黒翼のあやかし、同居の女教師を甘やかす

依月さかな

鴉天狗と枯れそうな女教師

 京の山を出て辺鄙へんぴな町に移住してからしばらく経つ。

 どういうわけか、俺様はとある人間の女が住む家に転がり込む羽目になっていた。


 同棲、いや同居なのか。ともかく、一緒に住み始めてから一ヶ月が経った。

 そこらじゅうにベタベタ貼ってある俺様に似た男の絵が描いてある紙や祭壇のようななにか。だいぶ見慣れてきて、背景の一部になってきた。

 娘は「パパがいっぱい」と言って喜んでいるが。俺様のがもっといい男だっての。


 俺様と娘は人間じゃない。からす天狗と呼ばれるあやかしだ。だから名前なんて持たない。


 どうして人間たちが住まうアパートという共同住宅にいる羽目になったのかというと、ある人間の女と出会ってしまったためだった。

 肩よりも長い茶髪の若い女だった。手のひらサイズの機械を片手にじっと俺様の顔を見ていたのが印象的だ。

 先に会ったのは娘だった。俺様は迷子の娘を探し回っていたところ、その女に会ったというわけだ。

 まだ小さい娘は食欲旺盛な成長期で、よく人間の食いもんの手を出してしまう。その日も同じで、女が持っていたチョコプリンを食っていた。


「お金がないなら私の家に来ませんか!?」


 突然そう言われ時、間抜けにもぽかんと口を開けて固まった。

 断じて誘い文句に惹かれたわけじゃない。が、今にも射殺いころしそうな目力の強さと迫ってくるような勢いに押されたのは事実だ。

 決定的だったのは、娘がその女に懐いてしまったこと。「お姉ちゃんの家に行くっ」と言って聞かなくなってしまい、なし崩しのままこうして人間の女の世話になっている。


 小さな娘を抱えたひとり親をやっている俺様だが、これでも少し前は京の山で何十人ものの部下を抱える総大将だった。修行はそれなりに詰んだし、数多くいる同胞の中でもかなり強い方だという自負もある。

 そんな俺様が一人の女にただ世話になったままでいるというのが、ひどく落ち着かない。


 平日の真っ昼間から、娘は平たい板みたいなチョコを頬張っている。この菓子は当然ながら女が買い与えてくれたものだ。

 娘には今まで俺様の妖力を食わせていた。念じれば、まあるいかたまりになった妖力が出るから、それを与えていたんだ。けれども最近は人間の食いもんの味を覚えてしまったせいか、まったく食わなくなってしまった。

 だから今ではこうして、俺様の妖力でコーティングした市販品の菓子を食うことで、娘の栄養を補っている。


 市販品——人間たちの菓子は金がないと手に入れることはできない。

 つまり、過程はどうあれ結果的には、金がないから河野かわの彩という人間の女の世話になってしまっているのが現状なんだよな。


「恩を受けてばかりじゃいけねえよなあ」


 ぽつりとつぶやけば、菓子を食い終わった娘が寄ってきた。

 口のまわりについたチョコレートをティッシュで拭ってやる。この紙切れ一枚でさえ手に入れる手段さえ、俺様には持ってない。ひどくもどかしい。


「あたしもお姉ちゃんにお礼したい。お姉ちゃんのごはん、すっごく美味しいもん。パパのこと大好きだし」

「だからあれは俺様じゃなくて、俺様に似た架空の人物だっての。第一、会ったのはあれが初めてだろうが」


 彩は部屋じゅうに貼ってある紙に描かれている男、俺様に似た男が好きらしい。断じて俺様自身ではない。

 なのにいくら説明しても、娘は彩が俺様のことを好きだと思い込んでいる。


 同居生活を始めてからわかってきたことがある。

 彩は趣味で追っかけている男と容姿が似ているから、俺様に声をかけたに過ぎなかったのだ。まあ、おかげでちっとも笑わなくなった娘は元気そうだし、俺様はそれで構わねえんだけどな。


「鴉天狗として、受けた恩は絶対に返さなくちゃなんねえんだよ。知恵を貸してくれるか?」

「うーん、そうだねえ。お姉ちゃん、最近お仕事がいそがしくて枯れそうって言ってた。甘やかしてほしいって」

「……そういや最近帰り遅いもんな」


 昔は人間の女と言えば家仕事をしていたように思えるが、今の時代はどうもそうじゃないらしい。彩は家を出て、男どもと同じように外で仕事をする。どんなに疲れていても娘の食事まで用意してくれるし、一緒にげえむってやつで遊んで面倒は見てくれる。

 つーか、女が甘やかされてるって感じるのはどういう時なんだ?


 娘はついに考えるのに飽きてしまったらしく、本棚から薄い本を引き抜いてパラパラとめくり始めた。彩の私物を壊さねえように横目で見張りながら考える。

 一日仕事で疲れて帰ってきた時、甘やかされてるって感じる瞬間ってどんな時だっけ。


 時計の秒針の音がコチコチと音を立てる。

 耳障りなその音を聞きながらしばらく考えたあと、ふと俺様の第六感インスピレーションが働いた。いいアイデアが思いついたかもしれない。


「パパ、どうしたの?」


 見あげてくる娘の黒い頭をなでてやった。唇を引き上げ、自信たっぷりに笑ってみせる。


「いいことを思いついたんだよ。お前も付き合ってくれないか?」

「うん!」




 ☆ ★ ☆




 彩は今日も疲れ切った様子で帰宅したようだった。

 「ただいまぁ」というか細い声がもうすでに哀愁が漂っている。かちゃりとドアが開いた途端、いつもと同じように娘は弾丸のように飛び出して彩に抱きついた。


「おかえり、お姉ちゃん!」


 今日の彩は食料の詰まったビニール袋を二つ提げていた。

 どんなに重い荷物を抱えていようが、どんなに疲れていようが、彩は娘に嫌な顔を見せない。今もしゃがみ込んで娘と目線を合わせ、「ただいま」とやわらかく微笑みかけていた。


 彼女が義務ではなく、好きで娘の面倒を見てくれているってことはわかっている。だから、こっちも卑屈になることはねえんだよな。俺様は俺様で好きにやらせてもらうだけだ。


「ちょっと待っててね。今ごはん作るから」

「作らなくって大丈夫なんだよ。今日の晩ごはんはね、パパとあたしで作ったの!」

「——へ?」


 細い腕からぼとりと買い物袋が落ちた。

 それ食料が入ってんだろ。床に落として大丈夫なのか。


「えっと、どういうこと、ですか?」


 この女、どうして俺様には未だに敬語を通すのか。胸の奥底でもやっとしたが、今は知らぬ振りを通す。


「聞いたままだぜ? 食事だけじゃなく風呂の準備もできてる」

「うそぉ!? 天狗さんがぜんぶしてくれたんですか? イケメンなだけじゃなく家事スキル持ちだったんですか!?」

「……お前、時々妙な呪文みてえな言葉を口走るよな。こんなん、鴉天狗の男としてはできて当たり前だろ。俺様だって、下積み時代は――」

「パパ、ごはん冷めちゃう!」


 娘の抗議が入ってしまった。

 それもそうだ。いつまでも玄関に突っ立っているわけにもいかない。早く飯を食べさせねえとな。


「鴉天狗は受けた恩を必ず返す。とにかく、早く食ってゆっくり休んで明日に備えろ。いつもありがとな、彩」


 ごく自然に出た言葉だった。気付くと口から出ていた、そんな感じだった。

 そのあとなぜか彩は号泣し、娘にはぽかぽかと腹を殴られた挙句、「パパのバカ。お姉ちゃんを泣かせるなんて最低っ」となじられた。納得がいかない。


 けど、泣きんで落ち着いたあと、彩は俺様と娘が作った肉じゃがを美味そうに頬張ってくれた。嬉しそうな姿が見られたからよしとする。

 うまいもん食べるとしあわせな気持ちになるもんな。娘だってそうだし。

 ——にしても、泣いたり笑ったりして忙しいやつだな。表裏がないっつーか。だから娘も彼女に懐くんだろうか。


「……おもしれえ女」

「その台詞、初めて生で聞きましたっ」


 なんでもないつぶやきだったのに、彩にはなぜか食い気味に反応された。

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