請暇

深川夏眠

請暇(せいか)


 あたくしが祖母から聞きましたのでね、何でももう随分、相当昔のことで。

 祖母の名はてる、祖父は龍一郎と申しました。龍一郎は軍務で乗船していた際、急な高熱に襲われて苦しんだ晩があったとか。ここで死ぬのは嫌だ、せめて家に帰りたいと、朦朧とする意識の中で必死に念じたといいます。

 まさにその時分、寝室でとこに就いていた輝子はと蒲団を跳ねのけ、説明のつかない直感で夫の危機を察し、家中を巡って、寝ぼけまなこで起き出した子供たちを驚かせたと申します。

「お父さまがお帰りになりたがっているわ。縁側から部屋に上がりたいって」

 輝子は子供らの不審げな顔など目に入らぬ様子で、深夜に雨戸を力任せに引き開けた。その瞬間、ゴォォォゥゥゥッ――と強風が吹き込んだ。室内の調度は震え、掻き乱され、輝子も子供たちも髪と言わず寝間着の裾と言わず滅茶苦茶に煽り立てられてしまった。滲んだあんの中で、はははさながら幽鬼のごとき形相でしたろう。

 隠世かくりよから吹くかのような湿った冷たい風が止み、ホッと胸を撫で下ろした長女の寿かず――これがあたくしの母ですけれども――が我に返って灯りを点けますと、小さな階段箪笥の引き出しが一つ、滑り出ていた。そこに入っていたのは龍一郎が万病に効くと称しておりふし服用している粉薬の包みだったのです。

 後日、船医さんの処置の甲斐あって快癒した龍一郎は無事、帰宅しましたけれども、話を突き合わせますと、まさに輝子が取り乱して馳せ回っておりました頃、龍一郎は濡れ縁に面した和室に上がって、いつもの薬を吞みたいと、ゆめうつつに願っていたそうでございます。




                 請暇【了】




*2022年3月 書き下ろし。

*縦書き版は

 Romancer『掌編 -Short Short Stories-』にて無料でお読みいただけます。

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116877&post_type=rmcposts

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請暇 深川夏眠 @fukagawanatsumi

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