Case.1 モノクロの雨 同級生が感情を失くした場合

人工無知能

分かった、やってみる、一緒に

 倉石深月はよく知っていた。時間には色がない。

過ぎていった時間は決して元には戻らない。過ぎゆくさまには優しさも冷たさもない。彼女が何をしようとも、まったく何もせずとも、それが持つ大きなうねりを止めることはできない。

 だから、黙って手紙を書いていた。すらすらとシャープペンシルをおどらせ、書き終わってからやっと彼女は気がついた。手紙と言えるほど文章めいたものを書いていなかったことに。彼と過ごした時間は、一枚の便箋にまとめるには長過ぎる。どれだけ言葉を綴ろうとも、感謝を書き連ねようとも、一緒にいた時間よりも大きな意味を持たせることはできなかった。

 小学生の頃から使っている学習机に座り込んで悩んだ。深月がどれだけペンを叩いても、ほかの白紙に殴り書きをしようとも、いい案は浮かばなかった。束の間、喉元までそれが出かかって、左耳へ髪をかけ直す。けれどそうするたびに、こんなことを書いたら嫌われてしまうかもしれない、と考え直した。クリーム色の封筒の中に便箋を差し込む。深月が買った手紙は新品だったはずなのに、封をする頃には、くたびれたように見えた。



◇◇◇



 講義室には学年の全員が集められていた。姉妹校の大学でも使われているこの大部屋は、大人数が入るように、席が階段状になっている。

深月から見える限り、机の上にはゴミ一つない。真っ白な壁のどこを見渡しても、汚れも埃もない。壇上に上がった倫理の先生が「今日は大事な話があります」と前置きをした。先生は大抵のことを大事な話だと言い切るからか、その言葉で姿勢を正す生徒はいなかった。モニターにはマイクを持つふくよかな顔が映し出されている。

 深月にとって、授業はこなすものだった。国立高校の教師はみな同じ顔に見えるし、受けたい授業なんかなかった。代わり映えしない教室、相変わらず騒いでいるクラスメイト、変化のない日差し。もしかしたら、動物園にいる檻の中に入れられた生き物たちは似たような心地なのかもしれない、と思った。けれども、卒業するためにはテストで赤点を取るわけにはいかない。

「作者の気持ちを答えよ」

 深月はバツのついた国語の設問を何度も読み返してみて、こんなの分かりようがない、と開き直ってさじを投げた。答えを聞こうにも、当の作家はとっくに死んでいる。けれど、彼女は真っ向から世の中の仕組みに抗える手段を持っていなかった。ささやかな意思表示の手段があるとしたら、それはノートの端に絵を描き続けることぐらいだった。

「君たちは幸福な時代に生まれました。卒業する前に、今後の人生で喜怒哀楽を持つかどうか選べるのですから。不安定な荒波である社会の中を、自分の力だけで生きていくか、それとも、喜怒哀楽を抑え、『モノ』として生きていくか。もちろん、選ぶのは一人一人で、自由です。しかし、先生たちの中に、人として生きていく道を選んだ者はいません。いや、正確には一人だけ居ますが……とにかく、後悔しない選択をしてくださいね」

 深月は答案を見ながら考えごとをしているうち、授業を聞き流していたことに気づいて、ハッとする。不必要に脂肪を蓄え、ふくらんでいる口から出た『モノ』は、モノクロと同じイントネーションを持っていた。ホワイトボードにはこう書かれている。“人生哲学について”

「先生、喜怒哀楽を持たないとどうなるんですか?」

 笠原透が手を挙げていた。深月は、話したこともない彼のことを知っていた。

声は、講義室にいる全員に聞こえる大きさで、ゆったりと反響している。隣にいたほかのクラスメイトが、笑いながらも「やめとけ」と止めていた。新谷潤だった。

 透は深月とは違う人間だった。彼を知らない人はいない。テストの総合点でいつもトップだからだ。たとえ同じ年齢で、同じクラスでも。持っている人間、とでも言えば良いのだろうか。深月がただひたすら無為な時間を過ごしている間、彼はもっと人間らしく生きている。良くも悪くも何かを起こしている。深月にとってそれが羨ましくもあったし、憧れてもいたし、同時にひどく敵視していた。

「笠原くん。良い質問ですね」

 先生は笑い声を気にもとめず、ある一定の間を置いてから返事をした。まるで質問自体が授業に組み込まれていたかのように、「こういった質問が出てくるのも自然でしょう。重要な問題です。薬を飲むときに、その作用と副作用をどちらも知りたいと思うように、ごく当たり前のことです」と前置いた。

「喜怒哀楽を持たなくなると、悩みや、葛藤に苦しむことがなくなります。目にゴミが入らなければ、泣くこともありません。混乱することも、慌てることもなくなります。必要なことを、必要なときに、必要なだけできるようになるでしょう。痛みは健康のために欠かせない機能ですから、それだけはなくなりませんが。手術を行えば、みんな同じ『モノ』になることができますよ」

 教鞭に立つ社会科の先生は、まるで用意されていたかのように流暢な語り口で話した。答えを聞き終わると、質問した透は立ち上がった。隣で笑っていた潤がしがみつくように止めるが、聞く耳を持たない。傍から見ても冷静には見えなかった。

「先生。おれは昨日、嬉しいことがありました。失くしたと思っていた千円が、部屋で見つかったんです。おれは嬉しくて、その千円をコンビニで使い果たしました。おれがモノになったら、こういうことも、嬉しいと感じられなくなるってことですか?」

 講義室の端のほうから、クスクスと笑う声が聞こえた。彼が話した感情のささやかさ、間抜けさに対してだった。深月の声も、その笑い声の一つに混じる。

「それは、あなた個人にとって嬉しい話、ですね。……たしかに、嬉しいと感じられることはなくなります。しかし、苦しみから解放されるのですから、些細なことではありませんか」

「ありえない。おれはこの感情が無くなるなんていやだ。おかしいと思う。みんな平然と聞き流していることすら変だ」

 諭すような言い方をした先生を、彼は一転して睨みつけた。怒りが混じっているが、透は淡々と言い切る。これまでの拙さはどこかへ鳴りを潜めていた。一瞬の間に空気が張り詰めて、講義室にいる生徒全員が黙った。

「ですから。最初に、選択の自由については話した通りです。君はこれからも喜び、苦しめばいい。それも生き方です。今は少なくなってはいますが、そうやって生きている人たちもいます。君たちにとってみれば、選択肢は多い方がいいでしょう。これ以上は、話しても仕方のないことですから、次の話に移ります」

 ええと、と咳払いをした先生は、授業を再開した。矛先を失った透は、不満げに座った。深月は、ああはなりたくないと思った。幼いと思ったからだった。

 彼は自分のしたい話を、一方的に先生にぶつけていたに等しい。いくら感情がないモノだからといって、怒りをぶつけてもいいことにはならないと思う。情けないとは思わないのだろうか。深月は透のことが気にかかったまま、その日の授業をこなしていった。



◇◇◇



「ねえねえ、何描いてんの」

 休み時間になって、講義室から教室に戻った深月はノートの端に絵を描いていた。机に向かっているうちに、話しかけてきた生徒がいた。声に合わせて顔をあげると、げ。と思う。昨日声をあげていた透だった。あまり一緒にいると先生に目をつけられて、内申点を下げられるかもしれない。

「別に」

 深月がシャーペンをすらすらと走らせ、目も合わせずに言うと、ふーん、と透も同じ温度で返した。

「あっ、これ、昨日の倫理の稲村先生でしょ? 似顔絵上手いじゃん」

「勝手に見ないで」

 ノートの一角を指差した透が大きな声を出したので、隠すように腕で覆う。深月が見上げた先には、屈託のない笑顔があった。透が目の前にいると、明るい存在感がある。生き物として、熱を帯びているのが分かる。昨日は遠くから見ているだけで、子供のようにぎゃあぎゃあ喚きたてているようにしか見えなかった彼は、こうして間近で見ると、まるで違った空気をまとっていた。

「なんで隠すんだよ。好きなんだろ、絵描くの。倉石が前から絵を描くのは知ってたけど、初めて見たからさ。生で見るとさ、なんかこう、いいなあ、ってなって、話しかけた。笠原です」

「笠原くんも絵を描くの?」

「いや、ひとが描いたのを見るのは好きなんだけど、おれは描かない。いっぱい練習したんだろうけどさ、さらさらーって描くんだな、と思って」

 透は多少の図太さをあらわにして、他の席から、空いていた椅子を引っ張って座った。向きを変えないで、背もたれを正面に向けたままだった。深月はペンを持ったままの手で、髪の毛を右耳にかける。

「昨日、先生に反抗してたでしょ」

 シャープペンシルを持ち直した深月は、よく肉のついた倫理の先生に影をつけていった。のっぺりした顔をしているのに、体格が良く影が濃い。透は興味深そうに動く手を眺めていた。

「別に反抗がしたかったわけじゃない。ずっと疑問だったんだ。相手がモノじゃなくても訊いてた。先生たちは同じことしか言わないから、どうなんだろうって思ってただけ」

「それにしても、あんな聞き方したら先生は怒るんじゃない? 評価点下げられてもいいの?」

 深月が言った言葉に合わせて、音を立てて透は立ち上がった。音に驚いた深月が手を止める。それを見ていた彼は、すぐさま静かに座り直した。

「そう、そうなんだよ。おれもそう思った。でも、怒ったりしてなかった。『モノ』に感情がないって本当なんだな、ってみんなの前で確認できた。言いたいこと、あるのに言えてない人がいるんじゃないかと思って」

「私も思うところはあるよ。選ぶのは自由、って先生は言ってたけど、先生たちはモノだ、って言われたら、それが正解なのかなって思う」

 透はその通りだと言わんばかりに、ゆっくりと頷いた。

「おれは苦しみがなくなるのはいやだな。喜びがなくなるものいやだけど、人間には、どっちも必要なんじゃないか。『モノ』ばっかりな世の中でも、おれは人間のままでいることを選んだ人たちを集めて、会社でも作りたいよ」

「ええ、会社?」

 突拍子もないように聞こえた深月は、笑い声を漏らしながら聞き直した。少しの間、彼が自分と同じ人間であると信じることができた。

「そう! 例えば、そうだな。深月が絵を描いてくれるなら、それを売るよ。潤にも手伝ってもらおう。ああ、でもみんな人間の会社だと、モノは買ってくれないかも。うーん」

「おいおい、なんで僕が勝手に手伝うことになってんの」

 話を聞きつけた新谷潤が、深月の机の近くへ寄ってきていた。

「いやだってさー、潤はなんでもできるし、やってくれそうじゃん」

「僕に選択の自由はないのかよ。ごめんね、えっと、倉石さんだっけ。透が迷惑をかけてます」

 母さんかよ、と間髪入れずに透が言った。それを聞いて深月の笑い声が響いた。空間が笑っているように思えた。

「ほら、潤のこういうとこさ、秘書みたいな仕事なら向いてると思わない? おれが社長で、秘書が潤、倉石さんは絵描きね」

「だから勝手に決めんなって」

「ほんとだ、こういうところも秘書っぽい」

「だろ? 眼鏡もかけて欲しいくらいだ。スケジュール帳も持ってもらって」

 教室で三人は笑っていた。会社を作るならモノに売れる商品を考えないといけないな、と透は続けた。休み時間が明けるチャイムが鳴った。



◇◇◇



 半期が終わって、休みが明けると、毎年行われている文化祭が行われることになった。各クラスから実行委員の候補者を打ち立て、選挙を行い、クラス全員で催しを推し進めていく委員を選ぶことになっている。候補者を決める会議で、透は、まるで当然のように手を挙げ、立候補していた。

 彼はのちに深月へと得意げに語る。おれの人徳があったから選ばれたんだ、人気があるから実行委員になることができた、と。「ほかに手を挙げた人がいなかったんだから当たり前だ」と潤によって頭をたたかれることにもなる。深月は彼が持っているある種の魅力――人に好かれる力だけは嘘でないように感じていたが、自信過剰すぎるところには苦笑いした。やっぱり違う人間で、彼と同じような考え方はできない。

「潤、実行委員は二人必要らしいんだ。もちろん手伝ってくれるよな?」

 一人だけ手を挙げている会議、教室の中で、透は潤を推薦した。

「いや、僕には部活があるから無理だね。そんな当然のように言われても」

 クラス中から「実行委員のもう一人はもちろん新谷だろう」と思われていたせいで、どよめきが広がっていく。じゃあ一体誰がやるんだ、俺はやりたくない、私も、忙しいもんね、あちこちからそう聞こえた。潤は混沌としだしたクラスを収めるため、打開策を提示することにした。

「倉石さんはどう? 今年の内容なら、実行委員が絵を描けるのは適任だと思う、透とも仲良いし」

 まえぶれもなく白羽の矢がたった深月はぼやいた。

「やったことないから、できるかな……」

 そんな深月をよそに、委員を早く決めたい担任とクラスによって、ほとんど決まったかのような空気が出来上がる。深月は勢いに弱い。自分の主張をするべきタイミングをきれいに見失って、気持ちすら分からなくなってしまう。それこそが透と決定的に違う部分で、どうやっても変えられない部分であって、本人がきらっている部分だった。

「倉石さん。一緒にやってみようよ」

 見かねた透が、どうするか迷っている深月に言った。深月には、その言葉に迷いを断ち切るような強引さも、拒否すら受け入れる懐の深さもあるように思えた。彼の不躾さを睨みつけ、それから潔さに救われた。潤が深月の目を覗き込む。教室にいる誰もが、彼女の返事を待った。

「分かった、やってみる、一緒に」


「って言ったけどさ」

 深月は体育館から段ボールの山を眺めながら、早くも自分が実行委員を選んだことを後悔していた。



......続く

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