ」と言った。その表情を見て、深月はこれで良いんだと思えた。自分の選択が正しいのだと認めた。
「それでは、次の時間では全校集会がありますので、休み時間のうちに移動しておいてください。ホームルームは以上です」
◆◆◆
そのときに彼は、歯軋りをしていた。仄暗い体育館のステージ裏に、ぎしぎしと音が響いていた。仕方のないことだった。彼は目に見えるありとあらゆるものが憎くてたまらないからだ。
社会、人、システム、場所、環境、空の色、水の透明さ、ただよう空気、モノ。いまはすべてが憎悪の対象でしかない。かつては人間としての価値を信じていたし、感情は素晴らしいものだと信じていた。だからこそ、並んだそれらが覆ったときに、復讐しようと決心していた。
彼は都会にいながらも、四畳半のワンルームで一人暮らしをしている教師だった。けれども、国立学校の教師という名誉のある仕事でありながら、富めることはできなかった。
モノ化した周囲の教師たちと比べて、彼には継続的に能力を高めていく手段がなかった。知識も足りない。そもそも人間を教師として採用する例は多くなかったが、それはこの地域に限って、教師に適性があるモノが少ないためだった。
彼がうまくいくことはなかった。同期だったモノはすぐに職場に馴染み、学年主任を預かるまでになっていた。
一方で人間である彼は、そうすぐに環境へと適応できない。直接、何かをされているわけではなかったが、孤独感は拭えなかった。「人間はそれが限界だ」そう言われているとしか考えられなかった。モノたちはそんなことは気にしないし、関心すら寄せない。『合理的な理由』さえあれば、気を遣うこともあったが、それは彼にとってはむしろ腹立たしいことだった。
寝付く前に、彼はついに決心した。明日は全校生徒が集まる日だ。そこで、体育館に集まった人間たちを消してしまえばいい。そうすれば、彼らは誰一人としてモノになることはない。人間のまま生涯を終えるのだから。
彼は教師と生徒の全員が体育館に入り終えるのを見てから、鍵を閉めた。六つある扉の全てに。人間たちが出入りしている扉は、校舎に近い片側の二つだけ。もう片側には二つの扉があり、それとは別に、倉庫裏、ステージ裏から外に出られる勝手口があった。両側の扉には南京錠をし、最後の扉は内側から閉めた。
これで、もうここから外に出ることはできない。集会が終わるまでは、誰も気が付かないだろう。
......続く
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